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佐々木静子産婦人科医-医師の原点

2017年08月30日 | 人物

もうずっと断捨離中ですが、処分に時間がかかるものは、手紙や切り抜き類。
それをチェックしながらみつけたのが、産婦人科医、佐々木静子氏のインタビュー記事です。 

佐々木医師は2013年にお亡くなりになってしまっているのですが、実は私が息子を生んだ病院は、彼女が医院長を務める病院でした。 

と言っても、私がこの病院を選んだのは、彼女のことを知ってではなく、元医院長のK医師(女医さん)が、ずっと母のかかりつけの先生であったから。 

K医師(当時80代)とS医師(当時70代)は佐々木医師に自分達の病院を譲りましたが、彼女たちも現役を退かず、活躍していました。(私の担当医はK医師でした。) 

息子を出産して半年くらいのとき、時々買っていた週刊誌に、佐々木医師のインタビュー記事と、病院、K医師、S医師、そして息子を取り上げてくれた助産婦さんも一緒に映った写真があったため、記事を残しておいたのです。 

さて、その佐々木静子医師、事件の前から名医として評判は高かったのですが、彼女がよく知られるようになったのは、富士見産婦人科事件での被害者サポート(最初は匿名)からだったのではないでしょうか。 

医療事故研究会のブログ
追悼 佐々木静子医師 -聖女のような献身的医師の生きざま

http://iryojikokenkyuukai.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-3149.html
 

玉県所沢市に、乱診乱療で有名になった富士見産婦人科病院があり、ある日、新聞各紙は、「患者をだまし開腹手術」「無免許経営者が指示」「次々に子宮・卵巣を摘出」「でたらめ診療 被害者数百人」との見出しで報道した。筆者は、この事件の被害者弁護団の一人として、長年、この損害賠償裁判に携わった者です。 

 医療事故の被害者の救済にあたり、最も重要なのは協力医師です。信頼できる協力医を得ることができたら、その事件の半分以上は見通しがついたと言っても過言ではありません。

 しかし、被害者の立場に理解のある協力医師を探すことは至難のわざです。 

 富士見産婦人科病院事件の場合、婦人科医の社会的責任が追及される事件であったため、なお一層その分野の協力者を得る事は難しいことでした。日本産婦人科学会は、学術団体だから具体的な事件には関与しないのだと被害者同盟の事案の真相究明と協力とお願いにそっぽを向くという無責任で冷淡な対応を続けておりました。 

日本母性保護協会(当時)も同様です。被害者のために協力しようという医師は皆無でした。僅かに弁護団の旧知の東大病院内科の本田勝紀医師ら極く少数の方が協力を申し出てくれました。しかし裁判の場合、産科・婦人科の専門医の協力が不可欠でした。悩み苦労していたところ、ある弁護士の紹介で救世主佐々木静子医師(当時賛育会院産婦人科。親しみを込めて以下佐々木さんと呼ばせてもらいます)を見つけることができました。 

 佐々木さんは、被害者への同情、理解があり、しかも冷静で個々の患者のカルテ、検査記録などを調査、検討される熱心さを持った先生でした。被害者の提訴のために佐々木さんは原告67人全員の鑑定書を一人で書いてくれました。しかもご自身の病院業務もこなしながら被害者のためにいつも明るく精力的に取り組んでくれました。その姿はまさに、村八分にされかねない医学界の四面楚歌の中で泥沼に咲いた清楚な一輪の白百合のように、また一人の聖女のような凛とした気高さが感じられました。 

 佐々木さんは、長時間、法廷の証人尋問に協力してくれました。裁判は23年もかかりましたが、病院側に最高裁で最終的に勝訴することができました。 

(後略) 

この佐々木医師は、1966年に賛育会病院勤務開始しました。

その5年後あたりから病院が経営悪化したため、病院の経営方針が一転し、投薬や手術が多くなりました、それに反旗を翻したのが彼女でそれに対する嫌がらせが始まりました。 

彼女は当時のことをこう語っています。 

「私に診てほしいという患者さんのために、私は毎朝外来の窓口の前で立って待っていました。受付に私の患者さんが来ると自分で診察券を受け取って、自分でカルテを探してきて、他の医師たちの診察が終わるのを待って、開いた場所で診療するの。看護婦さんたちには私を手伝ってはいけないという命令が出ていたので、何もかも自分でやらなければならなかった。患者さんたちはずいぶん待たされて不自由しても、私を信頼して辛抱してくれた。本当にありがたいと思ったわ。それから一人の看護婦さんが、『私、佐々木先生を手伝います』と言ってくれたの。それから次から次へと私についてくれる看護婦さんが増えて・・。」
(『モア』1992年8月号より) 

この戦い4か月、彼女の古今奮闘に多くの職員と患者さんが支持し、病院も体質改善をせざるを得なくなったようです。 

そんな佐々木医師、子宮頸がんワクチンの被害のことをどう考えていたのか知りたくて調べてみましたが、それはみつかりませんでした。 

(追記:

「産婦人科の佐々木静子って訃報が新聞記事になるような有名人だったのか!
何年か前に診察受けたことあるけど、ただの町医者の院長だとばっかり……
まだ「無料になりました!」って宣伝しまくってる時期に、
あの病院の別の先生に子宮頸がんワクチン接種を「副作用がまだよくわからないから」
って断られたけど、そういう院長のところに集まった先生だからかーと納得」

という2013年7月27日の書き込みを見つけました。)

http://www.2nn.jp/refuge/kako/1374/13746/1374676016.html

ただ、彼女の答えは、こちらにあると思います。

ソーシャル・ジャスティス基金
「3.11後の子どもと健康
学校と保健室は何ができるか」
http://socialjustice.jp/p/report20161119/ 


富士見産婦人科病院事件――被害をまぬがれたのは、身近な人に相談できた人

 3つ目の事例は、富士見産婦人科病院事件についてです。医師でない理事長が白衣を着ていて専門家に見られ、そのお医者さん風の理事長から、子宮筋腫や卵巣のう腫と言われた人たちが、病変のない子宮や卵巣の摘出手術を受けたのです。被害届けは1138件です。被害者の裁判闘争があって20年もかかりましたが、これをサポートしていたのが、産婦人科医の佐々木静子さんです。その手記から紹介します。

 「富士見産婦人科病院にかかっている人たちのなかに、『まぬがれ組』と言われている人たちがいる。すぐに手術が必要と言われたにもかかわらず、手術しなかった人たちだ。すぐに手術を受けてしまった人と、まぬがれた人と、どこに違いがあったのか」

 「まぬがれた人は、手術が必要と言われたことを、友人や身近な人に話したり相談していました。『別のところで診てもらったら?』とアドバイスを受けたり情報をもらったりして」不必要な手術をまぬがれたわけです。

 だから、相談できる人を身近にもっていることが大事なのではないか。きちんとした情報を持つこと、そういうことを確保することが大事ですね、というのが佐々木静子さんのアドバイスです。これもヒントにしたいと思います。

「専門家」が言うことが必ずしもその人にとって正しくない、ということでしょう。

名医と言われた彼女自身、自分が「絶対」でないことにいつも頭に留めながら、ベストを尽くしたのだと思います。

SNSに時間をついやし、お金、地位や名声の拘る医者と、佐々木静子氏の様な医師。
前者の様な医師達が現在メディアに力をもってきてしまっている事が残念です。

佐々木医師(およびK医師とH医師)の病院には、平塚らいてうとともに、日本初の女医荻野吟子とのポートレートが飾ってあります。(←私は見逃しました。また、現在も残っているかは不明。)

追記:

なお、ソーシャルジャスティス基金の記事には、森永ミルクヒ素事件でそれを表面化させた人々のことも書いてありますので、リンクから全文どうぞ。 

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