アフガン・イラク・北朝鮮と日本

戦争も人権抑圧もNO!万国のプレカリアート団結せよ!

ただ「ルールだから守れ」では独裁と同じ

2011年05月26日 20時26分20秒 | 反弾圧・監視社会
・国歌斉唱「不起立の教員やめさせる」 維新の条例案、橋下知事 政令市も検討対象(産経新聞)
 http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110517/lcl11051700070001-n1.htm

 先日、大阪府知事の橋下徹が府議会で言及した、公立学校での「日の丸・君が代」不起立教員への処分方針について。実は、もっと早くにブログで取り上げるつもりでしたが、他の雑用にかまけているうちに、とうとう今日になってしまいました。遅くなってしましたが、簡単に書いておきます。
 いつもは貶す一方だった大阪府知事の橋下徹が、付け焼刃とは言え、曲がりなりにも「脱原発」表明した事で、「タマには好い事も言うじゃないか」と、ホンの少しだけ評価した矢先に、早速それを打ち消すような事を言ってのけました。この件について、今さら改めて言うのも何ですが、私はこの処分には大反対です。

 その第一は、今の「国旗・国歌」法案が自民党・小渕内閣時代に成立した時に、当時の自民党政権は何と言ったか。「この法案は、単に日の丸・君が代を国旗・国歌と定めただけの内容であって、それを掲揚しなかったり歌わなかったからといって、決して処分したりはしない」と明言していた筈です。これは、当時の国会審議における政府側答弁からも明らかです。つまり、これがこの法律の解釈であり、ルールなのです。だから、橋下が「ルールを守らせる」と言ってやろうとしている事が、実は「法律の拡大解釈」であり「ルール違反」なのです。

 第二に、「ルール」の内容の是非を問わずに、「ルールだから兎に角守れ」と言うのでは、横暴以外の何物でもありません。そんな事を言い出せば、ナチスの政権掌握や、戦前日本の治安維持法や、今の北朝鮮の金正日個人崇拝だって、彼の時代や彼の国の「多数決」で合法的に決まった事だからという事で、従わなければならなくなります。いずれの事例も、形式上はあくまでも、当時の(ドイツ)ワイマール憲法や、日本の帝国議会や、朝鮮労働党総会や最高人民会議(北朝鮮の国会)の議決を経て、決められたのですから。
 しかし、実際はそうじゃありません。幾ら「合法的」に決められた事でも、その内容が非民主的でトンデモなものであり、ろくに議論もされずに決められたものであるなら、反対するのは当然です。何故なら、「多数決」というのは、単なる議事手続きの一つにしか過ぎず、それを以って民主的に議論が行われたとは、とても言えないのだから。「ジャンケン」で決めるか、「多数決」で決めるか、「全員一致」で決めるか、という違いでしかないのだから。
 つまり、「民主的に議論を尽くしたか否か」が、最も大事なのです。「日の丸・君が代」も然りです。「日の丸」や「君が代」が、本当に今の日本の国旗・国歌として相応しいものなのか。若し相応しくないなら、他にどんな「国旗・国歌」があるのか。そういう議論を、国会などで、一度たりともやった事があったか?
 自民党や右翼からは事あるごとに「米国から押し付けられた」と言われる、今の日本国憲法も、制定されるまでには、国会で何度も審議されました。そういう議論が、「日の丸・君が代」についても為されたのか?
 確かに民間レベルではありました。戦後間もない一時期に、それまでの「日の丸・君が代」に代わる、戦後の民主日本に相応しい「国旗・国歌」を作ろうという動きがあり、実際に「我ら愛す」という公募曲が取り上げられたりもしました。そういう草の根の議論を逆に封じ込めてきたのが、今の自民党であり右翼だったのではなかったか。そういう、「民主主義」を圧殺するような事をしておいて、ひたすら既成事実を積み上げてきた後で、ただ単に「ルールだから守れ」「知事のいう事だから聞け」だけでは、「ヒトラー・金正日」の独裁と、全く同じではないか。

 そう言うと必ず出てくるのが、「国旗・国歌を敬うのは、民主主義云々以前の問題だ」という議論です。その例としてよく持ち出されるのが、かつての韓国民主化運動の集会などで韓国の国旗が掲げられたり、この前のジャスミン革命でチュニジアやエジプトの国旗が掲げられたりした事例です。それで「国旗・国歌への崇敬の念は、たとえ野党や反体制派であっても、持っていなくてはいけない」という事がよく言われる。
 しかし、この場合で引き合いに出される韓国・チュニジア・エジプトなど、アジア・第三世界諸国の国旗・国歌への当該国民の崇敬の念というのは、単に「今の国家体制への忠誠心」から出たものではなく、圧制や植民地支配への抵抗のシンボルとして、その国の民衆に広く共有されている所から来るのです。翻って、今の「日の丸・君が代」や「ユニオンジャック」「ハーケンクロイツ」に、それだけの求心力がありますか。ありませんよね。但し、フランス革命に由来する「三色旗」や「ラ・マルセイエーズ」なんかは、ある程度、韓国・エジプトの国旗・国歌に近いものがあるかも知れません。中国や北朝鮮の国旗・国歌も、かつては「独立・解放・革命」の象徴だったのが、今や「抑圧」の象徴になりつつあるのかも。
 つまり、同じ「国旗・国歌」でも、それがその国の中で、圧制への抵抗や独立戦争・革命・民主化のシンボルとして捉えられているか、逆に「支配・抑圧」や単なる「伝統回帰」の意味に捉えられているかによって、重みが全然違ってくる。果たして、今の日本の「日の丸・君が代」に、それだけの重みがあるか。民主的な議論を一切尽くさず、一方的に「ルールだから」という理由だけで押し付けられたものに、そんな重みなぞある筈が無い。それが第三点。

 第四は、その上での、特に「日の丸・君が代」の歴史的経過について。両方とも、戦前のファシズムや、帝国主義・植民地支配、天皇制の下での言論弾圧を陰で支えてきた。そうして、国民が「奴隷根性」に囚われ、主権者意識や民主主義・人権意識を育てる上で、常に足かせとして作用してきた歴史がある。第三の理由ともかぶりますが、「抵抗・解放」ではなく逆に「支配・抑圧・恫喝」のシンボルとして機能してきた。そうして、時の政府の意のままにならない人間を、「非国民」として排斥してきた。同様の例が戦前のナチス・ドイツやイタリア・ムッソリーニ時代の国旗・国歌だが、少なくともドイツ・イタリアについては、戦後に国旗・国歌の見直しを図っている。戦前からの国旗・国歌をそのまま踏襲しているのは、旧日・独・伊三国の中で、唯一日本だけです。

 第五に、特に「君が代」の歌詞に見られる「万世一系の皇統」なるものの胡散臭さ。右翼や天皇主義者は、よく古事記・日本書紀や源氏物語の記述を引き合いに出して、それを主張しますが、それはあくまでも当時の貴族社会に限った話でしょう。当時の庶民は、山上憶良の「貧窮問答歌」の例でも分かるように、食うや食わずで、天皇どころではなかった筈です。それに加えて、中世南北朝の争乱では天皇家自身が南朝と北朝に分裂して、互いに皇位の正統性を争うまでになった。江戸時代に至っては、当時の百姓・町人にとっては徳川将軍家こそが権威の象徴であり、天皇の存在なんて殆どの人間が知らなかった。だから、明治新政府は、わざわざお触れまで出して、天皇の存在を庶民に知らさなければならなかった。そんな、明治以降になって、時の政府によってでっち上げられたような「伝統」を、さも有難いものであるかのように、今の我々に強制される筋合いが、果たしてあるのか否か。

 第六に、「日の丸・君が代」であれ、それに代わる他の国旗・国歌であれ、そもそも、そんな「国家のシンボル」が、そんなに大事なものなのか、という問題もある。フーリガンの出現などによって、各国のナショナリズムが衝突すると言われるワールドカップですら、現実にはプロ選手は高い報酬を求めてチーム移籍を繰り返し、国籍変更すら今や日常茶飯事となっている訳で。実際は、みんなその時の雰囲気で、「国旗・国歌」に酔ったり酔わなかったりしているだけじゃないか。だったら、もうそれで好いじゃないか。それを、何故そこまで必要以上に「国旗・国歌」に拘るのか。

 そして第七に、そもそも今の日本国家ひいては現政権に、偉そうに「国旗・国歌を敬え」なぞと国民に説教する資格はあるのかどうか。ある筈が無い。この福島原発事故で、国土も国民生活もムチャクチャにして、故郷を捨てなければならなくなった「難民」を大量に生み出した原発推進勢力(これは今の民主党政権だけでなく前・自民党政権も同罪です)に、「国旗・国歌を敬え」なぞという資格があるのか否か。
 国民に偉そうに「国を敬え」なぞと説教する前に、「自然に国を愛したくなるような政治をする」のが先決です。実際の政府を離れて、抽象的な「国」を想定しても仕方がありません。今の故郷をどう取り戻すのか。破壊された国土をどう再建するのか。その中で、「どんな国を再建するのか」「その国のシンボルとして、果たしてどんな国旗・国歌が相応しいのか」、そういう具体的な議論から離れた所で、画餅の様な「国家」を想定しても仕方がない。そして、少なくとも今の原発推進勢力に、それを言う資格は一切ない。
 それが何ですか。政府や電力業界は、都合の悪い情報やデータは悉く隠蔽し、極力小さく見せかけようとする。「今直ちに健康被害が出る事は無い」というばかりで、「将来についてはどうなる?」という国民の懸念・不安に、まともに応えようとはしない。果ては、何ら科学的根拠も示さず、年間1ミリシーベルトから20ミリシーベルトへと、放射線規制値を緩めようとする。そんな「実際の国の姿」を等閑にしたまま、徒に「国旗・国歌」ばかりに拘る事は、結局は原発ヨイショ・現体制ヨイショにしかならない。

 最後に、最も肝心な事が抜けていましたので、補足しておきます。それが第八の、「公務員だから国の決めたルールには従わなければならない」という橋下の詭弁に対する反論です。―「間違ったルールには従う必要は無い。寧ろ、そんなルールは、一刻も早く改めなければならない。それは公務員であろうと民間人であろうと変わりない。」
 橋下のいう「ルール」なるものが、どれだけ恣意的でデタラメな物であるかは、今まで述べてきた通りです。公務員は国家権力の奴隷(私兵)ではありません。国民全体への奉仕者(公僕)です。公僕としての仕事をするに当たって、まず第一にルールとすべきなのは日本国憲法です。憲法に違反さえしなければ良いのです。若し国家公務員法や地方公務員法に、憲法に反する条文があるなら、それは違憲立法として、寧ろ変えていかなければならない。それが真っ当なルールです。
 それが、若し橋下の言うように、「どんな思想を持とうと勝手だが、公務員である限りは、国の方針には従わなければならない」なら、民間人も「どんな思想を持とうと勝手だが、社員である限りは、会社の方針には従わなければならな」くなってしまいます。恣意的な就業規則や内規によって、どんな不当労働行為や犯罪その他の違法行為であっても、「社内のルールだから」という事で、従わなければならなくなる。

 つまり、学校現場での「日の丸・君が代」強制は、
(1)そもそも「国旗・国歌法」からの逸脱・越権行為である。
(2)その是非が一切問われないまま、勝手に決めた「ルール」で一方的にごり押しするのは、反民主的である。
(3)「抵抗・民主化」ではなく「盲従・侵略」のシンボルとして用いられてきたものを、今さら強制される筋合いはない。
(4)かつて帝国主義や侵略戦争を礼賛する道具として用いられてきたものを、今さら強制される筋合いはない。
(5)「日の丸・君が代」の基になる歴史的根拠そのものが薄弱である。
(6)グローバル化の現実に背を向け、ひたすら「国家」ばかりに拘る、後ろ向きで時代遅れの議論でしかない。
(7)ことさら「国旗・国歌」を強調する事で、現実の悪政から目をそらさせようとする卑劣な態度であり、為政者による環境破壊や棄民政策などの「非愛国的政治」を、「愛国心」の名で逆に免罪する行為である。
(8)間違った事に従う必要は無い。それは公務員であろうと民間人であろうと変わりない。
―という事です。そんなものを、教師だから公務員だからという理由だけで、ごり押しされて良い筈はありません。
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no title (九郎政宗)
2011-05-27 12:14:46
以前、「なぜ脱原発より橋下に投票を・・・」という論点が書かれていましたが、内田樹先生の『日本辺境論』には興味深い示唆があります。ものを考えている人間は、なかなか断言しえないことを長期にわたって抱え込む(ことができる)。一方で自信満々に断言している人間は、たいてい誰かの受け売りをしているのだ、と。してみると、橋下支持者は「虎の威を借る狐」になりたいのでしょう。なってみると実に気分がいいものだからです。わたしのこの文章自体が内田先生の受け売りだから、よ~くわかります(@∀@)

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