たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

24年が過ぎました

2017年09月23日 18時48分41秒 | 祈り
 昨夜から秋雨の涼しい一日、24年前の9月23日、突然旅立ってしまった妹を見送った時はすごく蒸し暑かったようが気がしますが、記憶はだんだんと遠ざかりつつあります。色々なことがありすぎました。七転八倒しながらここまで生きてきました。今のわたしはまた失業者で社会の中では何の価値もありません。父も母も旅立ったし、子供がいるわけでなし、わたしがいなくなったところで困る人は誰もいません。それでも自分のためにもう少し生き延びていきたい、わたしが生きることできっと妹の命も生き続ける、わたしが妹のことを語ることで妹の命も生き続けるという想いがあり、ちっそくしそうになりながらもなんとかこうして生き延びています。

4年前のわたしはクソな会社で強いストレスにさらされ続けながら耐えるだけ耐えていました。

2013年9月21日「秋の空に祈りを込めて」
http://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/7a0fc4ea071a8e413ac471fc2859de7f

3年前の秋のわたしは、クソな会社に使い捨てにされて半年後、気づいたら労働委員会での紛争になっており全く予想だにしなかった事態の渦中の中で、クソな弁護士に人としての尊厳を傷つけられて、さらに強いストレスにさらされ、体重は38キロを切っていました。

手帳にこんなことを書き綴っていました。その頃はブログに書くことができませんでした。

「2014年10月12日(日)

 今日も三度寝。7時頃人の話し声がきこえたような気がして目がさめてしまった。なんだったんだろう。わからない。たぶん、かなり疲れている。
 
 下北沢タウンホールで、サポコハウスオープン記念として、世田谷事件のご遺族の入江杏さんと世田谷区長の保坂展人さんの対談があった。断片的だが、記憶にあるところと自分の思いを書いてみたいと思う。

 入江さんは事件後6年間、事件遺族であることを隠し続けられたそうだ。6年後に本を出版された時、朝日新聞に大き写真が掲載され、初めて事件遺族の当事者として社会に顔を出された時、PTAのお母さんたちは、40人のうち3人しか気づいていなかった。「どうなってしまうんだろう」とドキドキしていたが案外人は気づかないものだ。社会に顔を出したりしたら、地域から孤立していくと忠告してくれる人もあったそうだ。

 〇月〇〇日の派遣法改正に反対する集会に行くとしたら、私はハケン切りにあった当事者としてどこまで堂々と社会に顔を出していける勇気があるか、行くべきか・・・、迷っている。もしメディアの目に留まって取材を受けることになったとしても、圧力がかかってくるので報道されるまでのハードルは高いそうだ。もし報道されるとしたら、メディアが求めるハケン切りにあった人間像になっていくんだろうな。私の思い、そのまんまということはあり得ない。社会の倫理観に訴えていくという意味でも必要ではあるが、当然賛成ばかりではない。むずかしい所だ。

 いじめで自殺した子どもの両親が納得できないと教育委員会に訴え続ける。最初は賛成だった社会が、いつの間にか、「あなたたちがゴチャゴチャ言わなければ話は終わるのよ」になって、無言電話がかかってきたり、嫌がらせを受けるようになる。いつの間にか、話は終わったことにされてしまい、なぜ子供は死んだのか両親は知ることができない、という話を保坂さんがされた。

 私は今回の雇い止めの件で、社会の仕組みがそうなっていることをすごく理解できる。当事者が真実を知るためには、はかり知れないエネルギーを消耗しなければならないのだ、こんなことでさえも・・・。同じ苦労をしている人は、世の中にたくさんいらっしゃるに違いない。

 グリーフ-仕事を突然失ったことも大きな喪失だ。13年間一生懸命働いてきて最後は部品のようにモノ扱いされて、使い捨てにされたというのは、やはり大変なことだ。このチャンスをどうこれからの人生に生かしていけるのか、私自身が問われていると思う。

 私は今自死遺族という私とハケン切りにあった「ワタシ」が社会の中でつながってほしくないと思っている。ハケンをやってきた「ワタシ」を上手く消化することができなくって、二人の私のバランスが自分の中でとれていない。悪いことしたわけじゃないし、別にいいのかもしれないが、どうなんだろう。よくわからない。ピンチはチャンス。両方の体験を統合して、生かしていくことだってできる。

 迷惑かけることは悪いことじゃない。困った時に、「助けて」、「教えて」といえる人間関係を持っていることが大切。迷惑かけたり、かけられたり、お互いさま。そういう場づくりとしてサポートハウスは必要というこどた。

 杏さんが、警察に対していちばんあるのは”怒り”だと最後に話された。私が★★会社で感じ続けてきて、でも一生懸命封じ込め続けてきて、でも封じ込めきれなくなった”怒り”という感情。利潤追求の企業社会の中では表現することが許されない感情だ。だからすごく息苦しかった。辛かった。”怒り”の感情と向き合う、ネガティブとされている感情と向き合う。表現することが許される場は限られている。どう向き合い表現していくのか-ずっと考え続けている。あらためて考えさせられる。自分の中にあって、見て見ないふりをできなかった”怒り”の感情-どう消化していくのか。手帳を読み返すと、怒りと辛さをずっと私は書いていて、★★会社で働くことが本当に苦しかったんだとあらためて思う。すごくねじれていた。これからどこでどうやって生きて行けばいいのか、答えは見つからない。

 一部上場の大会社を相手にしているので、示談に向けて、私が当事者として社会に顔を出していくしかない。ビラ巻きを私がやるのはつらいことを直接的ではないが伝えたら、ユニオンが私抜きでやってくれることになった。私はどこまでやれるだろう?やるべきだろう?わからない。雇い止めにあって、納得できないとがんばっていることで、今まで見えなかったたくさんのことが見えてくるようになった。きっとこれから生かしていけると思う。

「ハケンってそういうもんだってわかってやってきたんでしょ」、「自分の責任でしょ」、そういうの辛い。自己責任だけになってしまうのは苦しい。自死遺族という自分の立場を人に言えない、言ってはいけないような感じで長い間きたけれど、こうして今自己開示して受け入れられている。21年前はこういう社会ではなかった。場もなかった。そういう意味では社会は変わったんだと思う。いつの間にか変わっていた。21年は長い。貴重な日々・・・。」

2年前のわたしは擦り切れるだけ擦り切れて気力が尽き果てながら、社会への怒りと悔しさのマグマが噴火し続けるばかりでどうにもなりませんでした。あんなに働いていたのに、また働く自分の姿を想像することが全くできませんでした。

1年前のわたしは運とタイミングでご縁があった就労場所で働き、キイキイ声の上司に納得のできない怒られ方をし続けて耐えがたい日々なれど、一日一日で結果的に年末の契約終了までやり遂げました。

今年に入り、つながったご縁からさらに精神保健福祉士をもっていることで細切れですが仕事へとつながるご縁があり、スーパーウルトラハードな仕事を結果的に契約終了までなんとかやり遂げました。短期間でそれまで知らなかったたくさんのことを知りとても勉強になりました。父のこと、母のこと、妹のことの受け止め方も変わりました。そして今また仕事との縁が途切れている孤独な日々。ハードだとわかりつつ、スタミナもつかなという不安ありつつ、また同じ業務のアルバイトをやってみようかなという気持ちになってきています。一年がんばればいいんだし、がんばれなかったら逃げればいいだけのことだし、少しわかってきたことをやった方がまた一から全く知らないところでスタートしようとするよりも気持ちが楽だし、もう少し勉強してみたいという気持ちがあります。自死遺族支援に関わりたいとか、自殺防止に関わりたいとか、とりわけ3.11のあとは色々な想いがあふれかえりすぎるだけでなにができるわけでもない自分がもどかしくてどうしようもありませんでしたが、国家試験合格から10年余りが過ぎて、たまたま援助職のはしくれを経験しました。一般的には嫌がられるあまりいい仕事ではありませんが、お金をいただくための仕事としてどうしてもやりたいということはありません。だからというのもヘンなのかもしれませんが、資格が生かせるし、知らないところを手探りしながらさがしていくだけの時間もエネルギーもないのでせっかくご縁ができたところでもう少しやってみようかな。来週また相談窓口に行く予定なので、まだ間に合えばトライしてみようかな。

 24年が過ぎました。直後から自分を責め続けた、のたうち回るような日々が長い間あったことが遠いことのように思えます。杏さんにはブログにお名前を出して書いてかまわないということ、3年前に了承いただいています。3年が過ぎてようやく書けました。

 長文をお読みくださり、ありがとうございました。








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