アグリコ日記

岩手の山里からお届けするさまざまな動物や植物、生き物たちとの共同生活。

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今、地球は、 5

2017-02-02 09:07:56 | 思い
 ここで信念体系探求に関わる事例を一つ紹介しよう。これから自分の信念と向き合う人は様々な、本当に様々な発見と経験を手にすることだろう。中には相当にショックなこともあれば長い間の謎が一挙に氷解したような、そんな思いを味わうこともあるに違いない。これはそれらに立ち向かうためのほんの小さな参考(あくまで他の人の体験)として受け取ってもらえればいい。
 僕はごく幼い頃から、家でも人前でもすぐにぐずってイヤイヤと泣き喚く子どもだった。時に日曜日のスーパーなどで見かけたりする、なにかが気に入らなくて手足をバタバタ振り回したり大の字になったりして大泣きしている子ども。親にとっては本当に厄介な、とても面倒な子どもだ。自分もかつてああだったんだな。そしてそのたびに、(僕の場合)手酷い折檻があって更に泣き叫ぶことになるのだが、それでもそれは無くならないどころか度々そうなった。今ではそれがどうして起こったのかがわかる。
 先にも述べたとおり、子どもは言語を習得するずっと以前(生まれ落ちた瞬間)から周囲の人間の発するエネルギーを受け取っている。これは本当は大人でも同じことが言えるのだけれど、子ども時代に目に見えないもの(真実)は無視し、代わりに言葉(往々にしてウソが多い)を信じるよう入念に訓練されるので、エネルギーを解する能力が格段に鈍くなってしまっている(というか、そんなものがあることさえすっかり忘れてしまっている)。両親の愛も苛立ちも、驚きも喜びも感謝も失望感もめんど臭いやうるさいゾという思いも、それが子どもに向けられたものかどうかを問わず、また発した本人が意識していない深層領域までも含めて、子どもは自分の上を飛び交うものすべてをそのままの形で吸収する。そして受け取ったエネルギーは、心まっさら状態の赤子にとっては、とりあえずは三次元世界を知覚経験するために早急に構築しなければならない「信念体系」の最初の材料となる。
 だから子どもの表現するものは、親の信念体系の正確な反映である部分が大きい(その他に子ども自身の持ち来たった部分も確かにある。魂は愛に基づくもの以外持っていない)。ただ先の氷山の例えのとおり、両親が自分の信念体系についてただ水面上の部分しか自覚していなかったりすると、それはとてもそうは見えない。なにしろ自分自身の9割以上に無自覚なのであり、自分をコントロールしている主体は、実はその潜在部分なのだということを知らない。いきなりその裏側の部分を見せられても、まさかそれが自分の姿とは受け取れない。だからそれはあくまで「この子の問題」として解決しようとする。自分の望まないことを子どもがしている。それは(当然)この子に問題があるからだ。自分はそんなこと教えていないし希望してもいなかった。だからなんとかして、この子どもを矯正し過ちを正してこんなことしないようにさせないとならない。それがこの子のためなのだ。・・・これは、事の原因を見ずに現象だけを変えようとしていることに等しい。つまり咽喉が痛いのに対して、タバコをやめずにのど飴を舐めて全快を期待するようなものだ。だから症状は繰り返し繰り返し顕れる。一方「処置」される子どもの方は、ただ与えられたものを素直に出しているだけなのに、なぜかそれを否定される。それどころか一方的な懲罰まで加算される。わけがわからない。自分はなにもおかしいことやってない。理不尽だ。・・・また一方親の方は、一向に改善が見られないものだから、あの手この手とやり方を駆使して(大概の場合、多様な罰を加えて)子どもを捏ね繰り回す。これが事態を更に複雑なものにして、子どもの心理に多様なネガティブな信念と傷を新たに加えることになり、また顕れる現象を多くのものが絡み合った複雑怪奇なものにしてしまう。しかし実はこの時、親は自分の深い部分(しかも長い間抑圧し続けてきてコトの存在さえ気づかなかったが、今までの自分の人生に決定的な影響を及ぼし続けてきたなにか!)と向き合っていたのだ。それを見つける絶好のチャンスが、わが子の行動という形をとおして目の前に現れていた。
 人が自らの大切なことに気づかない、というのには誰にとってもそれ相応の理由がある。あまりに辛い体験と繋がっているので浮かび上がらないように固く閉じ込めたり、巧妙に他のものとすり替わっていて注意が逸らされてたり、または真実とは裏腹に(意図的に)美化されてまるでそれがとても大切で美しいものだと思い込んでいたり、あるいは単にあまりに昔のことなので記憶に上らせることができなかったりと状況はさまざまだ。しかしそれを見つけることがその人の人生の目的の上でとても大切な事の場合(それは多くの人にとってそうなのだが)、魂(高次意識の自分)はじっと忍耐強くその機会をうかがって待ち続けている。そしてそのチャンスが今訪れたのだ!親は自分の子に対して特別な注意を注ぐ。「愛」という無条件で純粋な意図をもって子を扱おうとする。だから簡単に目を逸らしたり手放したりすることがない。しかもまっさらな子どもの心は親の信念をそのままのわかりやすい形で映してくれる。こんな絶好の機会を、魂が見逃すはずがない。だからここぞとばかりに全力を尽くしてメッセージを送ってくる。また周囲の人間の言動や動植物(これらは魂の立場から言うと兄弟や従兄弟に当たる)、更には天候や自然現象などを動かして、その人に今、大切なこと必要なことを伝えようとする。たくさんの共時性が起こる。目の前の現象は、当たり前のことが当たり前に起きているに過ぎない。そしてそれは自分自身なんだ。自分の中が(このような形で)顕れている。だからそれを認め、受け入れ、優しく抱きしめる。そうすることによって、それをそのまま持ち続けることも、望むなら変えることもできる。今がその事に気づく時なんだ。人生を変えるチャンスなんだよ、と。
 しかしまあ、現実は僕にとってシビアだった。親父はよく、こいつがこんなことするのは、人前だと怒られないと思ってわざとしてるんだ。親を困らせようとしてるんだ。(だからこうされるのもみんなお前が悪いんだ)と言って、家に帰ってからひどく僕を叩いた。何倍も叩いた。こういう場合に限らずよくあったことだが、家族団らんから外れて僕だけが一人別の部屋で泣き崩れていることがしばしばあった。自分でもどうしてこうなったのかよくわからない。親はみんなお前のせいだと言うけれど、自分には悪意も作為もなく、ただありのままに行動していただけなのだ。なのになんで、僕だけがこうして痛い思いをさせられ、苦しめられ拒絶されて一人寒い部屋に泣いて泣いて泣き続けているのか。父も母も兄も(僕には兄が一人いた)、居間で楽しそうにしている(母はよく、こんな時におやつを出してきたりして、父や兄と殊更笑ったり楽しそうにしたりしたものだった。今思えばそれには、(まるで怯えた子犬の気を引き付けようと目の前に餌をちらつかせるように)僕の気を引いて早く機嫌を直させようとした母なりの思惑があった(そして僕がそれに引っかかると「泣いたカラスがすぐ笑った」と言ってからかったのだったが)。そんなことが僕の幼少年期にたびたびあったが、それが自分の心に塗りこめていった陰の部分についてはほとんど無自覚のままだった(例えば僕は大人になってからもずっと、他の誰かが何人かで楽しそうにしてると、なぜか反射的に言い知れぬ怒りに襲われてしまうのだった。幸せそうにしているそれだけで、その人たちを理屈抜きで憎んでしまう。自分でも長い間どうしてそうなるのかがわからなかった)。
 また兄は兄でそのような経験からいち早く、時に暴力的になる親父から確実に身を守るには、弟が問題を起こして叱られている状況が一番だということを学んだ。親の注意が逸れている間は確実に自分は安全でいられる。そのためには誰か他の者(家の中では弟の僕しかいなかった)がワルモノになっていればいいのだ。だから兄はしょっちゅう(特に父や母に見つからないように)僕を刺激して怒らせたり嫌がらせたり暴れさせたりして問題を起こさせた。そして自分はさも「いい子」然としてすましている(こうして学習習得された兄の信念は、その後の生涯にわたって「自分は優等生、問題を起こすのは常に他の者」の図式を家でも学校でも自分の周りのどこにでも演出することになる(それは往々にして自分だけの思い込みではあったが)。常に自分はいい子であり、悪いのは相手なのだ。仮にどんな悪事を働いても、なぜか彼は自分の非を認めることをせず極めて無理な自己正当化をするのだが、それは傍目にはとても奇異に映った。
 話を僕のことに戻すと、「理不尽なお仕置き⇒一人だけ別室で泣き叫ぶままに放置⇒他の誰も助けてくれない状況」という図式は何度も何度も(半ば習慣的とも言えるくらいに)繰り返された。これによって僕の魂の存在としての尊厳は破壊された。この世界で僕は独りで、孤立無援で、誰も仲間がいない。人生は悲しく辛いものだ。喜びや楽しみはけっして長くは続かない。必ず突発的に(予測不可能な形で)大きな暴虐の嵐に見舞われる。それに対して自分はあまりに弱すぎて対処することができない。自分という存在は、他の誰かに踏みにじられても当然なんだ。・・・この体験を通じて、幼い存在がその核の部分にどのような信念を形成してきたかが少しはわかるだろう。
 結局僕は両親からコピーした信念部分をなんら昇華も解消もすることなく、その上にたくさんの余分なネガティブ信念を追加する形で人生初期の人格形成期を過ごした。しかし傍目からは、僕がそれほどにいじけて萎縮しひねくれた状態にあるという風にはあまり見えなかったかもしれない。他にも大きな信念(似たようなものもあれば、内容的に正反対のものもある。信念体系は自己矛盾的なものを多く含んでいる)をたくさん持っていたし、なにより僕がそんな体験をしているなんて、自分以外の誰も知らなかった。当の両親さえも、自らの信念に基づいて正しいこと、最善のことをしているだけだという自覚はあっても(往々にしてそのような自覚が無い部分もあったが)、自分がわが子を虐待をしているということになどまったく思い至らなかっただろう(また当時は、躾が厳しいこと、子に体罰を加えることが今よりもずっと容認された社会だった)。周りの者は(親戚も含めて)他人の家庭にあまり関心を持ってはいなかったし、また家庭内のことを余所に漏らしたりすると(例えば学校の作文などに書いたりすると)、またひどく叱られた。そして今と違って、そのような時に子どもが駆け込めるような場所も手段も無かった。そしてなにより僕自身が人生早くから「世界はこのようなものだ」と信じてきた(他に比較の対象を持たなかった)ので、それらをみな当たり前のこととして受け留めてきた。
 ここで述べたことだけを見ると、さぞかしこの両親は極悪非道でまるでテレビのニュースに出てくるような最悪の人物なんだろうなと思うかもしれない。が、実際はまるで違う。僕の両親は社会的になんら劣っているとか問題あるとか思われてはいなかった(親父は町内会の区長を長年務めたりして、かえって「立派な人物」と思われていたかもしれない。母もどちらかというと容姿端麗で優等生的で愛嬌があり、僕の目から見ても世間的にはまあまあそんなに悪くはない部類に属する母親だった)。つまりみんなごくごく普通の人物であり家庭だったのだ。ここで述べた事実はあくまで「一つの側面」なのであって、全体のほんの僅かの部分でしかない。つまり誰も、なされた行為が実は子どもにとって深刻な結果を産んでいることに気づいていなかったのだ。なぜか?というもう一つ決定的な理由は、親父もおふくろも、幼年時代に大なり小なり同じような経験を経ていたことにある。それは当時の周りも社会もみんな同じだった。みんな当たり前にそれをして、当たり前にそれを次代に引き継いできた(それがこの地球社会の「地獄性」の元凶と言える。誰も小さな池から外を覗いたことがない)。つまるところ、彼らには他の選択肢が思い浮かばなかったのだ。
 しかし今、世界は大きく変わってきている。僕と同じように、自分のルーツを知りこの地上で歩いてきた道を振り返り、その理由にも目的にも気づき始めている人がたくさん、たくさん現れ始めている。今まで閉じられていた箱が、バンッ!と開かれて誰でもアクセスできるようになっている。これによって今までとはまったく違う可能性、まったく違った世界を選ぶことが現実的な可能性となってきている。
 この参考事例は、僕が自分の信念を探す過程で「見つけた」自分の過去の一コマである。このようなことがあったということは、ぼんやりとは憶えていたしけれど特に楽しい思い出でも思い出すことが大切だとも思わなかったので、そのままずうっとすりガラスの向こう側にしまい込んでいた。ごくたまに寝てる時に(大概は病気でうなされている時に)悪夢のように浮かんで来ることはあったが、ほとんど忘れたままと言ってよかった。それを、信念を探る過程で記憶の蓋がこじ開けられ、当時とは違った、客観的な姿勢で物事の顛末を反復することができた。しかしこれはあくまで「僕の」体験であって、それ以上のなにものでもない。例えば仮に当の両親にこんなことがあったなどと話したとしても(僕の両親はもうとっくに亡くなっているのでそんなこともできないが)、本人はもしかしたらまさか!と否定するかもしれない。それは僕と同じように「臭いものに蓋」をしてきたからかもしれないし、また立場が違えば受け取る体験が全く違うということも事実としてある。例えばこんなことを想像してみてほしい。小さな子どもが(動物でもいい)自分の身の丈の10倍以上もある巨大な生物に(その生きものは感情や行動に一貫性が無く、なぜか折につけ突然粗野で破壊的なエネルギーを撒き散らしたりする。まあ信念体系に支配されている人間というのはえてしてこんなものだ)いきなり押さえつけられ滅茶苦茶に叩かれ始めるということを。彼はなによりもまずエネルギーで、巨大生物の怒りや憎しみ、強烈な不満と害意を感じている。当の生物は、もしかしたら十分に手加減しているつもりかもしれない。でも相手の子どもはそうは受け取っていない。ただただ次の瞬間を予測できない身の危険に晒されて恐怖におののくばかりだ(これはあなたが自分のペットや小動物を同じように扱うときにも言うことができる)。起こった出来事は、必ずしも大人の目線、親の感覚で子どもに受け取られるわけではないのだ。だから体験は、あくまでそれぞれの個人のものであり、同じ場に居合わせた者たち皆が同じものを共有しているということはありえない(特に被害者と加害者が共有していることなどほとんど無い)。
 信念体系は「個性」そのものなので(厳密に言えば「持って生まれた魂の性質と記憶+後天的に獲得した信念体系」が現世でのその人の個性であり、それを人格ともいう)、人によってその構成も構成要素も、また要素各個の位置づけも機能の仕方も現れ方も、千差万別だ。だからこれはあくまで、ある人の場合こんなことがあった、程度に軽く受け取ってほしい。また僕にとっても、これは千もある主要な信念の由来のほんの一つであったにすぎない。みんながみんな同じ経験をしなければならない、なんてことはけっしてないし、そもそもこの宇宙に「同じ経験」というのはありえないものなのだ。
 
 (つづく)
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