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「慰安婦狩り」を偽証した吉田清治「韓国スパイ」説を追う

2016年10月18日 11時38分41秒 | 国際・社会
 日本が組織的な「慰安婦狩り」を行ったという吉田清治氏の証言は平成26年8月5日に、朝日新聞が朝刊で「虚偽」と判断し、関連記事も撤回された。果たして彼はなぜ、このような偽証をしたのか、私はずっと疑問を抱き続け、彼の長男にインタビューをするなどして、その真相を追ってきた。その成果の一部はすでに「新潮45」9月号に、掲載している。

 取材で興味深かったことの一つは、吉田氏から韓国の「ある組織の人」と接触していたと明かされたという、公安警察の刑事の証言だった。この刑事は「私は聞いた時からKCIAだと思っていました」と話した。KCIAとは当時、国家安全企画部だった韓国の情報機関のことであり、この刑事の推測が事実なら、吉田氏は韓国のスパイか工作員として使われていた可能性すら出てくる。もちろん、裏付ける証拠はまだないのだが、吉田氏が戦前戦後を通じて朝鮮社会と深い関わり合いをもっていたのは事実である。本誌では、このことについて報告してみたいと思う。


「ある組織」とは

 私がインタビューした公安警察の刑事とは、神奈川県警の元刑事・堂上明氏(仮名)だ。堂上氏は、昭和三十七年に警察学校に入学し、翌年から神奈川県警の戸部署、横浜水上署、本部外事課、鶴見署などに勤務し、公安警察の最前線で諜報活動を行ってきた人物である。その彼が、なぜ吉田氏のことを詳しく知っているのか。彼の話をもとに説明しよう。

 堂上氏は昭和51年、ソ連に留学した経験がある吉田氏の長男とその弟と接触。横浜港に入ってくるソ連船の動きを見張るため、兄弟の語学力の活用を試みた。

 「東芝のパーツ工場にソ連の大学を卒業した人物がいるという情報が入ってきて、会いに行きました。当時、水上警察署のほうから船会社でロシア語ができる人間を求めているという話があった。これは就職させられると、兄は東京共同海運に、弟は別の運輸会社の横浜支店に就職させました」

 いま78歳だという堂上氏は、かつての職場の身分証を示しながら丁寧に記憶を辿って話し始めた。彼は吉田家と一家ぐるみの付き合いをするようになり、昭和55年の梅雨時、吉田氏から重大な事実を聞かされたという。その時のことを、こう証言する。

 「突然、鶴見署へ私を訪ねてきた。玄関で土下座して私を呼んでいると連絡があったので行ってみると、奇妙な話を始めた…」

 堂上氏の証言では、吉田氏はこんな話をしたのだという。

「実はある人から『お前の息子たち兄弟は敵国であるソ連のために働いていて、けしからん。こういう状況ではこれまで進めたこと、これから進めることにあんたは参加できなくなる。即刻、兄弟をソ連のために働いている会社から退職させなさい。あとの就職についてはこちらで面倒みる』と言われました。それで息子たちに内緒でそれぞれの会社を訪れ、退職させてきました。でもこのまま帰宅したら息子たちに殺されかねないので、息子たちの間に入って、彼らを納得させてほしい」

 堂上氏は、吉田氏の息子たちを、ソ連のために働かせたのではなく、ソ連の情報を集めるために、会社に潜り込ませたのだが、吉田氏はそれを知らなかった。しかし、吉田氏に、そんなことを言わせた「ある人」とは誰だったのか。堂上氏は私の前で、このときの吉田氏との会話を再現した。

 「私が『一体、あなたにそう言うのは、どんな組織の人なんですか』と聞いたら、口ごもってましたが、やがて『半島の人です』と言いました。半島といっても二つあるから『どちらですか』と重ねて問うと、『韓国です』と。実は私は聞いた時からKCIAだと思っていました。それを口に出させようとしたんですが、結局、最後まで『ある組織』とだけしか言いませんでしたね。『その組織がいつも2、3人、そばについていて、もう自由に行動できない』とも言っていました」

 昭和55年といえば、吉田氏が慰安婦について初めの著作『朝鮮人慰安婦と日本人』(新人物往来社)を書いてから、3年後である。そのとき、彼は「組織がいつも2、3人、そばについていて、もう自由に行動できない」という状態にあったというのである。

 とはいえ、彼の偽証にKCIAの関与があったとしたら、そのずさんな工作ぶりには疑問が残る。長男は私に「韓国から戻ってきた後、父のパスポートを見てびっくりした記憶があります。日本からの出国と帰国のスタンプはあるのですが、韓国への入国、出国のスタンプが押されていない。何故かと聞いたら、韓国の空港につくやいなや韓国政府の人がやってきて特別室に案内され、そのままソウルの街に出たんだそうです」と話したのだが、私がこのことを韓国の情報筋に問うと「まがりなりにもKCIAは国の情報機関ですからそういった失態はしないでしょう。政治家や民間の活動家の失態ならまだしも…」という。

 吉田氏は堂上氏にある組織から30万ばかり借りていると告白しているが、これも不自然だ。仮にKCIAなら、もう少しまとまった金を渡すのではなかろうか。

 そんな疑問を堂上氏にぶつけると「KCIAも、途中で嫌になっちゃったんだと思いますよ。この人を利用することはできないなと気がついた。そしてKCIAより、朝日新聞がうまくやってくれたということ」と苦笑した。

 吉田氏はこの4年後、韓国で元慰安婦に謝罪するパフォーマンスなどをし、朝日新聞によって集中的に報じられた。翌年、韓国が全斗煥大統領(当時)の初訪日の際、朝鮮半島統治などについて昭和天皇の反省表明を日本側に求めていた事が発覚(産経新聞平成27年3月30日付記事)、昭和天皇は宮中晩餐会で遺憾の意を表明することになる。そこにKCIAの工作があったと決めつけることはできないが、少なくとも、朝日新聞の世論誘導と無関係とはいえないのではないだろうか。


封印された朝鮮養子の過去

 吉田清治氏が朝鮮半島出身者と、単なる知人などというレベルを超えた深い関係を持っていたのは事実である。彼の来歴で、最も不可解だとされていた事の一つに朝鮮人養子の謎がある。吉田氏は戦前、22歳のときに満州で李禎郁という19歳の男性を養子にしている。禎郁氏はその5年後、満州で日本人と結婚する。吉田氏の長男はこう言う。

 「若い頃、正義感に燃えて養子にしてやったと父は言ってましたが、どこまでが本当のことなのか。私は会ったことがありません。ただ養子にしたことで、親戚から戸籍を汚したと、非難されたようです」「禎郁氏は戦後、全駐留軍労働組合の組合委員長になったようです。沖縄にいたということを聞いたことがありますけど、なにせ一度も会ったことがないので分からないのです」

 全駐留軍労働組合は米軍基地の労働者の労組である。禎郁氏が沖縄にいたことは確認が取れなかったが、福岡市板付の米軍基地(福岡空港)で活動家になっていたことは確かだ。前述の堂上氏も、私にこう証言をしていた。

 「『あなたはなぜ韓国に興味を持っているか』を聞いたんです。そうしたら、『私はいいこともするんですよ、全駐労って知ってますか。全駐労の人とも私、お話ししてます。全駐労の初代委員長、韓国人なんですよ。でもそれじゃ困るからと私の籍にいれさせたんですよ』。そういう話を聞きました」

 すでに知られていることだが、吉田清治氏の本名は「吉田雄兎」である。禎郁氏の父母は現在の北朝鮮にあたる朝鮮半島咸鏡南道出身だったが、記録では、昭和12年4月30日に吉田雄兎の養子となっている。

 その後、禎郁氏には2人の子供が生れた。長男は昭和18年に福岡で出生、次男は昭和20年8月に中国・遼寧市で生まれている(翌年瀋陽で死去)。だから日本と大陸を行き来していたことがうかがえる。さらに戦後は日本に来て、2人の子宝に恵まれ、吉田家の籍からは昭和23年に抜けている。

 不思議なのは、清治氏が自著『朝鮮人慰安婦と日本人』で、禎郁氏を戦死したことにしていたことだ。吉田氏は、禎郁氏の戦後を封印しているのだ。

 この本には、禎郁氏と思われる「金永達」という人物が登場するが、この「金永達」は東京生まれで、昭和12年に吉田氏の養子となり、同年小学校教師の日本人と結婚、直後に小倉連隊に入る。12年、満州国国務院地籍整理局の官吏に合格した吉田氏は新京の日系官吏養成所の勤務となり、寄宿舎で同室だった同僚が「金永達」だったことになっており、朝鮮出身の官吏が日本人待遇から満人待遇に変更させられ、肩を落とす「金永達」に対して、吉田氏は養子縁組を持ちかけるのだ。

 同書には「私はそのとき、金永達にたいして民族的な優越感をもって、無造作に自分の思いつきを話だしていた」とある。

 養子縁組は禎郁氏の事実と重なるが、なぜか「金永達」は翌13年9月、中国の間島省で戦死したことになっている。同書の他の箇所を見ても、事実に話を加えて虚実綯い交ぜにするのは吉田氏の特技ともいえる。ただ、著書の内容や堂上氏への証言から推測すれば、朝鮮籍の禎郁氏を養子に入れたことは“当時、日本社会で差別されていた可哀そうな朝鮮人を救ってあげた”“戦後は彼の秘密が暴かれないように作品の中で殺してあげた”という美談として考えることも可能かもしれない。

 だが、本当にこんなきれいごとだけで済まされる養子縁組だったのだろうか。

 私は福岡県に住む禎郁氏の長男を訪ねた。瀟洒な庭つきの立派な邸宅だった。家には入れてもらえず、門越しに長男が取材に応じてくれた。養子入りの事情については「何も存じません」の一点張りだった。ただ、あらためて問答をふりかえると、父に関して何らかの情報を持っていたのではないかとも思える。取材では禎郁氏の長男から「30年以上前に死んだ親父について何を調べているのですか?」というセリフが何度か繰り返された。

 --お父さんと関係があった吉田雄兎さんの事を調べています。

 「雄兎さんの事を調べられたのですね。有名な方なのですか?」

 --吉田清治さんをご存じですか? 慰安婦問題で有名な方です。

 「いや知らないですね。雄兎さんが吉田清治で、あなたは吉田清治の長男から私の父の話を聞かされたという事ですね。そして労働組合の委員長だったと聞いたんですね」

 --お父さんの事も吉田清治さんが書いた本に書かれています。

 「なんという本?」

 --『朝鮮人慰安婦と日本人』。

 「そこに親父が出て来るんですか?」

 --お父さんの名前は別名になっているし、養子にしたとしか出てこない。《長男の表情がやけに厳しい面持ちに変わった。》

 「まあ!すみません、あんまり(家族に)話を聞かせない方が良いと思うんで。私はまあ一応話を聞いて大体解るんですが、弟たちは全く知らないので、訳が分からんと思うんです。父は何も話さなかったです。よほど喋りたくなかったんじゃないですかね。何かありましたらあなたに連絡します」

 そこで取材は打ち切られ、以降、長男からは一切の連絡もない。ここからは推測になるが、禎郁氏は“在日”であることをひた隠しにして生きてきたのではなかろうか?

 在日米軍基地は朝鮮戦争時、朝鮮への兵員、軍需物資を補給するための国連軍の兵站物資補給地として機能していた時代があった。その事から、北がルーツの禎郁氏が全駐労の幹部まで上り詰めていたとすれば、重い胸の内も推してはかることができる。吉田氏はそれに配慮したのかもしれない。


カネに困っていた?

 しかし、吉田氏から日本の戸籍をもらった禎郁氏は、裏をかえせば一生涯にわたって吉田氏に弱みを握られたとも考えられる。もしかしたら吉田家養子縁組の代償として吉田氏になんらかの形で金銭的な便宜をはかってきたのではなかろうか。全駐労幹部ともなれば退職金含め、かなりの給与を貰っていたはずだ。定職にもつかず、ほぼ息子たちの稼ぎで生活していた吉田氏の余裕はどこからきたのか。詳しくは紙面の都合で割愛するが、吉田氏は一時期、文筆家以外の仕事で禎郁氏に職業を斡旋してもらっていた形跡もある。

 最後に前述した神奈川県警の堂上氏のある告白を紹介する。昭和60年に堂上氏が早期退職した際、数年ぶりに吉田氏から三田駅近くのビルに呼び出され、再就職斡旋と引き換えにカネを求められたというのだ。

 「お父さん(吉田氏)は私に『あなたは、好んで警察を辞めたんじゃないでしょう。もとに戻りたかったら、私の線で復職させてあげますよ。どうですか』って言ったんです。『私の線で』って言いましたよ。私、その気はなかったのですけど、逆に魂胆をさぐろうと思って『どうすればいいの? お父さんの力、借りようかな』と言ったのです。『それだったら、新聞紙に180万円を包んで持ってきなさい』と。そういうことを平気で言うんですよ。私が『180万円、持ってくれば何とかなるの?』と言ったら、『いや、前のポジションより、もっといいポジションを用意させますから』。私は『ああ、お父さん、すごい力があるんだね。以前、息子に殺されるって言ってた話がうそみたいだね』って。それで、そこのお茶代の支払いも私がしてお別れしたきりですよ」

 この2年前に禎郁氏は他界している。吉田氏とKCIA、禎郁氏との本当の関係はまだ解明できていない。しかし、封印された朝鮮人養子の過去をたどると、彼と禎郁氏の数奇な人生が一枚のタペストリーのように織り重なって見える。一方で両氏の息子たちの人生は一度も交差しない。そのことが寒々しく感じられると同時に、両氏の息子たちへの最大の配慮だったのかもしれないとも思える。
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