「2000円足らずのお金を握りしめて買い物をした」時に、私の前頭葉は小さな達成感に包まれて、とてもうれしくブログにアップまでしてしまいました。
最後に少し書いたのですが、だれでもこのように感じるのではないということも、前頭葉機能を理解するときのヒントになると思います。
それは、ことをなした後にそのことを評価するのも前頭葉の役割だからです。
客観的に見れば、同じことや同じ結果であっても、個々人によって良しとしたり悪かったと決めつけるのはなぜでしょうか?
前頭葉は、それまでにどのように生きてきたか、その時々をどのように感じながら生きてきたかによって、評価のものさしを作り上げていきます。
当然幼い時には親のものさしが、前頭葉の役割を担うことになります。
それに納得したり反抗したりしながら、修正を加えて行きます。そして自分らしい前頭葉を確立していくのです。
昔の人は「十人十色」といいました。
与えられた能力も環境にも差はありますが、それにもまして「どのように生きてきたか。そうしてその生きた結果をどのように感じ、評価してきたか。(最初は親、その後は自己評価)」によって、前頭葉の差は生まれてきます。
同じ私の前頭葉であっても、もし、財布を持ち合わせなかったのではなく、「いつもお金がない」状態だったらどうでしょう。
同じように判断しながら、同じような買い物をしたところで「今日もどうにかクリアできた」という安堵感は湧いてきても、「やったぁ。うまくいった!」という喜びには程遠いでしょう。
それどころか、経済的な困窮に負けてしまって、買い物だけでなく、生活そのものを悲しがってるかもしれません。
いや、負けていないかもしれません。その状況に対して、私の前頭葉がどう判断しどう評価するかが決定要因なのですから。
第一の人生を「立派に」駈け抜けてこられた方のほうが、第2の人生を充実させることが難しい。とまで言うといい過ぎかもわかりません・・・
でも、各地の認知症予防教室を見てみると、いわゆる「立派な男性」の参加はきわめて稀です。
「何」に対して、人生の喜びや生きがいを感じられるか。
それは教えられるものではなく、自分の前頭葉が判断するだけです。
第2の人生は、より広がるものではなく、むしろ種々の能力低下を認めながら、それでも楽しさや喜びを見つけて生き続けるものだとしたら、日常的な小さなものに対して価値を見出すことが少ない人生を送ってこられた方々は、圧倒的に不利。
と、「立派な男性方」に忠告です(笑)
第2の人生が長くなってしまったのですから、その時何に価値を見出して楽しく生き続けていくことができるかどうかは、幼い時の教育に始まってどのようにわが人生を生きてきたかにかかっています。