ニュースメディアは、公の事実を確かめ、さらにその周辺からの取材で様々な因果性を肉付けしていく。これは警察発表の正しさを確かめたり、捜査の手がかりや、裁判での新証拠や新証言などを提供したりもする。そのように行政や政治の監視役とも言われている。つまり、ニュースメディアは、社会的正義に貢献することができる機関である、と言えるのだ。そのプロ集団として記者が存在しているのだ。
しかしニュースメディアが独自の取材から因果性を強調し過ぎたとき、そこにはまた「自由意志」と対立してしまう羽目になることも忘れてはならない。たとえば、ある事件が環境によって引き起こされたという因果律を強調すればするほど、個人の責任はより薄れ、実行犯の反省からの矯正はより悲観的となってしまうだろう。これが「決定論」対「自由意志」の議論である。われわれは環境や関係に操られているのではなく、あったとしてもそんな因果律は自由意志を越えるものではない。結局は自由意志による決定での責任が社会性を支えているのだ。
ニュースを取り巻く現状は、インターネットメディアの台頭で、ニュースメディア事態も混乱してしまっている、といった情況だ。
しかしプロの強い責任感と、アマチュアの無責任な発言を、お互いに自覚したときに、その決着はつくはずだ。
インターネット内のコメントは、まだまだ匿名で書いている人たちは多いし、私としてもまだ顔を公にさらしてはいない。知性や能力、以前にも差があることが、プロとアマチュアには歴然としているのである。
ここでは確かに利用される利用する技術がわれわれ自身を拡張したというメディアについて語ってきた。特に社会性を自覚するニュースメディアと、それに対してインターネットメディア内には多様性を主張する一般の利用者がいた。
しかしわれわれは最少の単位であるメディアをまだ見落としているのである。
最少の単位であるメディアとは何か?
ニュースメディアが価値と認めているのは客観的な事実である。それゆえに「どんなメディアでもその内容は常に別のメディアである」という相互性が成り立つ。それはインターネットメディア内の多様性を主張する一般の利用者も使用する。特に公の事実には著作権がない。
個人がメディアになるとしたら、その価値とは“オリジナル”であることがはっきとする。ここで著作権が明確になってくるのだ。
つまり、プロとアマの争いとは、無責任による批判もさることながら、プロフェッショナルとしてのオリジナリティーを主張している、ということなのである。
私は以前から、個人がメディアとなる条件を考えてきた。
個人が完全なオリジナルで、しかも自費で制作したものを販売し成功できるなら、それが個人のメディア化と言えるものである。もちろん販売しなくても、利用するだけでもメディアとなる。
実際、ラジオやテレビは、個人がメディア化したものの価値を高く評価して利用してきたのだ。歌手、俳優、脚本家、作家の中からは、自力や自主制作から人気を獲得した人は少なくない。最近では、占い師や霊能力者などが見られる。
ブロガーにしても、そこからタレントや作家になった人もいる。インターネットから個人メディアを目指す人は、これからますます増えるのである。
「どんなメディアでもその内容は常に別のメディアである」であれば、完全なオリジナルを制作、利用、または販売する個人メディアこそ、真の価値、と呼べるものではないか。これこそ著作権法で守られる、確かな価値であるのだ。
完全オリジナル、こそ全メディアにとって普遍的価値なのである。
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しかしニュースメディアが独自の取材から因果性を強調し過ぎたとき、そこにはまた「自由意志」と対立してしまう羽目になることも忘れてはならない。たとえば、ある事件が環境によって引き起こされたという因果律を強調すればするほど、個人の責任はより薄れ、実行犯の反省からの矯正はより悲観的となってしまうだろう。これが「決定論」対「自由意志」の議論である。われわれは環境や関係に操られているのではなく、あったとしてもそんな因果律は自由意志を越えるものではない。結局は自由意志による決定での責任が社会性を支えているのだ。
ニュースを取り巻く現状は、インターネットメディアの台頭で、ニュースメディア事態も混乱してしまっている、といった情況だ。
しかしプロの強い責任感と、アマチュアの無責任な発言を、お互いに自覚したときに、その決着はつくはずだ。
インターネット内のコメントは、まだまだ匿名で書いている人たちは多いし、私としてもまだ顔を公にさらしてはいない。知性や能力、以前にも差があることが、プロとアマチュアには歴然としているのである。
ここでは確かに利用される利用する技術がわれわれ自身を拡張したというメディアについて語ってきた。特に社会性を自覚するニュースメディアと、それに対してインターネットメディア内には多様性を主張する一般の利用者がいた。
しかしわれわれは最少の単位であるメディアをまだ見落としているのである。
最少の単位であるメディアとは何か?
ニュースメディアが価値と認めているのは客観的な事実である。それゆえに「どんなメディアでもその内容は常に別のメディアである」という相互性が成り立つ。それはインターネットメディア内の多様性を主張する一般の利用者も使用する。特に公の事実には著作権がない。
個人がメディアになるとしたら、その価値とは“オリジナル”であることがはっきとする。ここで著作権が明確になってくるのだ。
つまり、プロとアマの争いとは、無責任による批判もさることながら、プロフェッショナルとしてのオリジナリティーを主張している、ということなのである。
私は以前から、個人がメディアとなる条件を考えてきた。
個人が完全なオリジナルで、しかも自費で制作したものを販売し成功できるなら、それが個人のメディア化と言えるものである。もちろん販売しなくても、利用するだけでもメディアとなる。
実際、ラジオやテレビは、個人がメディア化したものの価値を高く評価して利用してきたのだ。歌手、俳優、脚本家、作家の中からは、自力や自主制作から人気を獲得した人は少なくない。最近では、占い師や霊能力者などが見られる。
ブロガーにしても、そこからタレントや作家になった人もいる。インターネットから個人メディアを目指す人は、これからますます増えるのである。
「どんなメディアでもその内容は常に別のメディアである」であれば、完全なオリジナルを制作、利用、または販売する個人メディアこそ、真の価値、と呼べるものではないか。これこそ著作権法で守られる、確かな価値であるのだ。
完全オリジナル、こそ全メディアにとって普遍的価値なのである。
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