エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

インターメッツォ: 光の時

2016-10-26 01:46:17 | 間奏曲

 

 

 
確かな私
  日頃あまり意識しないだろう「≪私≫という感じ」は、「私」の中心であるばかりではなくて、イキイキ・ピチピチ生きる上で不可欠ですから、いくら強調していも、強調し足りませんね......
 

 光の時。光の道。

 富士山に登る人も、ご来光が見たい、と言う人が多いでしょ。人は心深く光を求めている存在です。オリエンテーションと言う心の傾きも、「光の方を向いている」という意味ですからね。

 がしかし、光は、外から来るものばかりではないようですね。内側から光る光、があることを教えてくれるところです。

 ヘンリー・ナウェンの『魂の向き』Spiritual Direction、p.95。

 

 

 

 

 

 「ルカによる福音書」で、イエスが山に登って、祈る場面を読むことができます。その時、ペテロ、ヤコブ、ヨハネも一緒でした。そこで3人は、イエスが祈っていると、イエスの様子が変わったのが分かりました。イエスの着物が太陽のように輝いて…。

 ペテロ、ヤコブ、ヨハネは、イエスが山で光に満ち溢れているのを見た時、永遠に続く明確なヴィジョンの時を求めています。…3人の経験、あるいは、ヴィジョンは、時(カイロス)が満ち、恵みの時です。

 

 

 

 

 クエーカーの人たちは「内なる光」と言いますね。それは、明確なヴィジョンを与えられた時であり、何物にも代えがたい、晴れ晴れとした気持ちになれる解放の時です。別に物理的に光が溢れる訳ではないのです。それは、「まるで太陽が輝いている感じ、雰囲気」を周りの人が感じる時です。

 

 

 


 

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