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驕る平家は久しからず(その2)―百田のデマ・ヘイト暴言

2015年06月29日 23時18分55秒 | 沖縄の犠牲の上に胡坐をかくな




 「驕る平家は久しからず」シリーズの二例目として、今度は右翼作家・百田尚樹のデマ・ヘイト暴言を取り上げます。一例目の、沖縄戦没者慰霊式典での安倍の手抜き答辞も酷い内容でしたが、こちらはまだ「言っている事(不戦の誓い)とやっている事(集団的自衛権容認、辺野古移設)が違う」というレベルでした。ところが百田の場合は、「言ってる事からしてトンデモ」で、その「トンデモ」なウソを堂々とあからさまに振りまき、「ウソも百遍言えば真実になる」と居直っている事が特徴です。そういう意味では、一例目の安倍の上辺だけの「不戦の誓い」も、あれはあくまで、世間の目を欺くための「建前」にしか過ぎず、「本音」はむしろ、親衛隊長・百田の物言いにこそあると見るべきでしょう。

●「沖縄の地元紙、左翼に乗っ取られている」 自民勉強会(朝日新聞)

 安倍晋三首相に近い自民党の若手議員が立ち上げた勉強会「文化芸術懇話会」(代表=木原稔・党青年局長)の25日の初会合で、出席議員が、沖縄の地元紙について「左翼勢力に完全に乗っ取られている。沖縄の世論のゆがみ方を正しい方向に持っていく」と発言していたことが分かった。
(中略)
 出席者などによると、講師役として招かれた、首相と親しい作家の百田尚樹氏は「もともと普天間基地は田んぼの中にあった。そこを選んで住んだのは誰やねん」「沖縄は本当に被害者やったのか。そうじゃない」などと答えたという。
 このほか、政権に批判的なメディアに関し「マスコミをこらしめるためには広告料収入がなくなるのが一番」などの声も出た。
(後略)
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150626-00000035-asahi-pol

●百田氏発言「普天間飛行場、元は田んぼ」「地主年収、何千万円」を検証する(沖縄タイムス)

 普天間飛行場、もとは田んぼ→戦前は9千人超生活(注:上段地図参照)
 百田尚樹氏が「田んぼで、何もなかった」とする米軍普天間飛行場が建設された場所は沖縄戦の前、宜野湾村の集落があった。宜野湾市史によると、1925年は現在の飛行場に10の字があり、9077人が住んでいた。宜野湾や神山、新城は住居が集まった集落がほぼ飛行場内にあり、大山などは飛行場敷地に隣接する形で住宅があった。
(中略)
 飛行場は、まだ沖縄戦が終結していない45年6月、住民が収容所に入っているうちに、米軍が土地を占領して建設を始めた。住民は10月以降に順次、帰村が許されたが、多くの地域は元の集落に戻れず、米軍に割り当てられた飛行場周辺の土地で、集落の再編を余儀なくされた。
(後略)

 地主の年収 何千万円→100万円未満が半数超(注:下段グラフ参照)
 百田尚樹氏は「基地の地主はみんな年収何千万円」と発言した。しかし、地主の75%は200万円未満の軍用地料しか得ておらず、実態は百田氏の発言した内容と大きくかけ離れている。
 沖縄防衛局が発表した2011年度の軍用地料の支払額別所有者数(米軍・自衛隊基地)によると、地主4万3025人のうち100万円未満の地主が全体の54・2%に当たる2万3339人で最も多い。
 次いで100万円以上~200万円未満が8969人で20・8%を占め、200万円未満の割合が75%にのぼった。
(後略)
 http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=121681

 百田の「基地被害なぞ実際は無い」「沖縄県民ゴネ得」言説に対して、上記の沖縄タイムスの記事が完膚なきまでに論破していますが、私はそれに加えて、戦後の沖縄全体の歴史についても少し振り返ってみたいと思います。

沖縄戦後史 (岩波新書 青版 981)
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岩波書店


 岩波新書の「沖縄戦後史」によると、沖縄戦の後、焼け出された住民はしばらく島内のいくつかの強制収容所に隔離されていたそうです。その後、住民は強制収容が解かれ、自分の故郷に帰って行きましたが、既にその時には、米軍が「銃剣とブルドーザー」で、勝手に軍事基地の造成を進めていました。それに対し、伊江島など県内各地で、土地収用に対する住民の抵抗が広がります。その中で、米軍が住民の抵抗を抑えつける為に持ち出してきたのが、「プライス勧告」にもとづく地代一括払い・基地の永久使用(アメ)と、「土地収用令」による強制収用(ムチ)でした。「ムチ」の方は説明はもはや不要でしょう。「アメ」の方は、米軍が地主に軍用地料を一括して支払う事で、基地の永久使用権を得ようとしたのです。しかも、困窮状態にある島民の足元を見透かして、地価のわずか6%に安く買い叩いた地代を、16.6か月分一括払いの形で、手切れ金としてカタを付けようとしたのです。それに対して、島民は「カネの問題ではない」と、「一括払い反対、適正補償、損害賠償、新規接収反対」の4原則を掲げ、「島ぐるみ」の返還闘争に立ち上がります。その返還闘争が、やがて沖縄の祖国復帰運動にまで発展し、1972年の沖縄祖国復帰に結実していったのです。

 その一方で、沖縄では米軍兵士による強姦・殺人事件や飛行機墜落事故がたびたび起こっています。幼女が米軍兵士に強姦され恥部に異物をぶちこまれたまま遺体で発見された由美子ちゃん事件(1955年)、米軍ジェット機が小学校に墜落して多くの死傷者を出した宮森小学校事件(1958年)、信号無視の米軍車両により中学生がひき逃げされた国場君事件(1963年)、その他、多くの米軍犯罪の被告が、ほとんど無罪が軽い罪にしか問われなかった為に、その積年の不満がついに爆発して起こったコザ暴動(1970年)。代表的な事件だけでも、これだけあるのです。

 これらの辛苦を舐めさせられ続けてきた沖縄県民に対し、百田は「基地被害なぞ実際は無かった」「沖縄県民はゴネ得」だと罵り、今もその発言に対し、謝罪も撤回もせずに居直り続けているのです。
 これを現代の福島に置き換えてみれば良く分かるでしょう。政府や東電の原発推進・安全無視によって引き起こされた福島の原発事故に対し、未だ故郷に帰還できずに避難所暮らしを強いられている避難者に対し、「原発被害なぞ実際は無かった」「福島県民はゴネ得」だと罵り、政府や東電を免罪し続けているのと、同じ事を百田は行っているのです。
 百田の行っている事は、正にデマゴギー(ウソ宣伝)そのものではないですか。そして、沖縄県民に対するヘイト(差別扇動・憎悪)発言そのものではないですか。
 かつて、ナチスドイツの宣伝相ゲッペルスは「ウソも百遍言えば真実になる」とうそぶきました。今、百田が行っているデマ宣伝・ヘイト発言も、これと全く同じではないですか。ナチス時代のユダヤ人が、百田の脳内で勝手にでっち上げられた「反日沖縄人」や「反日韓国人」に置き換わっただけで。

●<勉強会問題>自民、火消しに躍起 3氏が出演辞退(毎日新聞)

 自民党若手議員の勉強会「文化芸術懇話会」で出た報道機関への圧力を求める発言が、波紋を広げ続けている。27日未明放送のテレビ朝日系「朝まで生テレビ!」に出演予定だった自民党議員が、直前に出演を辞退した。懇談会を巡る問題で批判を浴びることを懸念する党本部の意向もあったとみられる。同党は関係議員の処分を発表するなど火消しを急ぐが、発言封じともとれる姿勢に野党は反発。有権者の不信を招く可能性もある。
(中略)
 番組内で説明したプロデューサーらによると、出演予定だった自民党議員3人が「地元の日程の調整がつかない」と辞退。その穴を埋めようと自民党議員三十数人に出演を求め、1人が出演を承諾した。だが放送直前、この議員も「体調不良」を理由に辞退した。
 司会の田原総一朗氏は番組で、辞退の背景について「安保法制の議論が際どいところへきている」と語り、懇話会問題も影響したと分析。公明党については「なぜ出ないのか。自民の子分でもあるまいし」と批判した。
(中略)
 懇話会に出た議員たちは、おわびや釈明に追われた。
 懇話会代表で党青年局長を更迭された木原稔氏(熊本1区)は27日、地元での会合で、支持者に「私の本意に反して国会運営に多大な迷惑をかけたことを申し訳なく思っている」と陳謝。会合後、取材に「処分は全面的に受け止める」とした。
 「(圧力を加えるには)広告収入をなくすのとスポンサーにならないことだ」などと発言した井上貴博氏(福岡1区、厳重注意)は26日、「私の発言が誤解を招いたとすれば申し訳なく思っている」と、おわびのコメントを発表した。
(後略)
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150627-00000055-mai-soci

 自民党の勉強会に百田を呼んで、奴と一緒にデマ宣伝やヘイト発言に興じていた奴らが、今頃になって言い訳に終始していますが、全然言い訳にもなっていません。勉強会の座長を務めた木原稔いわく「私の本意に反して国会運営に多大な迷惑をかけたことを申し訳なく思っている」?同じようにヘイトに興じていた井上貴博いわく「私の発言が誤解を招いたとすれば申し訳なく思っている」?
 「国会運営に多大な迷惑をかけた」から、「私の発言が誤解を招いた」から申し訳ないのか。じゃあ、国会閉会中に、誤解を招かない(揚げ足取られない)ようにさえすれば、いくらでもデマやヘイトを垂れ流して良いのか。そんな問題ではないでしょう。

 そもそも、それ以前に、米軍占領下の無権利状態の中から、必死になって祖国復帰運動に邁進してきた沖縄県民に向かって、偉そうに「左翼に乗っ取られた」だの、「ゆがんでいる」だのと言い放つ百田どもに、果たして「愛国者」を名乗る資格があるでしょうか。自分達こそが「アメリカのポチ」のくせして。
 「中国に島の一つでも乗っ取られたら沖縄も目が覚めるだろう」?米国に沖縄が乗っ取られ、ジェット機が小学校に墜落しても米軍に強姦やひき逃げされても、沖縄県民を見殺しにしてきたくせに、今頃何を言っているのか。自分達こそ「米国に乗っ取られている」くせに。「ゆがんでいる」のは、むしろ自分達の方じゃないか。

●百田尚樹氏:発言は「飲み屋でしゃべっているようなもの」(毎日新聞)

 作家の百田尚樹氏は27日、福岡市であった福岡大学の同窓会の会合で講演した。自民党の懇話会での発言について「報道陣が出た後の公開されていない内輪の席での会話を報道された。テレビやラジオの発言なら言い訳は通用しないが、飲み屋でしゃべっているようなもの。飲み屋では何でも言う。『あいつ殺したろうか』って、これ殺人未遂(になるのか)」などと弁明。
(中略)
 講演後に報道陣の取材に応じ、「沖縄の話は冗談で軽口」と主張し、「ニュアンスを考慮せず大騒ぎするのは卑劣」と報道を批判。安保法制の審議への影響について「野党が僕の発言をうまく利用している。汚い」と述べた。また、講演前に自身のツイッターで「本当につぶれてほしいと思っているのは、朝日新聞と毎日新聞と東京新聞」などとツイートしており、理由について百田氏は「嫌いだから」と話した。
 http://mainichi.jp/select/news/20150628k0000m040064000c.html

 うそつけ!テレビやラジオでも、平気でデマやヘイトをまき散らしているじゃないか!「冗談」「軽口」で「飲み屋でしゃべっているような」つもりなら、何を言っても良いのか。
 じゃあ、私も「冗談」「軽口」で「飲み屋でしゃべっているような」つもりで言ってやろうか。「俺は百田、お前なんか大嫌いだ。本当に死んで欲しいと思っている。いっそ、一思いに殺してやりたいくらいだ。このままでは、本気で、南京大虐殺ではなく『百田大虐殺』を実行するぞw!」・・・これも、ホンの「冗談」で言ったのだ。百田、お前と同じような口調で。それに対して「政治利用」だとか絶対に言うなよ。
 しかも、百田の場合は、自民党本部の党公認の会合で、政治家相手に、安倍首相の後ろ盾を背景に、いわば「お上公認」でデマやヘイトを垂れ流しているのだ。権力を嵩(かさ)にきてのヘイト発言であり、一般庶民の「飲み屋」談義とは到底一緒にはできない。

●「百田さんにも言論の自由ある」 松井一郎・大阪府知事(朝日新聞)

 松井一郎・大阪府知事(維新の党顧問)は26日、自民党議員の勉強会での百田尚樹氏の発言をめぐり「(メディアに)『圧力をかけよ』と言ったのは自民党。自民党をたたくのはいいが、講師として行った百田さんにも表現と言論の自由はある」と擁護した。さらに「ここぞとばかりに復讐(ふくしゅう)だな。朝日(新聞)と毎日(新聞)は、百田さんの表現と言論の自由を奪っているのではないか。圧力をかけて」などと、発言についての報道にも疑問を呈した。
 http://linkis.com/www.asahi.com/articl/h93IW

 「百田さんにも表現と言論の自由はある」?そりゃあ、百田に限らず、どんな人間にも「言論の自由」はある。但し「デマを垂れ流す自由」や「ヘイトを煽る自由」なぞ、誰にもない。
 松井よ、お前にはこの違いが分かるか?
 本来、「自由」とか「権利」とか言うのは、権力の横暴に対する抵抗の中から生まれてきた概念なのだ。だから、中世のイギリスで、税金を好き勝手にかける国王に対して、貴族が一致団結して、「議会で承認された法律に則らなけければ税金をかける事はできない」と、「マグナカルタ」で国王に約束させた。これが「憲法」の始まりだ。
 そして、フランス革命で、どの人間にも「人間として生きる権利」がある事を国王に認めさせた。これが今の「基本的人権」や「自由」の考え方の基になった。
 「どの人間にも、人間として生きる権利がある」、それを前提に「言論の自由」も「財産の自由」も成り立っている。だから、いくら自由だと言っても、「弾圧の自由」や「殺人の自由」、「ヘイトやデマを垂れ流す自由」なぞ、どこにもないのだよ。それは一般庶民であろうと権力者であろうと同じだ。
 ただ、そうは言っても、現実には「知る権利」VS「プライバシー権」や、「マンション住民の居住の自由」VS「近隣住民の日照権」のように、権利同士が互いに衝突する場合も少なくない。その場合は、誰かの権利だけが一方的に侵害される事がないように、互いに譲り合う必要がある。それが「公共の福祉」という概念だ。しかし、それは、あくまでも「誰かの権利だけが一方的に侵害される事がないように」する為の物であって、「弾圧の自由」とは全然別物だ。
 そんな事、小・中学校の社会科の授業で習わなかったか?そんな事も知らないで、よく政治家が務まるな。流石は「維新の党」の顧問だけある。いくら野党のふりをしても、所詮は「自民党の別動隊」にしか過ぎない事が、これで良く分かった。

 最後に。百田のベストセラー「永遠のゼロ」の描写から、いまだに奴の事を「反戦作家」と誤認する人が多いようです。しかし、あの小説をよく読めば、それがとんでもない間違いだという事が分かります。あの小説のあらすじを一言で言うと、「戦争嫌いの特攻パイロットだった私の祖父が、同僚を無駄死にさせない為に、自分が身代わりとして死んでいった」というものです。しかし、本当に戦争を忌み嫌っていたら、自分も同僚も助かろうとするはずです。ところが、小説では自分が身代わりとして死んでいく。所詮は祖父の「戦争嫌い」も、特攻美化の道具立ての一つでしかない。だから、「出撃先でバク天宙返りを演じ、米軍から後で見事だったと褒められる」なぞという、およそ現実の戦闘ではあり得ないような描写が出てくるのです。百田も本当に「反戦作家」なら、安倍政権の応援を買って出て、沖縄県民をゴネ得と罵ったりなぞしないはずです。
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やはり、百田はバルザックにはなれない! (バッジ@ネオ・トロツキスト)
2015-06-30 10:33:48
>最後に。百田のベストセラー「永遠のゼロ」の描写から、・・・・・・・・・・・・百田も本当に「反戦作家」なら、安倍政権の応援を買って出て、沖縄県民をゴネ得と罵ったりなぞしないはずです。

やはり、百田文学の本質は、マルクスが褒めた「反動懐古主義文学者・バルザックのリアリズム」のようなものではなかった、ということなんでしょうねw
自分の反進歩的政治イデオロギーさえ打ち破って滲みだして来る人間的なものとは、バルザックのようにリアルな現実認識に立脚している、ということなのでしょう。百田の虚構世界は、単なる幻想や恣意的願望でしかなかった。それも、進歩や人権とは無縁な。
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おまけ(唯物論的法学観)w (バッジ@ネオ・トロツキスト)
2015-06-30 15:01:03
>本来、「自由」とか「権利」とか言うのは、権力の横暴に対する抵抗の中から生まれてきた概念なのだ。だから、中世のイギリスで、税金を好き勝手にかける国王に対して、貴族が一致団結して、「議会で承認された法律に則らなけければ税金をかける事はできない」と、「マグナカルタ」で国王に約束させた。これが「憲法」の始まりだ。

これは、立憲主義や近代法律論の説明としてはその通りなんだけど、オレは、いつも強調しているように、唯物論者にはもっと根底的・土台的な事実も見て欲しいと思うんだよなぁw
そう、中世封建社会が破たんして、その中から近代市民社会(それは、一面ではブルジョア的な資本主義社会でもあるけど)が産まれ出て来る原因ですよ。
言い換えれば、「権力の横暴」というような観念それ自体が庶民の中にも育ってくる、法的カテゴリーや法的観念の発生原因や発生プロセスのことです。

つまり、人間に生まれながらの身分差があった封建社会の下では経済のサブシステムでしかなかった商品経済(日本では信長や秀吉の「市」奨励、堺の市場経済育成政策などを想起!)が、社会の生産力の発展に伴って社会全体を徐々に覆って来るにしたがい、マルクスが書いていたように、自由で対等・平等な私的諸個人(=私的所有者)たちの間の人間関係を社会全体が建前的な規範にせざるを得なくなってくるということを。言い換えれば、自由や民主主義、人権などの唯物論的土台のことです。

自由でも対等でもない封建領主と農民の間で経済外的な強制によって行われていた年貢や苦役の徴発のような関係が、自由で対等な人間関係を不可欠にする商品経済(=商品交換関係)とは相いれず、王侯貴族による収奪が等価交換原則に抵触するものとして徐々に人々の間で非常識化して行く中で近代の市民革命が起こる、というプロセスのことですよ。
つまり、自由や民主主義、人権の発生母胎としての商品経済。

 ((もっとも、資本主義社会は、この商品経済(商品交換関係)だけでは成立せず、労働力までもが商品化して賃労働制度が資本主義のもう一つの不可欠な構成要素になるから、「領有法則の転回」に伴う自由や民主主義、人権の否定という矛盾の中で社会的意識の陶冶も強制されるのですけれどね。
つまり、資本のシステム(市場経済)による、自由や民主主義、人権の措定(=肯定)と賃労働制度によるそれの否定という矛盾が、人間意識に自由や民主主義、人権などの侵害とその擁護や徹底を希求させるということ。資本による人格の陶冶プロセスのことです。))

ま、法律の影に生産(労働)有り!ですw
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観念論VS唯物論 (バッジ@ネオ・トロツキスト)
2015-06-30 20:09:32
何でこんな↑ことを、ここでいつも再三再四強調してクドクドしく書くかと言うと、観念論的な(=法律学の幻想に囚われた)自由論や民主主義論、人権論というのは、それらを人間にとって「天賦」のものだと強弁するものだから、人間社会における自由や民主主義、人権の歴史的到達点や歴史的に制約を受けている現在のいろいろな形態を固定化して絶対視・永劫視しちゃうからなんですよね。でも、それじゃ、唯物論でも弁証法でもない!と。

そういう法律学の幻想的な観念論的理解では、例えば、私的所有権や搾取の自由などを永劫視することにもなっちゃうんです。また、領有権を否定する南極条約や宇宙条約の誕生とか、土地所有権を規制する各種の建築規制法理などの歴史性も理解出来ない。
搾取の権利などが将来死滅または廃絶されることも、納得出来ないことになる。確信をもてない。
人権天賦説のような観念論的な自由論、権利論では、自由や権利についての唯物論的な基礎への理解が無いから、その発生や死滅についても視野から落ちてしまう。民主主義の形態が歴史的に変化して行くこととか、ある種の自由や権利が規制を受けたり死滅して行くこと、廃絶されることが理解出来ない。

その上に、資本主義経済が未熟だったロシアで「社会主義」革命が成功し、その後の体制が社会主義を僭称していた20世紀には、そんな革命の影響もあってマルクスの「領有法則の転回」論を無視・軽視する20世紀型のマルクス主義がハバをきかせていた。
資本(の矛盾)による人間の陶冶を経験できなかったロシア社会では、レーニン的な「外部注入」説が運動や理論の正統派を僭称していた。
そう、ロシアや中国のような遅れた社会での革命と「社会主義」が「お手本」化していたために、マルクスの変革主体形成論がすっかり忘れ去られていたということです。インテリ左翼が指導する共産主義運動という観念的・主意主義的な階級闘争史観がマルクス主義の正統視されていた。

でも、こういうのって、ぜーーーーーーんぶ、ニセモノなんですよね。
人権天賦説も外部注入説的階級闘争主義も、正体は同じものです。そう、単なる観念論。

ご理解いただけるでしょうか?
資本主義の歴史的使命・歴史的存在意義とは、資本の矛盾が人間を覚醒させ陶冶するからこそなんですよね。
矛盾の存在こそが、事物も人間意識も発展させるんです。
返信する
参考資料 (バッジ@ネオ・トロツキスト)
2015-07-02 10:18:39
http://8727.teacup.com/2004mirai/bbs/58

http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-1396.html#comment18868
返信する

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