アグリコ日記

岩手の山里からお届けするさまざまな動物や植物、生き物たちとの共同生活。

ダンゴムシ現象

2008-10-30 18:54:12 | 思い
 公園で子どもらが屈んで遊んでいる。なにか探しものをするように、手を地面に這わせてるようだ。手にはマクドナルドの紙コップ。ははあ、さてはきれいな小石でも集めてるのか。近寄って手元を覗くと、そのコップにはダンゴムシがぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。

 このダンゴムシを集めて遊ぶ子どもの姿は、今や都市や住宅地ではごく普通に見られるようになったという。まちの子どもたちは生きものに触れようと思っても、日常手の届く範囲にはダンゴムシやアリしかいないのだろう。それ以外の実物となると、動物園のトラやキリン。しかし後者は檻の中のものを「観る」のであって触れるものではない。だから彼らはせっせと身近にある「動くもの」を集めては、自分の支配下に置くことを楽しむ。これが彼らと生きものたちとの、初期の大切な出会いである。こうして集められたダンゴムシのどれだけが、また元の公園の地面に放してもらえるだろうか。彼らは幼い人間の手をとおして、同じ生きものとしての尊厳と大切さでもって扱ってもらえるのだろうか。
 私も子どもの頃、ダンゴムシで遊んだ覚えがある。庭をトコトコ歩いてて触るとコロリと丸まる。それでいてじっと見てるとやがてまたもっそりと歩き出す。そんなユーモラスなあり様が、あの頃出会うものすべてに新鮮さを感じてやまない子供心を惹きつけたものだった。でも庭には他にもっと多くの虫たちがいたし、そばの空き地には、じきにそれよりずっと魅力的な数々の遊びが待っていることを知るようになった。ダンゴムシで遊んだ記憶は人生のほんの一瞬、幼い頃のおぼろな記憶の中にだけ残されている。
 しかし現代の子どもたちは小学校中学年頃まで、せっせとダンゴムシを集め続けるというのである。

 先日市内のある地区で行われている放課後子供教室に参加してきた。核家族化・共働きが当たり前となった今、学校がひけてから両親が自宅に帰るまで、子どもらはひとり取り残されることになる。
 なにもそんな過保護なことをしなくても、子どもらを自由に遊ばせてやればいいじゃないか。学校からの帰り道、田の畦道や裏路地にかけて、植え込みの木々や道草の色変わりを眼に留め、季節の生の移ろいを肌で感じながら、昔から子どもらは時を忘れて遊んだものだった。
 でも今の親はそうは考えない。平和で安全だった昔とは違うのだ。通りには車が溢れ、人の目の行き届かない箇所には不審者や痴漢が潜んでいる。田も畑も農薬によって、もはや子どもらの遊び場には適さなくなった。それにみだりに他人の敷地内に入るなどして、人様に迷惑をかけるようなことがあってはならない。加えて今の子どもらはただでさえ塾や課外活動などで忙しい。昔のように三々五々気の合った友達と連れだって歩くなんて、そんな悠長な図は描けないのだ。仮にひとりが自由に遊べたとしても、誰が彼と一緒に遊べるというのだろう。実際戸外を駆け回るよりも、家の中でパソコンやゲームでひとり遊ぶ子どもらの方が圧倒的に多いのだ。それが友達がいない結果そうなったのか、そうした結果お互いに遊ぶことをやめてしまったのか、今ではもう卵と鶏の話になってしまう。授業が終われば学校からは追い出されるし、かといって家に帰っても両親はいないし誰も彼らの相手をしてくれない。私の住む、こんな田舎でもそうなのだ。とにかく今は日本中の子どもたちが、みな孤独な檻の中に取り残されてしまっている。
 もちろんそんな環境を率先して作ったのは今の大人たちである。親はみな一人に一台自家用車を乗り回して、ただでさえ悪い道路事情を更に険悪なものにする。日常が日常なものだから、もちろん子どもらが必要としている時になど一緒にいてやれない。ただやれ教育費がかかるの、何を買い揃えなくちゃならないのと呟きながら、あくせくとまるで自分だけが世の中の仕事を一身に背負ったようにして日々を暮らしている。そんなもんだから一番大事な存在に手をかけてはやらない。わが子も生きている、かけがえのないいのちを持ってる存在だということなんか忘れてるみたいだ。いやそれより以前に、生きものってどんなものかということを、彼ら自身がわかってないのかもしれない。「世間並みに」家の中に家具や家電製品をたらふく詰め込みながら、週末は娯楽だ外食だ行楽だとやたらとお金を使う遊びに子どもらを引きずりまわしている。
 もはやこの社会にあって、子どもは本当は、一番大切な「生きもの」だってことを認識してる人などいないのだ。だから当の子どもたちはすっかりひしゃげてしまって、放っておけばダンゴムシを集めることより他にすることもない。
 それゆえ放課後の子どもたちの「安全と健全な遊び」を確保するために、彼らを一堂に集めて父兄を中心にした大人が持ち回りで管理しようということになったのだ。しかし打ち明けて言えば、これは子どものことを考えてというよりか、親の都合に合わせた、ただそれだけでしかない。
 そのような地域活動の一環にたまたま私も加わることになったのだが、しかしまず、授業が終わった後に当番の父兄に引率されて、学校からぞろぞろと出てくる子どもたちの姿を見て唖然とした。社会科見学の行列とどこが違うのだろう。昔の子どもらが持っていた放課後の自由さはすっかり奪い去られて、彼らはただ管理されて歩いている囚人そのものだった。
 子どもたちは一年から六年まで一律、学校から地区センター(昔の公民館)に移送されて、その日用意されたプログラムに則って行動する。その日地区センターで待ち構えていた私たちは、まずは調理室を使って簡単なおやつを作り、そしてそれを食べた後で「地球温暖化」をテーマにした紙芝居と、以下大人の用意した遊具などを用いた遊びの時間に移行する。それはそれなりに、どのプログラムも当番の人たちが知恵を絞って考えただけあって楽しいものだったけれど、しかし子どもらの笑顔に本来の明るさを見出しえなかったのは私だけだったろうか。違う。子どもらの笑顔はこんなものではない。
 触れられすぎて四肢をもがれたダンゴムシになってしまった子どもたちの姿が瞼に浮かんだ。教育だ課外活動だ宿題だ家庭のレジャーだと引き回される中で、唯一彼らに残されたささやかな自由も、このようにして毟り取られてしまったのだ。

 思い起こせば私も子どもの頃、ダンボール箱一杯のカブトムシをもらって喜んで飼って、やがて全部死なせてしまったことがあった。子ども心に悲しさに胸が詰まり、以来虫たちは捕まえてもみんな放してやることにした。そうして私も一歩一歩、生きもののこと、いのちのこと、人間のことを覚えていったのだと思う。
 まちの子どもたちがダンゴムシを集める姿は、なにか未来の彼らの人間像を象徴しているように見えてそら恐ろしい。実は緑豊かなはずの田舎に住んでいても、実際に子どもらの行っていることはそれとあまり大差ないのだ。その原因はそもそも大人たちが野外に出なくなったことによる。いのちを尊ばず自然の生きものを自分たちの身の周りから排除していった当然の結末。子どもらは例えどんな環境にいようとも、生まれ落ちてからひたすら無心に親の影を追い回しつつ成長していくものだから。
 ダンゴムシと人間とではあまりに開きが大き過ぎるので、彼ら自身いつまで経ってもいのちのこと、人間のことに思いを致せないのではなかろうか。もしそれを強引に「生きものと人間とは同じいのちを持っている」などと結び付けようとしたら、かえって紙コップのダンゴムシと同じように、彼らは人間を無慈悲に無頓着に扱おうとはしまいか。
 小ざっぱりと整えられ芝生が敷き詰められ花壇が設けられた街角の公園。お決まりのように砂場があって今はやりの遊具がひととおり設置されている。でもここには生きものがいないのだ。昔荒地のように見えて、実は住宅街に残された生きものたちの唯一の避難場所だったこの土地この場所を、市は税金を使って徹底的に破壊して、こんな場所に変えてしまった。そこで子どもたちは他になんの選択肢を選ぶ権利も与えられずに、ただダンゴムシをコップに詰めて遊びながら大きくなっていく。それが彼らの触れられる唯一の生きものだったのだ。
 もう時代はすっかり変わってしまった。昔私たちの求めた安楽さと便利さ豊かさは、それを手に入れる反面他の生きものや子どもたちからかけがえのないものを奪いとってしまった。他でもない自分が、まぎれもなくそれをしてきた社会の一員だったということが、えも言われず哀しい。




 
コメント (2) | トラックバック (0) | この記事についてブログを書く |   | goo

2 コメント

昨日一日 (ドミノ)
2008-10-31 14:09:30
かるい気持ちで行った検診で、異常がみつかり、あれやこれや検査をし、最後は細胞検査でした。結果が出るまで、まな板の上のイノシシ状態(干支)で、人生が終わってしまうと覚悟していましたが、セーフでした。先生の前で、うれし涙を流してしまいました。健康って、生きてるって大事だなぁと思いました。さて、ダンゴムシと今時の子供たち、なるほどと思いました。私はこどもの頃、アリの出入りしている石を上げて見たら、白い卵がたくさんあって、アリに思いっきり噛まれて痛かった事を覚えています。卵を守るのに必死なんだな〜と。オニヤンマやイソメに噛まれるほど痛かったんですよ。ふ〜ん、授業が終わっても、第二の授業のようですね。大人も大変ですね、町内会の役員決めだけでも毎年もめるのに…。
子どもたちにとっては・・・ (agrico)
2008-10-31 17:45:50
悲劇に近いのかもしれません。親の方は、自分たちの選んで来た行動の延長線上にあるのだから可哀想でもなんでもない。子どものためを考えれば、今の状況を変えるためにまず自分たちの生活スタイルを改めないとならないのですが、その意欲も勇気もない。
むしろ大変なのは、これによって地球上の生きものが蒙る損失だと思います。大人の方は、このことによって今までの態度を肯定するようなものなのだから、従来の生きものに対する態度を改める気にはならないでしょう。また子どもたちはこれからますます、生きものを生きものとも思わない人間に育ってしまうのかもしれませんね。
でも人間は、そうなってからが勝負なのかもしれない。ガンや障害者になってから人生の本当の意味を見出した人は多いと聞きます。今社会はまさに、そのような状態に一歩一歩近づいているような気がします。
人はどうでもいいことに神経を使い血道を挙げ、そしてそのことに気づかずに死んでいったりするのでしょうね。

コメントを投稿

 ※ 
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。
※文字化け等の原因になりますので、顔文字の利用はお控えください。
下記数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。この数字を読み取っていただくことで自動化されたプログラムによる投稿でないことを確認させていただいております。
数字4桁

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL