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アジアと小松

アジアの人々との友好関係を築くために、日本の戦争責任と小松基地の問題について発信します。
小松基地問題研究会

24年ぶりに、政府がしぶしぶ認めた日本軍性奴隷関係資料について[修正版]

2017年07月15日 | 日本軍性暴力関係原資料
24年ぶりに、政府がしぶしぶ認めた日本軍性奴隷関係資料について
2017年7月


 2017年6月27日、アメリカ・アトランタ日本総領事館の篠塚隆総領事は、インタビューに答えて、「日本軍が第2次世界大戦中に、その多くが韓国から来た女性たちを性奴隷としていたとの証拠はない」、(「慰安婦」像については)「日本人に対する憎しみと恨みのシンボルだ」と話した。

 河野談話から四半世紀、日本軍「慰安婦」制度が性奴隷制度であることは国際的常識となっているにもかかわらず、日本政府とその官僚達はその事実を認めようとしない。今さらながらという思いはあるが、日本政府が「新資料(本当は全く新しくない)」を公認したことを機会に、私たち自身も真実の再確認のための作業をしなければならないのではないか。

(1)政府公認となった19簿冊182点
 今年(2017年)2月3日、「いわゆる従軍慰安婦問題の調査結果について(1993年8月調査後発見分)」という文書(24~42番、19簿冊182点)が国立公文書館から日本政府(内閣官房副長官捕室)に渡され、「政府公認」の文書になった。

 6月16日、紙智子参議院議員はこれらの文書(24~42番)の存在と内容に関する「質問主意書」を提出し、政府は6月27日に「答弁書」を閣議決定した。

▼質問主意書と答弁書
 「質問主意書」には、桂林市民9人の宣誓供述書、カゾーラ・フエルナンの宣誓供述書、バタビア裁判・第25号事件、ポンチャナック裁判・第13号事件の起訴状及び判決文、バタビア裁判・第69号事件、同裁判・第106号事件に記述されている性奴隷事件に関する質問などが列記されている。

 政府の「答弁書」には、政府(内閣官房)が182点の資料を入手したこと、これらの「慰安婦」関係文書がはじめて内閣官房に渡されたこと、「慰安婦」関係文書には日本軍性奴隷関係の記述があることを認めている。

 すなわち、1993年から24年ぶりに日本政府が、正式に日本軍性奴隷関係の新たな資料の存在を認めたという点では、重要な経過点だが、24年間無視し続けてきたということも指摘しておかねばならない。(2017年4月17日の共同通信によれば、内閣官房は「強制連行を示す記述は見当たらないという政府認識は変わらない」と言っている)

▼19簿冊182点の原資料とは
 19簿冊182点の膨大な資料は強制動員真相究明ネットによって、すべて活字に打ち直され、誰もが容易に読み、検証することが出来るようになった。バタビア裁判・第69号、同・第106号事件資料はすでに2014年に活字化され、その余の資料の多くも個別に検証されており、二番煎じではあるが、政府がしぶしぶ認めたという現時点であらためてこれらの資料を検証し、真実に迫ることも無駄ではないと考える。

 19簿冊182点の原資料を列記すると、
(24)「インドネシア/ポンチャナック虐殺事件・林秀一訊問調書(性的虐待)」★▼⦿
(25)「インドネシア/モア島原住民殺害・強制売淫事件」★▼
(26)「インドネシア/ムンチラン訊問調書(強制性奴隷)」★▼
(27)「インドネシア/チモール無差別機銃掃射と掠奪(慰安所への連行)」★▼
(28)「ベトナム/ニェン・ティ・トン供述書(慰安所への強制)」▼
(29)「中国/桂林市民控訴其の1(性奴隷)」★◎▼
(30)「ベトナム/F・カブリラーグ供述書(拷問、性奴隷)」
(31)「インドネシア/バタビア裁判・第25号事件(強制性奴隷)」▼▲⦿
(32)「インドネシア/バタビヤ裁判・第88号事件(強制性奴隷、慰安所)」▼▲⦿
(33)「インドネシア/ポンチャナック裁判・第13号事件(慰安所、性奴隷)」▼▲⦿
(34)「インドネシア/バリックパパン裁判・第9号事件(強制連行・売淫)」⦿
(35)「インドネシア/バタビヤ裁判・第69号(性奴隷・慰安所)」◆▲⦿◎
(36)「インドネシア/バタビヤ裁判・第106号(被告能崎、性奴隷・慰安所)」◆▲⦿◎
(37)「インドネシア/バタビヤ裁判・第5号事件(被告青地、性奴隷・慰安所)」▲⦿◎
(38)「中国/南京裁判・第12号事件(被告谷寿夫、強姦)」▼⦿
(39)「中国/徐州裁判・第1号事件(強姦)」▼⦿
(40)「中国/上海裁判・第136号事件(強姦致死)」▼
(41)「中国/太原裁判・第3号事件(強姦、性奴隷)」▼⦿
(42)「グアム裁判・第1号事件(慰安婦募集・軍に提供)」▲
(注)◆印2点は『BC級バタビア裁判・スマラン事件資料』(2014年)に収録。★印5点は『東京裁判-性暴力関係資料』(吉見義明監修・2011年)に収録。◎4点は『日本軍「慰安婦」関係資料21選』(2015年)に掲載。▼印13点は林博史さんが解説・論文を書いている。▲印7点は『アジア太平洋研究センター年報2013-2014』所収の佐治暁人論文で紹介。⦿印11点はブログ「近現代史・腹備忘録」に解説がある。残り1資料(30番)だけが確認出来なかった。

▼政府作成の「概要一覧表」「記述の概要」
 今回開示された19簿冊について、日本政府(内閣官房副長官捕室)は「概要一覧表」を作成し、そのなかに「記述の概要」という項目を設けている。そこには、「淫売屋」「娼家」「娼楼」「慰安所」「婦女子は売淫行為を強制」「慰安所に入所せしむべく命じ」「強制売春せしむる目的にて…婦女子を…誘拐」「強制売淫」「強迫我国婦女作肉体之慰安」「婦女強迫為娼」「徴集婦女強迫為娼」などと記入されており、これらの文書が日本軍による「慰安婦」「性奴隷」「強姦」について、明示された文書であることを、政府自身が認めている。

 「19簿冊182点の原資料」によって、日本軍による「慰安婦」「レイプ」の証拠が公式に追加され、活字にされたとはいえ、あまりにも膨大であり、原資料の活字化にたずさわってきた筆者自身が検証する必要があると考える。したがって、そのなかから幾つかの事件(資料)を選んでレポートする。

(2)バタビヤ裁判88号事件
 ジャワ島東部の農園労働者のサボタージュ(Kesilir事件及び農園事件など)にたいして、「秘密法」(日本軍の作戦行動を阻害したものは裁判に送らず書類のみを以て死刑の判決を下しうる―こんな「秘密法」があったことは驚きである)によって、苛酷な弾圧をおこなった「ジョンベル憲兵分隊事件」である。

 1942年4月から1945年9月の間に、ジャワ島東部のジョンベル、ボントウオソおよびバニュワンギで、日本軍の憲兵隊員が、被検挙者の拷問・虐待とそれによる致死、オランダ人女性への慰安所での売春の強制などの戦争犯罪を犯したとして、1948年にオランダ軍バタビア法廷で裁かれた事件(88号事件)である。

 臨時軍法会議附託決定書には「1943年頃…ジョンベルに於て…シャーン・ポール(パウル)と呼ばれる下宿屋にをりし和蘭国籍の婦人等に売淫を強制するため、日本人により一般に慰安所として知られているジョンベル内の各建物に閉じ込め居住せしめ、同慰安所を訪問するすべての日本人の毒牙の餌食になさしめ、ために彼女らに劇しき心身の苦痛を蒙らしめたり」

 「第4被告(野口)は、ボンドウオソに於て1943年11月午後11時頃…イエ・セリセルデモルサーンなる婦人を暴力を以て脅迫し、松崎なる日本人と強制的性的関係を結ばしめたることに依り、戦犯行為をなしたり。ために彼女に劇しき心身の苦痛を与へたり」

 「第8被告(実松)は、1943年夫々3月及4月…ボンドウオソ及バニュワンギに於て…ア・ハ・ファンデスク及ヨビイ・スラッタなる両名の婦人等に対し、結婚を経ずして性的関係を行ふため、暴力を用ひ、強姦せり。ために上記両名は劇しき心身の苦痛を蒙りたり」と書かれ、性奴隷事件の証言(後掲)が具体的に挙げられているにもかかわらず、判決には全く反映されていない。

▼午後10時にデートのお誘い!
 しかし、被害女性(W.SPIERO 23歳)の証言を辿ってみると、そこには天皇の軍隊・憲兵隊の非常に悪質な暴力支配が見てとれる。

 1942年、3人の憲兵隊員が午後10時頃に女性宅を訪問して、「映画を見に行こう」とデートに誘うが、母親も本人も拒否した(当然だ! 武装した憲兵が夜中の10時に未婚の女性を誘い出すなど誰が容認するか!)。憲兵(実松)は激怒し、娘を掴み、自動車まで引きずり込んだ。その時、娘が実松を衝いたため、彼は躓いた。実松は椅子を取り、それで娘を殴り、更に軍靴で蹴り、何度も手当り次第に殴打した。これが日本軍・憲兵の姿だ!

 母親はこの虐待行為を見ておられず、実松の前に膝まずき、娘を虐待するのを止めるよう懇願した。実松は母親の咽喉に掴みかかった。母親は自動車の中に坐って待っていた杉山のところに行き、虐待をとめてくれと懇願した。ところが、何と杉山は「私は貴方の娘を助けて上げるが、貴方の娘が私と一緒に行く事を約束して貰ひたい」と答えたというのだ。権力をかさに着た居直り強盗のようなやり口である。

▼強制連行と監禁とレイプ
 そして母親は「絶望の余り、また斯かる虐待を避けんがため」に、娘を引き渡さざるを得なかったのである。母親は娘が車に乗せられていくのをどんな気持ちで見ていただろうか。

 実松による虐待のため、娘の顔は腫れあがり、激しく頭痛がしていた。杉山の部屋に閉じ込められ、1週間が過ぎたころ、杉山は肉体関係を要求したが、娘はこれを拒否し、部屋を出ようとしたが、ドアーには鍵がかけられていて出る事が出来なかった。杉山は娘の両腕を握り、ベッドに押し倒し、着物を引き破った。そして強姦に及んだのである。

 その後杉山は2日に1回の割で娘をレイプし、娘は3ヶ月間杉山と強制的な同棲をさせられたのである。

 娘は次のような証言もしている。「私は下記の婦人等がバニュワンギの憲兵隊に依り逮捕され、バニュワンギの慰安所に売淫として置かれた事を知っている。バニュワンギに居たF姉妹、Brassan Kesilirに居たY・S、バニュワンギに居たPの娘、ボントウオソに居たB姉妹、バニュワンギに居たG・B・W嬢」

▼暴力と恐怖による支配
 調査官の「貴下は杉山が出ていった時に、逃げる考へが起らずや?」と質問したが、娘は「私が逃げようと思へば、逃げる事が出来たが、杉山から再び逮捕され慰安所に入れられる事を恐れて、別に逃げようと努力しなかった」と答えている。

 連合国の戦犯裁判・裁判官はこれらの言質を捉えて、「自発的」と判断したのだろうが、娘にとっては、多数の兵士が押し寄せてくる慰安所を選ぶのか、1人の兵士専属の性奴隷を選ぶのかという地獄の選択が強いられたのである。まさに、もっと状況の悪い慰安所への恐怖から、現状に耐えていたに過ぎないのだ。又、暴力と恐怖による支配が続いたが故に、精神的に「ストックホルム症候群」を発症していたのかも知れない。

 この性奴隷事件は連合国によっては裁かれなかった。すでに70年を過ぎているが、ナチス犯罪の時効を取り払ったドイツに学んで、今こそ天皇制軍隊・憲兵隊の戦争犯罪を世に明らかにし、その責任を裁かねばならない。

(3)バタビア裁判25号事件
 バタビア25号事件(バリ島民虐待、性奴隷)とは、1943年11月より1945年8月に至る間、バリ島デンパサル所在の海軍特別警察隊がバリ人、中国人ら多数の市民を逮捕して、殴打虐待し、また多数の女性に性奴隷を強制した事件である。

▼性暴力関係の記述
 判決や訊問調書のなかから、性暴力関係の記述を抽出すると、判決文には、「被告は…T・S・L及びチュ・スイ・シャンなる娘を当時の隊長林田大尉の命によりたるにせよ、暴力と脅迫を用ひ、性交を強いる目的を以て、同大尉の家へ強制的に連行せし件に対しても有罪なり」と記載されている。

 海軍兵曹長Aの証言記録には、下記内容が記載されている。
 「余はT・S・Lを林田の命にて連行せるを記憶す。林田は此の婦人を好みたり。娘が拒みたるも、余は之に承諾せしむべく撲りたり。…娘は母親と共にデンパサルに送られたり。娘は絶えず泣きありたり。…林田が最初強姦せる件、余は彼女が叫ぶのを聞きたり」

 「数日後他の女がT・S・Lが自殺を計りたるを語りたり。余は之を林田に報告し、彼女が帰宅してよきや問ひたり。林田は更に一度同衾し、帰宅を許されたり」。

 「1943年にはデンパサルには女郎屋なく、兵にとり極めて面白からざりき。此の年橋本中佐(バリー)は女郎屋を作ることを命じたり。本設立は通訳山縣に命令され、山縣は多分Ocman Bacy…に本設立を命じたるが如し」「バリー女が不足なりしを以て特警隊長浜田は酒井●●に之が補充方法を依頼したり。酒井は余に援助を求めたり。余は…兵隊が可哀相に思ひたるため遂に援助を致したり」。

 海軍兵曹長Dは「私の一番恐れていた事件は慰安所事件であった。これは慰安婦の中には、スラバヤから蘭軍下士官の妻君5人の外現地人70人位をバリ島に連れて来た件である。…この外にも戦中の前後約4ヶ年間に200人位の婦女を慰安婦として、奥山部隊の命によりバリ島に連れ込んだ」「私は終戦後、軍需部、施設部に強行談判して、約70万円を本件の工作費として貰い受け、各村長を介して住民の懐柔工作に使った。これが完全に効を奏したと見え、一番心配した慰安所の件は1件も訴えが出なかった」と証言している。

▼何が起きていたのか
 ここで確認出来ることは、日本軍がバリ島に慰安所を設置するよう命令したこと。「慰安婦」の数が足りないので、スラバヤから200人くらい連行してきたこと。性奴隷を強要された女性が自殺を計ったこと。Aが娘を上官(林田隊長)の性奴隷にするために殴打したこと。林田隊長が強姦したこと。Dは敗戦後これらの事件が戦争犯罪として裁かれることを予測し、懐柔(揉み消し)工作をおこなったことである。

 ここでは明確に「200人位の婦女を慰安婦として、奥山部隊の命によりバリ島に連れ込んだ」と書かれているのに、内閣官房は「強制連行を示す記述は見当たらない」(2017年4月17日共同通信)と答えている。政府・官僚の日本語理解能力を疑わざるを得ない。

(4)中国における性奴隷事件
 今回、日本政府が公式に存在を認めた19簿冊の資料のなかには、中国における戦犯裁判記録があり、❶「桂林市民控訴其の1(性奴隷)」、❷「南京裁判・第12号事件(被告人谷寿夫、強姦)」、❸「徐州裁判・第1号事件(強姦)」、❹「上海裁判・第136号事件(強姦致死)」、❺「太原裁判・第3号事件(強姦、性奴隷)」の5件である。

▼南京虐殺第12号事件
 南京・第12号事件とは、南京に突入した第6師団将兵と師団長が訴追された事件である。1937年8月、永定河、保定、石家荘などを進軍した日本軍は、衣服、骨董品など28箱及び家具などを掠奪し、また多数の中国人婦女を強姦した。更に、同年11月初旬に杭州湾より上陸して、崑山、太湖を経て南京戦に参加した谷部隊は中華門を政略し、同年12月13日南京に入城し、南京大虐殺を引き起こした部隊である。

 本事件は、第6師団が犯した累々たる戦争犯罪のなかから、銃殺122件(合計334人)、刺殺14件(合計195人)、集体殺害15件(合計95人)、その他殺害60件、強姦15件(43人)、掠奪及び財産破壊3件(合計17人)を具体的に取り上げて、訴追したものである。具体的に、15件43人の強姦事件についてみていこう。

▼起訴書と起訴書附件記載の事実
 起訴書には「該被告が南京中華門外の沙洲圩に於て■■■及■■の2人の娘など3名を強姦せる事実。賽虹橋に於て■■■等4名を強姦せる事実、九兎巷、黄泥●の各所に於て■■■等数十人を強姦或は輪姦せる事実、亦行軍の途中に於て南京雨花台等に在りて■■■の娘を暴力を以て捜し出し、同女を肉体的慰安の具に供したる事実等は全て其の被害者及目撃した証人■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 等各個に対する取調の結果及法廷に於ける陳述等歴々たる証明あり(偵査巻及附件乙参照)」と記載されている。 (注:■は情報開示時の伏せ字、●は読解不能の文字)

 起訴書附件には、①陰暦11月16日珍珠巷に於て強姦未遂、②2人は陰暦11月12日黄泥塘地洞内より引き出され輪姦後銃殺さる、③5人は陰暦11月10日より20日に至る間雨花路に於て強姦及少女等強奪しようとして未遂に終りたる為刺殺、④10人は陰暦11月10日より13日に至る間中華門停車場及羊巻地洞に於て人伕として拉致され又は強姦を遂げなかった為刺殺さる、⑤8人は陰暦11月10日より12月に至る間珍珠巷塘辺西衛等各所に於て言語不通及強姦未遂に終りたる為刺殺、⑥陰暦11月12日沙洲圩に於て強姦さる、⑦4人は陰暦11月11日より18日に至る間賽虹橋南村及北村に於て強姦さる、⑧3人は陰暦11月11日より16日に至る間及12月9日沙洲圩に於て日兵に強姦された、⑨陰暦11月12日九児巷19号の家中に於て日兵より強姦の上殺害さる、⑩陰暦11月11日毛管渡に於て日兵に強姦の上殺害さる、⑪陰暦11月16日黄泥塘本宅に於て日兵に強姦の後殺害さる、⑫陰暦11月11日仁厚里5号に於て日兵に強姦後殺害さる、⑬陰暦11月13日雨花路に於て日兵に強姦後殺害さる、⑭3人は12月11日高輩北村及双唖叭村に於て日兵に強姦後殺害さる、⑮12月頃太平橋に於て強姦後さる、と15件43人の被害を列記している。

▼被告人の弁明と判決
 被告人谷寿夫は「申弁書」で、「婦女を慰安の具に供する如きは真に被告の夢想だもせざる」としらを切っているが、判決では以下のとおり事実を認定している。

 「日軍の南京陥落後に於ては更に強姦続出し、淫欲を恣にしたり。外人の組織せる国際委員会の統計に依れば、12月16,17両日に於て日軍に蹂躙されたわが婦女は実に1000人を超え、…例へば12月13日の如く民婦■■■は中華門東仁厚里5号に於て日軍の強姦を蒙りたる後、剖腹せられ、焚殺せらる。妊娠9ヶ月の孕婦■■■、16歳の少女■■■、■■姑娘及63歳の婦女も亦中華門地区に於て悲惨なる姦汚に遭ひ、郷女■■■は中華門推草巷に於て13人の日兵輪姦され、余りの惨虐に堪え兼ねて救声を挙げた所、直に刀を以て刺されて死に至る」。

 「同じく17日に至る間日軍は中華門外に於て少女を強姦したる後、其処を通りかかりたる僧侶に続行を命じたるも、之を拒否した為、虚勢の刑に処して死に至らしめ、亦中華門外土城頭に少女3人あり、日軍の強姦に因り羞恥の余り江中に投身自殺せり」。

 「凡そ南京に留まる我が婦女は皆●難を怖れて国際委員会の制定せる安全区に迯避したるも、日軍は国際正義を顧みず、其の獣欲を止むること無く、暗夜に乗じ、垣を超えて侵入し、老幼を問はず、手当たり次第強姦を逞くした」と事実を認定している。
 
▼中国大陸の至るところで
 「桂林市民控訴其の1(性奴隷)」には、「敵軍の我が桂林を侵略せしは1年間にして、その間姦淫、捕虜、掠奪等為さざる処無く、長縄大尉は…四方より女工を招致し、麗●門外に連れ行き強迫して妓女として獣の如き軍隊の淫楽に供した」と記述されている。

 「太原裁判・第3号事件(強姦、性奴隷)」の判決には、「被告は1945年5月その娘を強姦し、婦女を集めて強迫して娼とした事実がある。審判訊問を●●被告は堅々承認せず、…又婦女を募集して強迫して娼となしたのは警備隊太■中尉が主管であって、彼とは関係がなかった云々と言っている。…被告に上述行為があった証明をするに足りる以外のその他証拠がない」と、被告が中国人の娘を強制的に性奴隷にしたことが認定されている。

(5)インドネシアの至るところで
▼日本軍海軍大尉の証言
 問 或証人は貴方が婦女達を強姦し、その婦人達は兵営へ連れて行かれ、日本人達の用に供せられたと言ひましたが、それは本当ですか。
 答 私は兵隊達の為に娼家を1軒設け、私自身も之を利用しました。
 問 婦女達はその娼家に行くことを快諾しましたか。
 答 或者は快諾し、或る者は快諾しませんでした。
 問 幾人女がそこに居りましたか。
 答 6人です。
 問 その女達の中の幾人が娼家に入る様に強ひられましたか。
 答 5人です。
 問 どうしてそれ等の婦女達は娼家に入れられたのか。
 答 彼等は憲兵隊を攻撃した者の娘達でありました。
 問 ではその婦女達は父親達のした事の罰として娼家に入る様強ひられたのですね。
 答 左様です。
 問 如何程の期間その女達は娼家に入れられていましたか。
 答 8ヶ月間です。
 問 何人位その娼家を利用しましたか。
 答 25人です。

▼ムンテラン収容所抑留者(27歳)の証言
 我々はテウグランと称せられ14の家屋から成っていた小さい収容所へ連れて行かれました。…1944年(昭和19年)2月3日、私達は再び日本人医師に依って健康診断を受けました。此回は少女等も含んで居ました。其処で私達は日本人向き娼楼に向けられるものであると聞かされました。…寝室だけは戸を錠で閉して私は其処へ閉ぢ籠り、…私は是を2月5日、日曜日まで継続しました。

 其日にも亦日本軍兵卒等が収容所へ入って来ました。(以前は日本軍将校のみでした)是等兵士の幾らかが這入って其の中の1人は私を引張って私の室へ連れて行きました。私は一憲兵将校が入って来るまで反抗しました。其憲兵は私達は日本人を接待しなければならない。何故かと云へば若し吾々が進んで応じないならば、居所が判っている吾々の夫が責任を問はれると私に語りました。

 この様に語った後、憲兵は其兵士と私とだけ残して立去りました。其時ですらも私は尚ほ抵抗しました。彼は衣服を私の身体から裂き取りました。そして私の両腕を後に捻りました。そこで私は無力となり、その儘で後は私に性交を迫りました。…此の状態が3週間継続しました。労働日には娼楼は日本将校のために、日曜日午後は日本下士達のために開かれ、日曜日の午前は兵卒等のために保留されました。娼家へは時々一般日本人が来ました。私は常に拒絶しましたが無効でありました。

▼チモールにおける医院事務員(30歳)の証言
 1942年2月21日に私は日本人がディリの支那人(ママ)の家や他の多数の家・戸をこぢ開けて、家々を掠奪して居るのを見ました。

 私は日本人が酋長に原住民の女の子達を娼家に送る事を強要した多くの場所を知って居ます。彼等はもしも酋長が女の子達を送らないなら、彼等即ち日本人が酋長の家に行って、彼等の近親の女達を此の目的で連れ去ると云って脅迫しました。

▼バリックパパン日本軍慰安所
 公訴状によれば、「被告人(石橋)がバリックパパンに於て所有せる日本軍用慰安所に於て、強制売淫せしむる目的にて、員数不明の婦女子をベトウ・アムガル若は蘭領東印度内の1カ所より誘拐したり」「前記載の慰安所に於て、強制売淫せしむる目的にて約50名の婦女子をスラバヤ若は蘭領東印度内の1カ所より誘拐したり」「被告人は前記載慰安所の所有者として之等の婦女子が売淫を拒絶せる場合彼女等を虐待して、売淫を強制したり」。

 被告人石橋の弁論要旨によれば、「海軍部…風紀の維持…性病の伝染を防止する見地から、当地に在った全慰安所に対し、…休日以外の外出は禁止された」「バトアンプルから女達を連れて来たこと及スラバヤから女達を連れて来たことについて、その方法に過誤のあった」「慰安所の経営により一面一般の婦女子の被害を防止し得た」「軍紀厳正な日本軍隊と雖も、若し慰安所がなかったならば、当地の一般の婦女子に対し同様な暴行を加えたのではないかと考えると、石橋の慰安所経営も、一面戦争に伴ふ害悪の防止に貢献して居ると言ひ得る」。

▼慰安所桜倶楽部(バタビア裁判5号)事件
 起訴状には「日本人の用にする為婦女子を募集し、又は募集せしめ此等の婦女子が解雇を申出たる場合は直接又は間接に憲兵の威を借り又は借りずして、前記倶楽部の客に対する売淫を彼等に強制し、及び其の目的の為に右倶楽部内に区分せられある一郭に彼等を居住せしめて、倶楽部外に自由に外出することを許さざりしものにして、被告人又は被告人の協力により多くの婦女子が前記日本人相手の醜業に就かしめられたものなり」と記載されている。

 弁論では、被告人青山鷲雄は「慰安所の設立は戦争に伴ふ不可避の社会的害悪を最小限度に抑制」するためと称して、「日本軍の慰安所の社会的意義」を語っているが、以下に、被害女性の証言(要約)をいくつか挙げておこう。

 Aさんはやめたいとリース・ベアホルストに2回申し出たところ、憲兵のおどかしのもとことわられた。同人がサクラクラブを逃げ出した時、憲兵につかまり、憲兵詰め所の独房に1週間とじ込められた

 チデン収容所にいたBさんはサクラクラブのウェートレスとして、収容所の他の女性とともに働きはじめた。第2夜から客をとるよう強要された。全ての婦人は反対したが、憲兵のおどしをかりて強要した。憲兵がおそろしく、同人と仲間は降参した。

 Cの証言:サクラクラブでは当初、営業、バーそして売春の3部に別れていた。女たちはウェイトレスかバーで働くために雇われたが、結局はいつも売春することになった。これらの女たちのなかには14~16歳の少女もいた。サクラクラブでは婦人たちは、外に柵をめぐらした1軒の家に住むよう義務付けられた。

 Dの証言:婦人たちは、少なくとも1晩50ギルダー稼がなければならなかったが、それは少なくとも3人の客をとることを意味した。

 Eの証言:1晩に少なくとも3人の客をとり、少なくとも50ギルダーを稼がなければならない程仕事がきついので、1945年の中頃他の5人の女たちと逃げようとした。Eさんと他の5人はやめたいと申し出たところ、憲兵が出て来るだろうと言っておしとどめた。

 Fさんがバタビヤのティデン収容所に収容されていた時、サクラクラブで働かないかと勧誘された。証人は子供のためにお金が必要であったことと、売春で働かなくてもよいと言ったのを信用したため、同居人のキント夫人とともにサクラクラブで働き始めた。2~3日後には、日本人相手の売春婦になるよう求められた。ダイクもしくはフォフトという婦人が激しく打たれた時、証人は拒絶できなくなった。1944年くり返しやめたいと申し入れたところ、同月17日、政治情報局に連行され、女たちの逃亡を企てたとして、9日間拘留され、その後クロゴルに連行された。

 Gさんはサクラレストランに働きに出た。証人は事実を知らされた。即ち、仕事は日本人相手の親密な関係に係わるものである。最初の夜からGさんと友人は拒否したが、日本人の客をとることになり、少なくとも1晩に2人客をとった。数日後再び拒否したところ、憲兵のおどしを受けた。

 H(看護師)の証言:女たちはほとんどが前借りがあるため、そこを出ることが困難であった。サクラクラブでは12歳の少女や14歳の少女も働いていた。

 Iの証言:当初レストランで日本人客の相手をしたが、まもなく客と寝るよう圧力がかけられた。女たちは1晩に少なくとも2人の日本人を客としてとらねばならず、逃亡したり、他の仕事を探したりすると、憲兵におどされた。

 Jの証言:娘を出さなければ、政治情報局が地方に追放するとおどしたので、レストランだけで働くことで了承した。娘が数日後戻って来た時、娘がJさんに売春をしていることを述べた。

 以上、サクラクラブで働かされた被害女性は、レストランのウェートレスとして募集されながら、併設の慰安所で性奴隷を強制された。拒否すると、民間の慰安所なのに、日本軍憲兵が出て来る。閉鎖空間に閉じ込められ、外出の自由はなかった。被害女性の多くは日本軍占領下で貧しい困難な環境にあり、前借りで拘束されていた。

 慰安所経営者は被害女性の生活上の困難を利用して、性奴隷にしており、非常に悪質なやり方である。すでに公刊されているバタビア裁判69号事件、同106号事件資料も参照されたい。

(6)まとめ
 冒頭でも確認したが、6月27日、アメリカ・アトランタ日本総領事館の篠塚隆総領事は、インタビューに答えて、「日本軍が第2次世界大戦中に、その多くが韓国から来た女性たちを性奴隷としていたとの証拠はない」、(「慰安婦」像については)「日本人に対する憎しみと恨みのシンボルだ」と話した。

 日本政府は連行時の形態だけを見て、強制か否かを判断し、これまでに発見された資料にはそのような証拠は見られないから、強制連行ではなかったという論理を組み立てている。

 しかし、今回公認された資料のなかには、「200人位の婦女を慰安婦として、奥山部隊の命によりバリ島に連れ込んだ」(バタビア裁判25号事件)、「強制売淫せしむる目的にて約50名の婦女子をスラバヤ若は蘭領東印度内の1カ所より誘拐したり」(バリックパパン裁判)との記述を認めることが出来る。にもかかわらず、内閣官房は相変わらず判で押したように「強制連行を示す記述は見当たらないという政府認識は変わらない」(2017年4月17日共同通信)と答えているのだ。

 そもそも、多くの強制連行裁判では、「欺罔(だまして人を錯誤に陥れること、または人を欺く行為)による募集」も強制連行として認定されており、サクラクラブ事件の被害女性のほとんどが「欺罔による募集(連行)」に該当するのだ。さらに言えば、契約解除の自由もなく、逃亡を防止するために外出を制限し、憲兵(暴力)によって抑圧することも強制である。この資料の何処をさがしても、「自由契約」など全くないのである。

 原資料の読解は非常に困難だが、強制動員真相究明ネットによって活字化(15万字)されたので、誰にでも読むことが出来るようになった。政府もこの文書(19簿冊182点)を「公認」しており、日本軍性奴隷事件に関する真実を政府に突きつけ、極右の謬論を撃破し、歴史的決着にたどり着かねばならない。
2017年7月14日




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