アグリコ日記

岩手の山里からお届けするさまざまな動物や植物、生き物たちとの共同生活。

今、地球は、 7

2017-02-20 08:25:39 | 思い
 本題に入る前に、信念体系関連でもう少しだけ付け加えておきたいことがある。これらの情報は、きっと君のこれからの道の助けになるに違いない。
 まずは僕たちの「意識」について若干説明しておきたい。存在の本質は「意識」である。いのちあるものはもちろん、無生物にも、また僕らが通常非物質とみなしているエネルギーだけの存在についてもそれは言える。あらゆる存在には意識があるのだ(例え僕らの目にはそのように見えなくても)。ここではこの三次元世界における僕ら人間の意識について述べる。
 人間を少し高い次元の視点で見た場合、それは「光り輝く球」のように見えるそうだ。それが肉体を持ってこの世界に生きているヒトのエネルギーの体である。そしてその表面近くに、一ヵ所だけひと際輝く点があって、それはそれ自身の輝きにボワッと包まれていて、その周縁は次第に霞んでいる(ペイントソフトのエアブラシで描いた点のようなものかもしれない。輝きは現代人ではちょうど背中に当たる位置にあって、全体の大きさはこぶし大だ)。それがヒトの「意識」の位置だ。各人の知覚する対象、感じ、思考する内容ははその輝きの位置(ここでは便宜上それを「意識の焦点」と呼んでおこう)によって決定される。この位置が少しずれれば、それだけ違った知覚の仕方をする(例えば人によって霊感の強い人がいたり、幽霊や非物質世界の住人を感じたり、また身近な例で言うと同じ道を歩いていても人によって草花や昆虫に目が留まったりそんなものにまったく気付かなかったりするのは、この意識の焦点が各人微妙にずれていることによる)。意識のこの構造は物質・非物質を問わずすべての生命体に言えることで、例えば地球のエネルギー体もこの意識の焦点を持っている。
 ヒトを取り巻く宇宙には常に膨大な数の情報(宇宙を構成する「あらゆる存在の原型」と言ってもいい)が流れており、ヒトはその中でこの意識の焦点を通過するほんの一部のみを知覚している。情報の中にはもちろん物質的なものも含まれるが、その何十倍、何百倍もの非物質的なものがあるそうだ(通常の状態では知覚されないそれらはみなヒトの潜在的な「知覚の可能性」として存在している)。この意識の焦点の位置は、個々人によって違うと同じように、時代や文化、地域の差によっても少しずつ違っている。例えば同じ地域でも時代によって精霊や妖怪、幽霊がよく現れたり、また現れなかったりするのは、この意識の焦点が全体的に少しずつ位置をずらしているからだ。またこの意識の焦点は、眠っている間は流動的であり(フラフラと漂っているそうだ)、目覚めている間もたまにショックなどで位置を(一時的にせよ恒常的にせよ)変えることがある。この意識の焦点を意図的に(望みの位置に)動かすことができれば、物質界を離れて異世界も、高次元世界も探求することができる。幽体離脱や夢の世界、異世界体験などは、この意識の焦点を(意識的にか無意識にか)動かした結果起きる現象である。
 各個体の意識は集まって「集合意識」を形成する。例えばある地域に住む人たちの意識が集まって、その地域特有の集合意識が生まれる(いわゆる「地域性」と呼ばれるメンタリティーもその一部)。各個はみなこの集合意識と繋がっているので、常にその形成に加担していると同時に、その影響も受けている。例えば同じグループに属する他の意識の発想や感情、認識が遠く隔てられた個体に伝わることがある(いわゆる「百匹目のサル現象」。この話自体は創作的要素が強いが、言っている内容は真実を突いている)。全体の大多数の意識が共有する概念は、速やかに全体に広がっていく傾向にある。だから集合意識内の構成員は、総じてみな同じような概念を共有する部分が多い(広告やプロパガンダなどが広く大衆を動員する結果になるのは、それ自体の宣伝努力だけではなくて、この意識の繋がりレベルにおける働きに負うところが大きい)。
 そして地域の集合意識は集まって、より広範囲の集合意識を形成する。国家、広域文化圏と繋がり、最終的には地球レベルの「人類の集合意識」となる。昨今の情報の国際化や公開性は、僕らが個人単位でこの地球規模の集合意識と繋がることを物理的にも容易にしてくれている。その結果より広い範囲の中から情報や発想、保有する概念をダウンロードすることができるようになり、一昔前とは違って、地球上のどの場所にいても各自がそれなりに独自性の高い意識や生き方をすることができるようになった。それが今日意識の「多極化」と呼ばれる現象である。それはあながち悪いことではなくて、(古い体制を打破して)これからの新しい時代を創り上げるための大切な基盤となるものだ(今まで言われてきた、全世界が一つに纏まる、統一国家を作る、大きいものがすべての小さいものを吸収する、という概念は既に過ぎ去った時代の発想である)。これからは小さいもの個々の者が基盤となって、それらを尊重しながら多彩で多極的な文化を形作るような方向に、世界の集合意識は動いている。
 先に、三次元の世界は実は客観的に独立して存在するものではなく、それを観る各人(の意識)が目の前のスクリーンにエネルギーを投影し(それを「物質化」して見ることを選択して)現れたものだと説明した。各自がそれぞれ独自の世界を創っているにもかかわらず、その内容や枠組みが複数の人あるいはすべての人々に共通していたり、また同じ出来事を体験していたりするのは、この集合意識の役に負うところが大きい。繋がる大本(共有する情報)が同じ分だけ、共通性の高い世界を共有することになる。
 集合意識は、各構成員の意識の変化に伴って内容を変えるので、ある意味とても流動的と言える。特に変革や革新の時代にはなおさらだ。例えばかつてはまったく異質、異端的と思われていた概念が、一人から始まって二人、三人と数を増やし、次第にそれを保有する人が増えていけば、やがてそれは加速度的な拡がりを示す可能性を持つ。現代においても、この集合意識は大きく変わりつつある。まだ具体的な形となるには少々間があるが、底辺では従来の社会を支えてきた諸々の概念が覆って、新しいもの、まったく視点を変えた(正反対に近い)ものに置き換わっていっている。例えば世界やモノの本質、ヒトという存在、その生き方などに関しても、今まで流布されなかったさまざまな新しい考え方が徐々に、しかし急速に広まりつつある(ここで僕が述べているような内容についても(それが正しいかどうかはともかくとして)既にたくさんの人がそれを共有しているし、当たり前のこととして受け取っている。場所的にはまったく無名のさもない所から、これまた無名の一個人が、このような内容のことを堂々と発信して、それが受け入れられる時代になったのだ。その意味でも地球規模の集合意識は十分に変わってきていると言える)。
 僕たちは常にこの集合意識から情報(ひらめきや思いつき、想念、あるいはものの見方、考え方)を得ている。だから信念体系をかなり整理したはずなのに、なぜか相変わらず浮かんで来る(ネガティブな)思いや発想は、もしかしたらこの集合意識由来のものかもしれない。信念体系に取り組む以前の僕らの「心」と同じくらいに、現時点でのこの「集合意識」もとてもネガティブ性の強いものなのだ。だからそのような想念が湧き上がってきたとしても、それはこの地球に生きている限りある意味避けられない部分があるのだから、ただ見送ってやるのがいい。それに気づいて、(それにエネルギーを与えることなしに)ただ消え去るに任せる(この事を知らないと、心に沸き起こることがすべて自分のものだと勘違いしてしまい、要らないエネルギーや思考を巡らしてしまいかねない)。中には(人類全体の)集合意識由来のものもあるのだ。すべてを深刻に受け取らないで、ただ「流す」作業も結構大切なものだ。
 この集合意識と個人の意識との関係を、わかりやすく絵に描いてみよう。例えば群衆の中に一人ぽつんと立っている自分を想像してみてほしい。周りを取り囲む人々は、誰もが思い思いに動いてはいるけれど、総じてある方向、漠然とした一つの方向に向かっている。誰も確固たる意思を持って行く先を決めているのではない。ほとんどの人は、ただなんとなく「みんなが行くから」それと同じ方に歩いているだけだ。そこで君もそちらへ歩いて行けば、みんなと同じ終着点に着くことになるだろう(知ってのとおり今時点でのこの地球の集合意識はまだかなりネガティブな状態だから、そこは必ず今までと同じくらいに居心地の悪い場所になるに違いない)。でもここで少し周りをよく見回してみよう。群衆の中には、ほんの一握りだがそちらの方向には行かずに、自分独自の方向に向かって歩いている人もいる。周りがみんな右を向いているときに左を向くというのは、ある意味勇気ある行動だ。なんらかの意思が求められる。そのような人が辿り着く先は、もちろん大多数の人とは違う場所になる。試しにその人たちの向かう方向へ歩を進めてみようか。すると今まで気づかなかったけれど、やはり同じようにその方向に歩き始めている人が、何人も何人も見えてくるようになる。・・・今の地球はだいたいこんな感じだ。
 意識の焦点の位置は、各人の信念体系が決めている部分が大きい。平面図的に言えば、近い信念体系の者同士は比較的近い位置に意識の焦点を持ち、違う者同士は離れた位置に、といった具合だ。そして信念体系が強固なほど、意識の焦点は同じ位置に固着する(つまり流動性を失う)。いわゆる意識を拡げる、向上させるためには当然のことながら、意識の焦点の位置を移動させないとならないわけだが、信念体系に支配されている状況下ではそれが難しくなっている。一方集合意識レベルでは、一部でもいいから構成員の信念体系が簡素化されれば、それに応じて他の全員の信念体系が簡素化されやすくなる(それをする基盤ができてくる)という現象が起きる。だから解放された者が増えるにつれて、その分だけ他の個人も信念体系から脱するのが容易になってくる。一人の行動は(意識下で)全体に影響を与え、全体は常に全員に影響力を持つ。だから自分個人が目覚めることは、結果的にすべての人に目覚めのチャンスを与えることになる。
 今の地球の現状を言えば、世界中で信念体系を整理して本来の自分自身に目覚めつつある人が急激に増えている。その人たちが道を開いた(集合意識を変えてきた)おかげで、今僕たちは自分の信念体系を変えることが(以前より)とても容易になっている。先駆けの人たちはさぞ大変だったろうと思うが、それに続く人、更にそれに続く人たちの共同作業によって、今では必要な情報にアクセスするのも、真理に近づくのも、信念体系を再構築して自分の意識を高めるのも、ずっと楽になっている。そして自分が目覚めることで、更にそれに続くたくさんの人たちに広い道を用意することができるのだ。このまま進めば、ある日気がついたら同じような仲間が何人も隣りにいることに気づくかもしれない。より多くの人々が、ポジティブな選択をして世界はなんとなく変わっているかもしれない。今とは逆の価値観が当たり前になるかもしれない。
 自分が常に「集合意識」と繋がっているということを自覚することで、それまで個人的なこと、自分だけのこととして捉えてきたことが、実は世界中の人間と繋がっていたことに気づかされる。僕たちはけっして孤立してはいない。
 集合意識についてはこれくらいにして、更にもう幾つか信念体系の再構築を進めるに当たっての留意事項を述べておこう。
 一つめは、それを進めるためにはなにがなんでも「正直でいる」ことが必要だということ。知ってのとおり、信念体系は「身を隠すこと」のプロである。なぜなら「見つかってしまえば外されてしまう=年貢の納め時」だからだ。だから信念体系は、あの手この手を使って気づかれまいとする。考えても見てほしい。あの巨大な構築物が、今まで何十年間もその存在さえ悟られずに僕らの心の中に潜伏してきたのだ。それにはもちろん幾つものトリックや誤魔化しといった心理操作的戦術が駆使されているのだが、「嘘」というのは、その中でも核心的なものだ。あたかも自分はそんな信念など持っていないと思わせる、それは一見大切でポジティブな信念だと思わせる、本当は自分はそんな状態ではないと思わせる、そんなこと自分には関係ないと思わせる。それはさして重要ではないと思わせる・・・どれも信念体系のよく使う手口だ。だから人は、自分を支配している主体(信念)にいつまでも気づけないで来た。
 実は「嘘も方便」「必要な時には嘘をついてもいい」というのも、ネガティブ信念の一つに過ぎない。実は嘘など一つもつかなくても、誰もがちゃんと平和で幸せな人生を送ることができる。でもいかんせん、多くの人は言葉と行いがちぐはぐな両親に育てられ、子どものうちから「言葉と行動は違ってもいい」「(親はウソは駄目だと言うけれど)実際は嘘はついてもいい」ことを実体験として学んでいる。でもこの「嘘をついてもいい」という信念は、なにも他人だけを対象としているわけではない。他人に嘘をつく人は、自分にも嘘をつくことができる(「他人には嘘をついてよく、自分には嘘をつかない」という信念が成り立つのかどうか、実際のところ僕にはよくわからない)。この自己欺瞞的信念を外さない限りいつまでも、信念体系に強力な武器を与え続けることになる。自分にも他人にも一切嘘はつかない(すべてをペラペラと喋りなさい、ということではない。言いたくないことは黙っていていいのだ)という自分に、この際切り替えた方がいい。
 付け加えて言うなら、この「嘘をつく」というのは、「言語を用いてコミュニケーションする」という三次元世界に特有の現象だ。それより上の世界では、テレパシー(エネルギー)を介することになるので、嘘というものがつけない(仮に真実ではない思考を流したところで、それはウソだとエネルギー的にバレてしまう)。よって、今の次元より上に進むには、いずれにせよ「ウソ」というものをつかなくなることが必要となるのだ。嘘は基本的に自分にとっても相手にとっても、百害あって一利なしだ。本当の愛に基づいてつく嘘が(三次元の世界では)もしかしたらあるのかもしれないが、それは長い人生で一度あるかどうかというレベルの話だと思う。ウソは信念体系による支配を容認する姿勢に繋がる。
 そして二つめは、時に外したつもりでいてもいつまでも外れていないように見える信念がある、ということ。これは信念体系の根っこに近い(人生のごく初期に獲得した)信念を扱うときに見られる現象だ。例えばこんなことを想像してみよう。積み木が複雑に積み重ねられてあって、その下の方に一つ大きなブロックが目に入る。そのブロックを取りたい。でもそれをすれば、その上の大きな部分がガラガラと崩れ落ちてきそうだ。それはつまり「それを強行すれば信念体系(心)存続の危機を招く恐れがある」ということだ。すると信念体系は自己保全を最優先して、なんとしてもそれを食い止めようとするみたいだ。これはあながち悪いことではなくて、これによって僕ら自身の精神の平衡が維持されている。そんな場合は無理して取ろうとするよりも、そのまま置いておくのがいい。前述したようにその信念の存在に気づいてさえいれば、例えいくらその信念が発動したとしても効力を持たない(一時的に嫌な気分になるかもしれないが、それに振り回されることは無くなる)。ネガティブな信念が生きている限り、それに応じたネガティブな現象(体験)は引き続き起きるだろう。でもそれはその場限りのことで、今までのようにそれが悪循環をもたらす行動へと繋がったり、体系自体のネガティブ性をより強化したり増強したり、影響が後まで長く尾を引いたりすることは無い。もう既に、起きることの原因もその作動のメカニズムもわかっているのだ。ただ無心にそれを眺めていればいい。それに気づいている限り、そのことが起きるたびに信念を上書きする(この信念はもう無用だと自覚する)ことになる。だからどんな強固な信念でも、(気づかれてしまえば)発現を繰り返すごとに徐々に力を弱めていく。そしてやがては上に乗っかっていた信念がみな外れて(外堀が埋まって)、その信念も完全に外れる時が来る。イライラしたり悩んだりする必要はない。もしかしてやり方が間違っているんじゃないかと不安になる必要もない。感情や想念が起きるその瞬間に気づいてさえいれば、それだけで十分にうまくやっていると言える。そして起こった好ましくない体験は、そうやってこれまでの自分のカルマを清算しているんだと思って真摯に受け留めよう。
 このような深い部分の信念を掘り起こした際に、いわれも無く激しい感情に襲われるときが来るかもしれない。自分でも驚くような感情が胸の奥から溢れ出る。その時は、それをそのまま出し続ける。抑えない。顕れるものを顕れるままにする。えてして僕らは、ネガティブな感情(怒りや憎しみ、悲しみ、恨みなど)を反射的に抑えつけて外に出さないように習慣づけられている(特に日本人はそれがある意味美徳だと教えられている面がある)。でも出てくる感情を表現することはとても大切なことだ。それを抑えつけても、ただ奥深くにしまい込まれるだけで(つまり無くなったわけではなくて)、それはいつか再び表面に出る機会を待ち続ける。そしてそのような感情が蓄積されれば、ある日なにかのきっかけで爆発するかもしれない。人を傷つけたり破壊したりといった極端な行動に繋がるかもしれない。だから出るべきものは出してやらないとならないのだ。今が出すその時だ。湧き上がる感情はすべて出す(といっても、それを行動に結び付けるかどうかはまた別の問題だ。怒るたびに人をぶん殴らなければならないわけではない)。どんな感情も想念も抑えつけない。抑圧は、最終的には不幸しか産まない。とにかく自分自身に徹底的に正直になるのが肝要だ。そうしてありのままの自分を見つけていく。感情や想念が現れなければ、信念を捜し当てることもできないのだ。
 後で詳しく述べるがこれからの時代、今までに増して特に感情の起伏が激しくなると思う。随分たくさんの信念を外したはずなのに、なんでこんなに揺れ動くのかと驚くこともあるだろう。でも信念体系に取り組んでいる限り、根本のところで事態は確実に改善されている。表面の現象に一喜一憂せずに、ただコツコツと歩み続けることが大切だ。そうすればある日気がついた時に、かつての自分とまったく違った自分を見出すだろう。何年も何年もかかるかもしれないけれど、それは今までとは違って愛と喜びと発見に溢れた道のりになる。
 そして三番目は、今まで僕が述べた信念体系攻略の手法にこだわることはまったくない、ということだ。信念を外す方法はごまんとある。ここに書いたことは、僕が体験したそのほんの一部に過ぎない(とは言え今までまったくその道を知らなかった人にとっては、いいとっかかりとなるだろうと思う)。実際このような理屈など知らなくても、多分多くの人が、その人独自の方法で信念を解消しているはずだ。例えば純粋な愛を突き詰める過程では、どうしても自分の持つネガティブな信念が障害として立ち塞がる(喜びや幸せを創ろうとする行為、いのちを守ろうとする行為、本当に大切なものを大切に扱う行為、与えられた恵みを分かち合おうとする行為、親が子を愛そうとすること、どれもみな同じだ。人間は心(ハート)からしたいことをするときに、どうしても自分自身(のネガティブ性)と向き合わざるを得なくなる)。またすべての人に当て嵌まることとして、例えば夢の中で信念を解消していることもある。また心自体の持つ自然治癒力として、(多少時間はかかるが)辛い感情を無効化していく場合もある。どちらも魂(高次意識の自分)が、自分を前に進めようとして舞台裏で行っていることだ。三次元の顕在意識はほとんどの場合それに気づいていない。
 いずれにせよ自分の信念体系と本気で取り組むという意思を行動に移した時点から、魂はその意図に応えてさまざまな情報や知識を与えてくれる。そのようなメッセージや示唆、導きに今まではそれと気づいてこなかったかもしれないが、それは明らかにある(例えば君がこの文章を読んでいることも、けっして偶然ではない。数学的確率論で言えば、このページに目が留まることなど万に一つも無かったのだ)。すべては偶然ではない。魂はいつも僕ら自身と共にいて、言葉ではないさまざまな形で僕らの次の行動、向かうべき方向を教えてくれている。あれこれ策を練らないで(「策を練る」というのは、信念体系の仕事だ)、ただそれに身を任せていればいいのだ。信念体系の規模を縮小するにつれて、心(ハート)の声ももっとよく聞こえるようになるだろう。
 さてだいぶ長くなったが、ここでいよいよこの手紙の主題に入ろうと思う(これまで信念体系について縷々述べてきたのは、これについて知らないと、きっとこれから話すことが理解できなだろうと思ったからだった)。僕が今の地球の変化について気づいたのも、自分の信念体系に取り組む過程を通じてだった。今僕たちの周りで、とても大きなことが起きている。それは地球上の全生命を巻き込んで加速度的に進行している。

 (つづく)
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