アグリコ日記

岩手の山里からお届けするさまざまな動物や植物、生き物たちとの共同生活。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

今、地球は、 6

2017-02-08 09:08:33 | 思い
 魂の次元では、すべてがエネルギーでできている。ただ、一言で「エネルギー」と言っても、次元の階層ごとにその実体はみな異なる。例えば物質次元の上には魂の次元があり、その上には更に高次の世界がある。この魂次元のエネルギーとその上の次元のエネルギーはまったく別物のようだ。物質とエネルギー程の違いがあるかもしれない。それらを人によってはエーテルとかアストラル、メンタル、コーザルなどと呼び分けたりもする。が、とても紛らわしくなるのでここでは物質界より上の世界のすべての構成要素を単に「エネルギー」と呼びたい(エネルギーについては実際僕にもよくわかっていない。これらは、物理学で言うところのエネルギーとはもちろん別種のものだ。各次元それぞれの世界を構成する基本要素のことである)。
 僕らの持つ空間の概念で捉えれば、それらの階層は互いに重なり合っている。概念的に言えば物質次元の一部を含んでそれらを厚く取り巻く形で一つ上の次元がある。そしてそれを更に取り巻くようにもう一つ上の次元、という具合だ(階層から階層への境界部分は、グラデュエーション状にダブっているようだ)。
 僕らの魂はいったいどこにあるのか?と言えば、(ここでちょっと発想、というか視点の転換が必要だ。今度は空間の概念ではない。魂の観点から見た概念だ)実は今ここ、身体のあるここと同じ場所にある。空の上や宇宙の彼方にあるのではない。ただ存在する次元が違うので、一度に両方を認識できないだけなのだ(通常僕らは意識の焦点を「物質次元」に置いているので知覚するものはすべて物、もの、モノだ。ただし高次元意識の自分となると、魂と同じ次元に存在するので、取り巻く世界はまったくのエネルギー状態として認識される)。当然のことながら物質次元よりもエネルギー次元の方が宇宙の実態に近い。僕らは本当はエネルギーを、「物質として知覚する」ことを選択しそのように解釈しているだけとも言える。だから本来のエネルギーそのもの(実体)を正確に反映しているわけではなく、そこには知覚上の制限が伴う。真実の姿のほんの一部(1%以下)を認識しているに過ぎないという。例えば僕らの多くは、エネルギーの持つ流れや方向性、性質などを把握することができない(稀にそういう感覚に長けている人がいて、彼らはシャーマンとか仙人とか呼ばれて、人が考えていることや心身の状態、あるいは天候の変化やある場所でこれから起こることなどを読むことができた。また場合によっては、身近なエネルギーにインプットを加えることにより、自分が望むアウトプットを引き出すことができた)。
 魂の次元には空間や時間といったものは存在しない。例えば僕らは移動手段を選び時間をかけてこことは別の場所に移動するけれど、魂はそれを「想起する」だけでその時間や場所を目の前に創り出すことができる。一万年前の地球にも、銀河系の果てにでも瞬間的に存在することができる。ただし自分はどこにも動いてはいない。周りの世界をただ創っている(その空間を自分の周りに引き寄せている、と言ったらいいか)のだ。それが創造の創造たる所以である。原初なる存在もこのようにして「居ながらにして」すべてを創造した(東奔西走してあちこちに作って回ったのではない)。魂にとってすべての空間はここにあり、すべての時間もここにある。自分が想像できるものならなんでも創造できる。会いたいと思う相手(他の魂など)とはいつでも会うことができる(もちろん相手がそれに呼応すればだが)。魂が創造力を駆使するその力を「意図」という。この意図の力は高次元から物質次元まで、創造主の分身である存在すべて(もちろん僕らも含めて)が持っている世界創造の根源的な力である。魂も、三次元の僕らの意識もこれを使って目の前の世界を創造している。ただしどちらも「自分の持っているモノ(観念、概念、想像力の限界)」しか創造できない。
 だから進化とは、自分の持っているモノ(物質ではないよ!)を増やす行為とも言える。僕ら(存在するすべての生命たち)は、原初の存在の分身である。子どもでもその一部でもない。原初の存在は、自分と同じものを分裂して造ることによって(その行為を際限なく繰り返すことによって)この宇宙を創った。だから僕らは創造主の持つすべてをあらかじめ自分の内に持っている。ただそれぞれ特有の面を前面に出して顕れてるので、各々が違ったもの、個性あるものに見える。それぞれが原初の存在の無数にある側面の一つ、と言ってもいい。そしてその側面たちは、元々の存在に戻ろうとして、隠れて見えなくなっていた自分の他の側面(自分自身の断片・パーツ)を見つけては再度取り込む作業をしているのである。自分自身を拾い集めることによって、顕在化した構成要素を増やしていくのだ。そのプロセスが進むごとに、創造の幅も広がり、より根源の存在に近づいていく。元々持っていた自分自身の断片を見つけては拾い集めること、気づかなかった自分の側面を発見して再認識することが、この宇宙の存在すべてに課せられた課題と言える。それを進化と言い、存在の目的ともいう。
 さて魂は、見失った自分の断片を再発見するために、この三次元世界に意識を送り込んだ。ここではここでしか体験できないことがたくさんある。例えば物事がどのようにして創造されるかということ。これはすべての創造が瞬時に実現してしまう次元ではなかなか把握しにくいことのようだ。物質次元には時間と空間という概念があり、その規則に基づいてすべてがゆっくりと徐々に形を顕すので、意図から創造に至るプロセスを十二分に観察することができる。また分離(ネガティブ)した世界を体験すること。次元は上に行くにつれて(統合度が高まるにつれて)結合、一体感、愛という性質を高めていく。だから魂が自分より分離度を深めた世界を体験するには、一旦意識レベルを落として下の次元に焦点を合わせるしかない。そこにはすべてのものが分離され、良いもの悪いもの、正しいもの間違ったもの、上のもの下のもの、自分に近いもの疎遠なもの、仲間とそうでない者たち、愛すべきものと疎んじるべきもの、親しみと恐怖、肯定と否定、といったような二極化した状態で認識される。だからこの三次元世界には、愛もあれば恐怖もなんでも(よりコントラストが強い状態で)あるのである。その中でこの地球社会では特に独特なネガティブの形が表現されているので、そのような類の体験をしたい魂が(もっともいわゆる「魂の縁」のような他の理由もあるのだが)、わざわざこの地球を選んで来た(もちろん宇宙には、地球以外にもネガティブな星は幾つもあるし、その一方でポジティブ性の強い社会もたくさん存在する)。元々宇宙にはポジティブが良いネガティブが悪いという観念はまったく無い。存在するものはすべて原初の存在の分身であり、どれもこれも拾い集めるべき自分の断片に過ぎない。今僕らはこの地球で、ここでなきゃ拾えないものを見つけようとしている。
 そして肝心の僕らの次元だが、(また空間の概念を飛び越えた視点で説明するが)三次元世界は客観的なものとしてどこか特定の場所にあるわけではない。目の前の物質が物質としてどこかに存在するわけではない。それらの本質はエネルギーである。目の前に繰り広げられるエネルギーの状態を(魂がエネルギーとして知覚するように)僕らは「物質」に転換して知覚しているのである。だからこの物質界を創造しているのは実は僕ら一人一人なのだ。魂が自分の意図を駆使して自分独自のエネルギー世界を創り続けているように、僕らも常に自分オリジナルの物質世界を創り続けている(ただしその本質は、エネルギー世界をそのように翻訳しているだけだ。もちろん三次元世界の決まりごとによって、その変化の速度はとても遅いし空間を移動するにも距離や時間という観念に縛られる。だからまるで物質で固められた固体性の高い(流動性の低い)世界が実際にそこにあるかのように思ってしまう)。先の「ある場所から他の場所への移動」ということを説明すれば、自分が映し出す場面を切り替えているに過ぎない。魂も僕らも、どこにも動いていない。ただ目の前に繰り広げられる(それぞれの)エネルギーの世界を観ている。その解釈の仕方がそれぞれ違うだけなのだ。目の前の世界は、いわばスクリーンの上に自分の好みのものを寄せ集めて構成したようなものだ。ただそれを単なる映画や演劇を観ているように認識してしまえば、せっかくの三次元体験がイマイチ臨場感に乏しいものになってしまうので、三次元意識でそれを「あたかもそこに実在すると信じ切る」という選択をしている。そうすることによって魂レベルでは得られない、スリルとサスペンスに溢れた実体験が得られることになる(だからこんなことを書くとある意味「ネタバレ}になってしまうので、引き続き三次元世界を迫真的に体験したい向きはこの手紙を読むのはやめた方がいいかもしれない)。
 さて自分の「意図」がこの世界を創っている。そして魂は(そして僕ら三次元意識も)自分の持っているものしか創造の要素(登場人物とも構成要素とも言っていい)として使えない。だからこの世界は「自分自身」だとも言える。その中には自分が今まで拾い集めたものもあれば、近く拾うことになりそうなものもある。その中で今まさに拾い集めようとしているものは、特に際立って知覚される。でもどれもこれも、元をただせば自分自身(自分の構成要素)だけなのだ。仮にスクリーンに他の魂が登場したとしても、その存在の持っている「自分(僕自身)の構成要素」と同じ部分しか知覚できない。結論的に言えば宇宙のどの存在も、「自分自身」でしか世界を創れない。
 そしてもう一歩先に進んでみよう。この物質次元では「信念体系」をとおしてすべてが知覚されると述べた(憶えているだろうか。信念体系は、この世界を知覚するために作られたツールだ)。信念の一つ一つも、もちろん「自分自身の拾うべき断片」の一つである。つまりどういうことが言えるかというと、三次元のこの世界は、まさに自分の「信念体系の反映」そのものなのである。だからここにもう一つ、「自分の信念」を発見する重要な鍵がある。つまり目の前の世界を観察するのだ。顕れている登場人物、登場する存在、出来事、現象は、すべて自分の信念体系の反映であると捉えること。実際それは本当のことで、そう見ることによって、僕も今までにたくさんの信念を発見した。
 例えばどうしようもなく劣悪な人間がいたとしよう。そいつは折に触れ自分の目の前に現れては、嫌味なこと、はらただしいこと、自分にとってしてほしくないことをする。しかもそいつとは日常的にか散発的にか、とにかく時々は会わないとならない状況に置かれている。更に言えば、もし仮に意を決してそいつと決別したとしても、しばらくすればまたそれと同じような振る舞いをする他の人間が現れてしまっている。だからそういう存在はけっして目の前からいなくならない。・・・このような場合、その相手は、まさしく自分が気づかないでいた「信念」を顕しているのだ。自分はそれがとても気に入らないので、今まで見ないふりをしていた。自分の中にそんなものがあるなんて許せなかった。だから到底そんなものが自分にあるなんて考えられなくなっていた。でもそれが紛れもなくあるということは、それが「気にくわない相手」として現実に登場していることで証明される(しかも同じ体験をする頻度が高いほど、より強い影響力を持つ信念だと言える)。だからそれに気づいた時、その信念をとうとう見つけるべき時が来たと悟ったらいい。自分の中のなにがそれを引き起こすのか、なんの信念があって、そのような顕れ方をするのかを徹底的に探るといい。そして見つけたら、その信念が自分にあることを認め、それを受け入れ、もし気に入らなければそれを手放すことをそっと「意図」する。それによってその信念は活性化をやめる。
 また相手は必ずしも人間でなくてもいい。概して言えば自分に近しいもの頻繁に目にするものほど、自分の中で大きな地位を占める信念を反映している(僕は実際、わが家の猫たち(現時点で7匹いる)を観察して、たくさんの信念を発見している。それは今も続行中だ)。よく現れる感情よく湧き上がる想念と同じように、よく目にする出来事や現象に気をつけるといい。それらが顕れるには必ず理由がある。「自分の信念」という理由が。どんなにありえないことのように思えても、探せばそれはきっと見つかる。この場合も、その状況が起こった時点もしくはその少し前に沸き上がった自分の感情や想念が、探索の手がかりになったりする(ただし物質世界では原因から結果に至るまで大なり小なり時間がかかるので、中には随分前に起こした原因が今実を結ぶということもままあるから、しばらく考えてどうしても思い当たるものが無いときは、それ以上無理に考える必要はない)。
 「信念」は意図そのもの(正確に言えば意図の一つの顕れ方、一つの形態)と言ったら、もっとわかりやすいだろうか。この宇宙には様々な次元に様々な存在がいて、それらがすべて常になんらかの意図を発している。それらの意図の総体がこの宇宙を創っている。この三次元を引き合いに出してみよう。世界を構成する大きな枠組み(キャンバスや額縁、絵の具、使う道具など)は既に他の存在によって定められている。が、実際にそれらを使ってどのような絵を描くかは、この自分の意識にすべて委ねられている。例えば高次意識の自分(魂)は、自分の課題や目的を達成すべく常にあらゆる情報、メッセージ、導きを物質次元の意識に与え続けている。しかしもし僕らがそれを無視して他の選択をした場合には、その結果の方が世界に反映される。例えば高次意識の自分がどんなに「あっちに行っちゃだめだ!穴に落ちてしまうよ」と叫んだとしても、実際にそれに従うかどうかは自分次第というわけだ。そしてその結果は必ず負わなければならない(だから万人が常に人生の課題を達成するわけではない。中には同じ課題を抱えて、何度も何度も転生を繰り返す魂もあるということ)。この三次元世界では、あくまで三次元の意識に優先権がある。
 ここで一つ留意しておきたいことは、ここで言う「世界」とは、あくまで今ここ自分の五感で感じるものに限るということだ。テレビの報道や世間の噂話、あの人はこう思ってるだろうという勝手な推測、本やネット上の情報、たまたま観た映画やドラマの内容などはまったくこれに含まれない。それらはある意味「そういうものを自分が受け取る」と意図しているものではある。しかしここで言う信念の探索には使えない。蛇足的に言えば、それらはえてして支配者が民衆を洗脳するために情報操作の一環として使われている。政治家も企業も利益団体も、はたまた地域のお山の大将的なボスも、みんな情報を恣意的に選び、または誇張やでっち上げを織り交ぜながら流すことで、結果的に自分の利益を増やす努力をしている(コマーシャルやテレビのニュースなんかがそのいい例だ。この事を掘り下げると話が逸れてしまうので、ここではこれ以上言及しない)。例え世界中のラジオやテレビが一斉に悲惨なニュースを流したとしても、それは(本質的な意味で)自分自身とはなんら関係が無い。
 与えられた情報を信じれば、それは「信念」となる。元はと言えばそのようにして出されたものをなんでもかんでも無防備に信じてきてしまったから、今の状態があるのだ(もっとも子どものうちならばそれは仕方がない。しかし大人となった今ではもう事情が違っている)。だから流される情報、手にした情報は、それが本当に自分の世界に取り込みたいと思うもののみに絞って採用すべきだ。どんなにまことしやかに見えても、心のどこかで「?」と思うことがあれば、それは信じるに値しない(それは今僕が書いている、この手紙の内容にも言えることだ)。また信念なんて、できるだけ少ないに越したことはない。その方が信念体系を維持するのに余分なエネルギーが取られないで済むので、その分日常生活をよりパワフルに送ることができる。
 「思いは実現する」という理由は「意図」にある。純粋な思いは、それに関して信念体系内に矛盾を抱えていなければ必ず実現する。いつまでも実現しないとしたら、それはそれを打ち消したり拮抗したりする他の信念を持っているということだ。「人の一念山をも穿つ」と言うが、実際僕らの持っている(意図の)力には計り知れないものがあるらしい(僕も早くその域に達したいものだ)。僕らは意図を、思いに、言葉に、行動に載せることができる。一般に「思い」<「言葉」<「行動」の順に力が強いようだ。例えば頭ではどんなに「私には人からの感謝や尊敬を受け取る資格がある」と思っていても、その時になって「いやいや、そんなもの私には受け取る資格などありません」と言葉に出せばそれは実際には手に入らない。「自分は健康だ」と百万遍唱えても、実際の行動がそれに反するものであれば言葉の意図を打ち消してしまう。意図はそれに反する別の意図を発しない限りにおいてのみ、絶大な力を発揮するのだ。
 「言葉と行いに力のある人」というのは、自分の信念体系を整理した人のことを指す。その人は居ながらにして思いどおりの世界を創ることができる。でもそんな人が、政治家になったりカリスマ的指導者になったり、アイドルになったり世間での名声を得たり大富豪になったりすることはない。関心を持たなくなるのだ。自分はそんなことをするためにこの世界に生まれてきたわけではないことに気づいてしまう。信念体系を整理するということは、自らのエゴを縮小して(自分の魂に近づいて)いくことに他ならない。そのようにして静かに暮らしている人が、既にこの地上に驚くほどの数いるという。

 (つづく)
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 今、地球は、 5 | トップ | 今、地球は、 7 »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL