妄想による愉快な国際時事ネタ解釈
四生の盲者日記
【妄言】聖火リレー―中国が試されている【和文/朝日社説】
http://www.asahi.com/paper/editorial20080409.html#syasetu2
五輪を開くことは、開催国のありのままの姿が世界にさらされ、試されることでもある。
世界各地からの選手団や数百万人もの観光客を受け入れる十分な態勢があるのか。交通や住民の生活をまひさせることなく、円滑に大会を運営できるのか。その国の都市づくりや社会のあり方にまで目が向けられる。そこには当然、人権や民族問題も含まれる。
北京五輪の開催を盛り上げる聖火リレーに対する妨害が、激しさを増している。中国のチベット政策に抗議し、世界に訴えようというのである。
ロンドンでは、聖火リレーを阻止しようとする人たちが、沿道から次々に飛び出した。それをかわしながら聖火ランナーや警備陣が走る姿は、ラグビーの試合を見るようだった。
続くパリでも国家元首並みに3千人の警備態勢を敷いたが、相次ぐ妨害で聖火をバスに乗せて移動せざるをえない場面さえあった。
抗議行動にはチベット人や人権団体が目立ったが、応援する市民の姿もあった。欧州には移民や難民のチベット人もいて、英国のように歴史的にかかわりの深い国もある。人権問題に敏感なことに加え、そうしたことがチベットに関心を向ける理由となっているのだろう。
チベット政策が国際社会でどう受け止められているのか。中国は「ダライ・ラマ派の策動」と切って捨てるのではなく、現実に向かい合うべきだ。
中国はスポーツの祭典は政治と切り離すべきだといいたいだろうが、現実にはそうはいかない。
そもそも聖火リレーは1936年のベルリン五輪から始まった。ナチスの宣伝だった面は否めない。五輪の開催だけでなく、世界を回る聖火リレーにも開催国の威信がかかっている。
各国は大がかりな警備の態勢を整える一方で、フランスでは聖火の周辺にローラースケート隊を配備するなどソフトな演出を試みた。暴力は許さないが、聖火を守るのと同じように言論の自由も尊重する、というメッセージだろう。
心配なのは、中国国内の反応である。聖火リレーへの妨害が報じられるたびに、反発が広がっているようだ。妨害行動を沿道の各国が放置しているような印象を与えれば、中国人のナショナリズムをあおることにもなりかねない。
五輪は政治とは切り離せないが、成功させるためには、政治に引きずり回されないようにする知恵が必要だ。それは開催国にも国際社会にも求められている。
聖火はこれから北南米、アフリカ、中東、オーストラリアを経て、日本にも回ってくる。聖火をどのように迎えるか、ひとごとではない。
後から言い逃れができるように、ダラダラと事実関係だけを書き連ねつつ、奥歯にもののはさまった書き方で読者を印象操作しようとする、朝日社説らしい駄文。
例によって、この文章からは論説委員が、チベット問題への当事者の姿勢をどう評価しているか、行く先々で聖火リレーが抗議されるという近代オリンピック史上前代未聞の事態をどう考えているか、全く書かれていない。
文学的な朝日表現だが「それは開催国にも国際社会にも求められている」ここでいう開催国は、中共を指し。民衆の人権を抑圧しているという意味で最大の政治的当事者であり。事態収拾において、国際社会などとは比べ物にならない責任をもっている。
それが狙いとはいえ、軽々しく相対化してよいものではない。
加えて書くならば最後の一言「ひとごとではない」、漠然表現で他人に責任を擦り付けるあたり、手馴れたもの。
不定見ならば、不定見らしく別の話題を扱っていればいい。死人まででているこの問題を、軽々しく「ひとごとではない」と書かれると不愉快極まりない。
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