乾龍の『漂流日本の羅針盤』・【最新ニュースから見え隠れする闇】:

 在野の政治研究家乾龍が『漂流日本の闇』を斬る! 日々の政治・経済等の時事ニュースの深層を探る。

【著書紹介】:日本はなぜ「基地」と「原発」を止められないのか Part2-③

2016-12-04 08:50:20 | 原発事故・放射能 被曝・汚染

【著書紹介】:日本はなぜ「基地」と「原発」を止められないのか Part2 福島の謎 日本はなぜ、原発を止められないのか 全文

 乾龍の『漂流日本の羅針盤』・【最新ニュースから見え隠れする闇】:【著書紹介】:日本はなぜ「基地」と「原発」を止められないのか Part2 福島の謎 日本はなぜ、原発を止められないのか 全文

 PART 2 福島の謎 日本はなぜ、原発を止められないのか 

 ◆「統治行為論」と「裁量行為論」と「第三者行為論」

  ここでふたたび、話は福島の問題にもどってきます。原発の問題を考える場合も、このウラ側の法体系をつねに考慮しておく必要があるからです。注意すべき は、砂川裁判で最高裁が「憲法判断をしない」としたのが、「安保条約」そのものではなく、「安保条約のようなわが国の存立の基礎に重大な関係をもつ高度な 政治性を有する問題」というあいまいな定義になっているところです。
 ですから少なくとも「国家レベルの安全保障」については、最高裁が絶対に憲法判断をせず、その分野に法的コントロールがおよばないことは確定していま す。おそらく一昨年(二〇一二年六月二七日)改正された「原子力基本法」に、「前項〔=原子力利用〕の安全の確保については、(略)わが国の安全保障に資 する〔=役立つ〕ことを目的として、行なうものとする」(第二条二項)
 という条文がこっそり入ったのもそのせいでしょう。この条文によって今後、原発に関する安全性の問題は、すべて法的コントロールの枠外へ移行することになります。どんなにめちゃくちゃなことをやっても憲法判断ができず、実行者を罰することができないからです。
 三六年前の一九七八年、愛媛県の伊い方かた原発訴訟(建設予定の原発の安全性をめぐって争われました)の一審判決で、柏木賢吉裁判長はすでに、「原子炉 の設置は国の高度の政策的判断と密接に関連することから、原子炉の設置許可は周辺住民との関係でも国の裁量行為に属する」 とのべていました。

 さらに同裁判の一九九二年の最高裁判決で小野幹雄裁判長は、「〔原発の安全性の審査は〕原子力工学はもとより、多方面にわたるきわめて高度な最新の科学的、専門技術的知見にもとづく総合的判断が必要とされる」から、
「原子力委員会の科学的、専門技術的知見にもとづく意見を尊重しておこなう内閣総理大臣の合理的判断にゆだねる」のが相当(=適当)であるとのべていました。
 このロジックは、PART1で見た田中耕太郎長官による最高裁判決とまったく同じであることがわかります。三権分立の立場からアメリカや行政のまちがいに歯止めをかけようという姿勢はどこにもなく、アメリカや行政の判断に対し、ただ無条件でしたがっているだけです。
 田中耕太郎判決は「統治行為論」、柏木賢吉判決は「裁量行為論」、米軍機の騒音訴訟は「第三者行為論」と呼ばれますが、すべて内容は同じです。PART1で小林節教授の著書から引用したとおり、こうした「法理論」の行きつく先は、
「司法による人権保障の可能性を閉ざす障害とも、また行政権力の絶対化をまねく要因ともなりかねず」、「司法審査権の全面否定にもつながりかねない」。
 まったくそのとおりのことを、過去半世紀にわたって日本の裁判所はやりつづけているのです。また、そうした判決に向けて圧力をかけているのが、おそらく 八一ページの「裏マニュアル①」をつくった最高裁事務総局であることは、すでに複数の識者から指摘されています。裁判所の人事や予算を一手に握るこの組織 が、「裁判官会同」や「裁判官協議会」という名目のもとに会議を開いて裁判官を集め、事実上、自分たちが出したい判決の方向へ裁判官たちを誘導している事 実が報告されているからです。(『司法官僚』新藤宗幸著/『原発訴訟』海渡雄一著/ともに岩波書店)
 こうして駐日アメリカ大使と日本の最高裁が米軍基地問題に関してあみだした、「統治行為論」という「日本の憲法を機能停止に追いこむための法的トリッ ク」を、日本の行政官僚や司法官僚たちが基地以外の問題にも使い始めるようになってしまった。官僚たちが「わが国の存立の基礎にきわめて重大な関係をも つ」と考える問題については、自由に治外法権状態を設定できるような法的構造が生まれてしまった。その行きついた先が、現実に放射能汚染が進行し、多くの 国民が被曝しつづけるなかでの原発再稼働という、狂気の政策なのです。

 「政府は憲法に違反する法律を制定することができる」

 次の条文を見てください。悪名高きナチスの全権委任法の第二条です。この法律は、ナチス突撃隊(SA)や親衛隊(SS)が国会議事堂(臨時)をとりかこみ、多くの野党議員を院外に排除するなか、一九三三年三 月二三日に可決、制定されました。

 「全権委任法第二条 ドイツ政府によって制定された法律は、国会および第二院の制度そのものにかかわるものでないかぎり、憲法に違反することができる。(略)」

 この法律の制定によって、当時、世界でもっとも民主的な憲法だったワイマール憲法はその機能を停止し、ドイツの議会制民主主義と立憲主義も消滅したとされます。その後のドイツは民主主義国家でも、法治国家でもなくなってしまったのです。
「政府は憲法に違反する法律を制定することができる」
 これをやったら、もちろんどんな国だって滅ぶに決まっています。しかし日本の場合はすでに見たように、米軍基地問題をきっかけに憲法が機能停止状態に追 いこまれ、「アメリカの意向」をバックにした官僚たちが平然と憲法違反をくり返すようになりました。言うまでもなく憲法とは主権者である国民から政府への 命令、官僚をしばる鎖。それがまったく機能しなくなってしまったのです。
 「『法律が憲法に違反できる』というような法律は、いまはどんな独裁国家にも存在しない」 というのが、世界の法学における定説だそうです。
 しかし、現在の日本における現実は、ナチスよりもひどい。法律どころか、「官僚が自分たちでつくった政令や省令」でさえ、憲法に違反できる状況になっているのです。

 放射性物質は汚染防止法の適用除外!

 そうした驚くべき現実を、もっとも明確な形で思い知らされることになったのが、福島原発事故に関して、損害賠償請求の裁判をおこなった被災者たちでした。ひとつ例をあげて説明します。
 おそらく、そこにいた全員が、耳を疑ったことでしょう。二〇一一年八月、福島第一原発から四五キロ離れた名門ゴルフ場(サンフィールド二本松ゴルフ倶楽 部)が、放射能の除染を求めて東京電力を訴えたときのことです。このゴルフ場はコース内の放射能汚染がひどく、営業停止に追いこまれていたのです。
 この裁判で東京電力側の弁護士は驚愕の主張をしました。
「福島原発の敷地から外に出た放射性物質は、すでに東京電力の所有物ではない『無む主しゅ物ぶつ』である。したがって東京電力にゴルフ場の除染の義務はない」
 はぁ? いったいなにを言ってるんだ。この弁護士はバカなのか? みなそう思ったといいます。
 ところが東京地裁は「所有物ではないから除染の義務はない」という主張はさすがに採用しなかったものの、「除染方法や廃棄物処理のあり方が確立していな い」という、わけのわからない理由をあげ、東京電力に放射性物質の除去を命じることはできないとしたのです。この判決を報じた本土の大手メディアは、東電 側の弁護士がめくらましで使った「無主物(だれのものでもないもの)」という法律用語に幻惑され、ただとまどうだけでした。
 しかし沖縄の基地問題を知っている人なら、すぐにピンとくるはずです。こうしたどう考えてもおかしな判決が出るときは、その裏に必ずなにか別のロジック が隠されているのです。すでにのべたとおり、砂川裁判における「統治行為論」、伊方原発訴訟における「裁量行為論」、米軍機騒音訴訟における「第三者行為 論」など、あとになってわかったのは、それらはすべて素人の目をごまかすための無意味なブラックボックスでしかなかったということです。
 原発災害についても、調べてみてわかりました。PART1で説明した、航空法の「適用除外」について思いだしてください。米軍機が航空法(第六章)の適 用除外になっているため、どんな「違法な」飛行をしても罰せられない仕組みになっていることについて書きましたが、やはり、そうだったのです。まったく同 じだったのです。日本には汚染を防止するための立派な法律があるのに、なんと放射性物質はその適用除外となっていたのです!

 「大気汚染防止法 第二七条 一項
 この法律の規定は、放射性物質による大気の汚染およびその防止については適用しない」
 「土壌汚染対策法 第二条 一項
 この法律において『特定有害物質』とは、鉛、ヒ素、トリクロロエチレンその他の物質(放射性物質を除く)であって(略)」
 「水質汚濁防止法 第二三条 一項
 この法律の規定は、放射性物質による水質の汚濁およびその防止については適用しない」

  そしてここが一番のトリックなのですが、環境基本法(第一三条)のなかで、そうした放射性物質による各種汚染の防止については「原子力基本法その他の関 係法律で定める」としておきながら、実はなにも定めていないのです。この重大な事実を最初に指摘したのは、月刊誌「農業経営者」副編集長の浅川芳裕さんで す。(同誌二〇一一年七月号)
 浅川さんは、福島の農民Aさんが汚染の被害を訴えに行ったとき、環境省の担当者からこの土壌汚染対策法の条文を根拠にして、「当省としましては、このた びの放射性物質の放出に違法性はないと認識しております」と言われたと、はっきり書いています。(「週刊文春」二〇一一年七月七日号)
 これでゴルフ場汚染裁判における弁護士の不可解な主張の意味がわかります。いくらゴルフ場を汚しても、法的には汚染じゃないから除染も賠償もする義務が ないのです。家や畑や海や大気も同じです。ただそれを正直に言うと暴動が起きるので、いまは「原子力損害賠償紛争解決センター」という目くらましの機関を つくって、加害者側のふところが痛まない程度のお金を、勝手に金額を決めて支払い、賠償するふりをしているだけなのです。

 法律が改正されてもつづく「放射性物質の適用除外」

  その後、福島原発事故から一年三カ月たって、さすがに放射能汚染の適用除外については、法律の改正がおこなわれました。しかし結果としてはなにも変わっ ていません。変えたように見せかけて、実態は変えない。そういう官僚のテクニックを知っていただくために少しくわしくお話しします。
 まず先ほどの説明で「一番のトリック」と指摘した環境基本法第一三条は、丸ごと削除になりました(二〇一二年六月二七日)。「放射性物質による大気の汚 染、水質の汚濁および土壌の汚染の防止のための措置については、原子力基本法その他の関係法律で定める」とあったため、
「こんな大事故が起こったんだから、条文に書いてあるとおり、ちゃんと原子力基本法で定めて汚染を防止できるようにしろ」
 と言われるとまずいと思ったのでしょう。
 同時に大気汚染防止法と水質汚濁防止法における放射性物質の適用除外の規定も削除されました。(土壌汚染対策法の適用除外規定だけは、おそらく意図的に、まだのこされています)
 しかし最悪なのは、環境基本法第一三条が削除された結果、放射能汚染については同基本法のなかで、ほかの汚染物質と同じく、
 「政府が基準を定め(一六条)」
 「国が防止のために必要な措置をとる(二一条)」
 ことで規制するという形になったのですが、肝心のその基準が決められていないのです!
 ほかの汚染物質については、環境省令によって規制基準がたとえば、
 「カドミウム 一リットル当たり 〇・一ミリグラム以下」とか、
 「アルキル水銀化合物 検出されないこと」
 などというように明確に決まっている。しかし放射性物質についてはそうした基準が決められていない。だから、「もし次の大事故が起きて、政府が一〇〇ミ リシーベルトのところに人を住まわせる政策をとったとしても、国民は法的にそれを止める手段がない。日本はいま、そのような法制度のもとにあるのです」 と、札幌弁護士会所属の山本行雄弁護士がブログで書いています。(二〇一三年八月二四日)
 そうした事実が指摘されても、政府はなにもしない。なにもしないことが、法的に許されている。
 だからこうした問題について、いくら市民や弁護士が訴訟をしても、現在の法的構造のなかでは絶対に勝てません。すでにのべたとおり、環境基本法の改正と ほぼ同時(一〇日後の六月二七日)に原子力基本法が改正され、原子力に関する安全性の確保については、「わが国の安全保障に資する〔=役立つ〕ことを目的 として、おこなうものとする」(第二条二項)という条項が入っているからです。
 ここまで何度もお話ししてきたように、砂川裁判最高裁判決によって、安全保障に関する問題には法的なコントロールがおよばないことが確定しています。つ まり簡単にいうと、大気や水の放射能汚染の問題は、震災前は「汚染防止法の適用除外」によって免罪され、震災後は「統治行為論」によって免罪されることに なったわけです。このように現在の日本では、官僚たちがみずからのサジ加減ひとつで、国民への人権侵害を自由に合法化できる法的構造が存在しているので す。

 「なにが必要かは政府が決める。そう法律に書いてあるでしょう!」

 「神は細部に宿る」と言いますが、物事の本質は、それほど大きくない出来事のなかに象徴的にあらわれることがあります。今回私が福島での人権侵害に関して象徴的だと思ったのは、「原発事故 子ども・被災者支援法」をめぐる官僚の発言です。
 この法律は二〇一二年六月、きわめて異例な超党派の議員立法によって、衆参両院での全会一致で可決されました。子どもを被曝から守るために自主的に避難 した福島県の住民や、それまで国による支援がほとんどなかった福島県外の汚染地域の住民なども対象とする支援法だったため、成立当初はこれでかなり事態が 好転するのではと、大きな期待を集めていたのです。
 ところが日本政府は信じられないことに、それから一年以上にわたってこの法律を「店たなざらし」にし、なにひとつ具体的な行動をとりませんでした。
 そうしたなか、二〇一三年三月一九日にこの法案を支援する国会議員たち(子ども被災者支援議員連盟)の会合がもたれました。その席上、法案の策定者のひ とりである谷岡郁くに子こ議員(当時)が、立法の趣旨にもとづき、基本方針案を作成する前に被災者に対する意見聴取会を開催すべきだと主張しました。する と、それを聞いた復興庁の水野靖久参事官が、
「そもそも法律をちゃんと読んでください。政府は必要な措置を講じる。なにが必要かは政府が決める。そう法律に書いてあるでしょう!」
 と強い口調で言いはなったのです。
 これほどいまの日本の官僚や政府の実態をあらわした言葉はありません。近代社会の基本的仕組みをまったく理解していない。国民はもちろん、その代表とし て法案を作成した国会議員さえ、すべて自分たちの判断にしたがうべきだと考えているのです。これこそ「統治行為論」の本質です。これでは国民の人権など、 守られるはずもありません。

 日米原子力協定の「仕組み」

 その後調べると日米原子 力協定という日米間の協定があって、これが日米地位協定とそっくりな法的構造をもっていることがわかりました。つまり「廃炉」と か「脱原発」とか「卒原発」とか、日本の政治家がいくら言ったって、米軍基地の問題と同じで、日本側だけではなにも決められないようになっているのです。 条文をくわしく分析した専門家に言わせると、アメリカ側の了承なしに日本側だけで決めていいのは電気料金だけだそうです。
 そっくりな法的構造というのは、たとえばこういうことです。日米地位協定には、日本政府が要請すれば、日米両政府は米軍の基地の使用について再検討し、そのうえで基地の返還に「合意することができる(may agree)」と書いてあります。
 一見よさそうな内容に見えますが、法律用語で「できる(may)」というのは、やらなくていいという意味です。ですからこの条文の意味は「どれだけ重大な問題があっても、アメリカ政府の許可なしには、基地は絶対に日本に返還されない」ということなのです。
 一方、日米原子力協定では、多くの条文に関し、「日米両政府は○○しなければならない(the parties shall …)」と書かれています。「しなければならない(shall)」はもちろん法律用語で義務を意味します。次の条文の太字部分を見てください。

 「第一二条四項

  どちらか一方の国がこの協定のもとでの協力を停止したり、協定を終了させたり、〔核物質などの〕返還を要求するための行動をとる前に、日米両政府は、是正 措置をとるために協議しなければならない(shall consult)。そして要請された場合には他の適当な取り決めを結ぶことの必要性を考慮しつつ、その行動の経済的影響を慎重に検討しなければならない (shall carefully consider)」

 つまり「アメリカの了承がないと、日本の意向だけでは絶対にやめられない」ような取り決めになっているのです。さらに今回、条文を読みなおして気づいたのですが、日米原子力協定には、日米地位協定にもない、次のようなとんでもない条文があるのです。

 「第一六条三項
 いかなる理由によるこの協定またはそのもとでの協力の停止または終了の後においても、第一条、第二条四項、第三条から第九条まで、第一一条、第一二条および第一四条の規定は、適用可能なかぎり引きつづき効力を有する」

  もう笑うしかありません。「第一条、第二条四項、第三条から第九条まで、第一一条、第一二条および第一四条の規定」って……ほとんど全部じゃないか!  それら重要な取り決めのほぼすべてが、協定の終了後も「引きつづき効力を有する」ことになっている。こんな国家間の協定が、地球上でほかに存在するでしょ うか。もちろんこうした正規の条文以外にも、日米地位協定についての長年の研究でわかっているような密約も数多く結ばれているはずです。
 問題は、こうした協定上の力関係を日本側からひっくり返す武器がなにもないということなのです。これまで説明してきたような法的構造のなかで、憲法の機能が停止している状態では。
 だから日本の政治家が「廃炉」とか「脱原発」とかの公約をかかげて、もし万一、選挙に勝って首相になったとしても、彼にはなにも決められない。無理に変えようとすると鳩山さんと同じ、必ず失脚する。法的構造がそうなっているのです。

 なぜ「原発稼働ゼロ政策」はつぶされたのか

 事実、野田内閣は二〇一二年九月、「二〇三〇年代に原発稼働ゼロ」をめざすエネルギー戦略をまとめ、閣議決定をしようとしました。このとき日本のマスコミでは、
「どうして即時ゼロではないのか」とか、
「当初は二〇三〇年までに稼働ゼロと言っていたのに、二〇三〇年代とは九年も延びているじゃないか。姑息なごまかしだ」
 などという批判が巻き起こりましたが、やはりあまり意味のない議論でした。外務省の藤崎一郎駐米大使が、アメリカのエネルギー省のポネマン副長官と九月 五日に、国家安全保障会議のフロマン補佐官と翌六日に面会し、政府の方針を説明したところ、「強い懸念」を表明され、その結果、閣議決定を見送らざるをえ なくなってしまったのです(同月一九日)。
 これは鳩山内閣における辺野古への米軍基地「移設」問題とまったく同じ構造です。このとき、もし野田首相が、鳩山首相が辺野古の問題でがんばったように、「いや、政治生命をかけて二〇三〇年代の稼働ゼロを閣議決定します」
 と主張したら、すぐに「アメリカの意向をバックにした日本の官僚たち」によって、政権の座から引きずりおろされたことでしょう。
 いくら日本の国民や、国民の選んだ首相が「原発を止める」という決断をしても、外務官僚とアメリカ政府高官が話をして、「無理です」という結論が出れば 撤回せざるをえない。たった二日間(二〇一二年九月五日、六日)の「儀式*」によって、アッというまに首相の決断がくつがえされてしまう。日米原子力協定 という「日本国憲法の上位法」にもとづき、日本政府の行動を許可する権限をもっているのは、アメリカ政府と外務省だからです。
 本章の冒頭で、原発を「動かそうとする」主犯探しはしないと書きましたが、「止められない」ほうの主犯は、あきらかにこの法的構造にあります。

*? これが儀式だったという理由は、もともとアメリカ政府のエネルギー省というのは、前身である原子力委員会から原子力規制委員会を切り離して生まれた、 核兵器および原発の推進派の牙城だからです。こんなところに「原発ゼロ政策」をもっていくのは、アメリカの軍部に「米軍基地ゼロ政策」をもっていくのと同 じで、「強い懸念」を表明されるに決まっています。最初から拒否される筋書きができていたと考えるほうが自然です。
 事実、藤崎大使の面会からちょうど一週間後の九月一二日、野田首相の代理として訪米した大串博志・内閣府大臣政務官(衆議院議員)たちが同じくポネマン 副長官と面会しましたが、「二〇三〇年代の原発稼働ゼロ」政策への理解は、やはりまったく得られず、逆に非常に危険な「プルサーマル発電の再開」を国民の 知らない「密約」として結ばされる結果となりました。(「毎日新聞」二〇一三年六月二五日) プルサーマルとは、ウランにプルトニウムをまぜた「MOX燃 料」を使う非常に危険な発電方式です。今後、二〇一二年九月に結ばれたこの「対米密約」にしたがって、泊とまり(北海道電力)、川せん内だい、玄海(九州 電力)、伊方(四国電力)、高浜(関西電力)などで、危険なプルサーマル型の原発が次々に再稼働されていくおそれが高まっています。

 「原発がどんなものか知ってほしい」

 日本の原子力政策が非常に危険な体質をもっていることは、なにも福島の事故で初めてわかったわけではありません。早くからその危険性を内部告発していたひとつの手記を、ここでご紹介しておきたいと思います。
 それは平井憲夫さんという、約二〇年にわたって福島、浜岡、東海などで一四基の原発建設を手がけた現場監督の方がのこした、「原発がどんなものか知って ほしい」というタイトルの手記です。このきわめて貴重な現場からの証言をのこしたあと、平井さんは長年の被曝によるガンのため、一九九七年に死去されまし た。まだ五八歳という若さでした。ネット上にその手記の全文が公開されていますので(http://www.iam-t.jp/HIRAI/)、ぜひご覧いただきたいと思います。
 この手記のなかで平井さんは、次のようないくつもの驚くべき事実を語っています。
「電力会社は、原発で働く作業員に対し、『原発は絶対に安全だ』という洗脳教育をおこなっている。私もそれを二〇年間やってきた。オウムの麻原以上のマインド・コントロールをした。〔作業員に放射能の危険について教えず〕何人殺したかわからないと思っている」
「現実に原発の事故は日本全国で毎日のように起こっている。ただ政府や電力会社がそれを『事アクシデント故』とは呼ばず、『事インシデント象』と呼んでごまかしているだけだ」
「なかでも一九八九年に福島第二原発(東京電力)で再循環ポンプがバラバラになった事故と、一九九一年二月に美浜原発(関西電力)で細管が破断した事故は、世界的な大事故だった」
「美浜の事故は、多重防護の安全システムが次々と効かなくなり、あと〇・七秒で炉が空焚きになってチェルノブイリ級の大事故になるところだった。だが土曜 日だったのに、たまたまベテランの職員が出社していて、彼がとっさの判断でECCS(緊急炉心冷却装置)を手動で動かして止めた。一億数千万人を乗せたバ スが高速道路を一〇〇キロで走っていて、ブレーキがきかない、サイドブレーキもきかない、崖にぶつけてやっと止めたというような状況だった」
「すでに熟練の職人は原発の建設現場からいなくなっており、作業員の九八パーセントは経験のない素人だ。だから老朽化した原発も危ないが、新しい原発も同じくらい危ない」

 北海道の少女の涙の訴え

 しかし、こうした驚愕の事実を次々にあきらかにした平井さんは、最後に、「どこへ行っても、必ず次のお話はしています。あとの話は全部忘れてくださってもけっこうですが、この話だけはぜひ覚えておいてください」
 と言って、北海道で出会ったひとりの少女の話を語り始めるのです。それは彼が北海道の泊とまり原発の隣町で、現地の教職員組合主催の講演会をしていたときのことでした。

 「その講演会は夜の集まりでしたが、父母と教職員が半々くらいで、およそ三〇〇人くらいの人が来ていました。 そのなかには中学生や高校生もいました。原発はいまの大人の問題ではない、私たち子どもの世代の問題だと言って聞きに来ていたのです。
 話がひととおり終わったので、私がなにか質問はありませんかというと、中学二年の女の子が泣きながら手をあげて、こういうことを言いました。
 『今夜この会場に集まっている大人たちは、大ウソつきのええかっこしばっかりだ。私はその顔を見に来たんだ。どんな顔をして来ているのかと。いまの大人 た ち、とくにここにいる大人たちは、農薬問題、ゴルフ場問題、原発問題、なにかと言えば子どもたちのためにと言って、運動するふりばかりしている。 私は泊原発のすぐ近くの共和町に住んで、二四時間被曝しつづけている。 原子力発電所のあるイギリスのセラフィールドでは、白血病の子どもが生まれる確率が高いということは、本を読んで知っている。私も女の子です。年ごろに なったら結婚もするでしょう。 私、子ども生んでも大丈夫なんですか?』
 と、泣きながら三〇〇人の大人たちに聞いているのです。でも、だれも答えてあげられない。
 『原発がそんなに大変なものなら、いまごろでなくて、なぜ最初につくるときに一生懸命反対してくれなかったのか。まして、ここに来ている大人たちは、二 号 機もつくらせたじゃないか。だから私はいままでの倍、放射能を浴びている』と。ちょうど、泊原発の二号機が試運転に入ったときだったのです。
 『なんで、いまになってこういう集会をしているのか、〔意味が〕わからない。もし私が大人で自分の子どもがいたら、命がけで体を張ってでも原発を止めている』と言う。
 私が『そういう悩みをお母さんや先生に話したことがあるの』と聞きましたら、『この会場には先生やお母さんも来ている。でも、話したことはない』と言います。『女の子どうしではいつもその話をしている。結婚もできない、子どもも産めない』って。
(略)
 これは決して、原発から八キロとか一〇キロの場所の話ではない、五〇キロ圏、一〇〇キロ圏でそういうことがいっぱい起きているのです」

 悪の凡庸さについて

  いまこの文章を書いている二〇一四年の東京では、『ハンナ・アーレント』(マルガレーテ・フォン・トロッタ監督/二〇一二年)というドイツ映画が予想外 のヒットをつづけています。この映画の主人公は、エルサレムで一九六一年に始まったナチスの戦争犯罪者アドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴し、問題作「エル サレムのアイヒマン―悪の凡庸さについての報告」(雑誌「ニューヨーカー」連載)にまとめた有名な女性哲学者です。
 大きな議論を呼んだそのレポートの結論、つまりナチスによるユダヤ人大量虐殺を指揮したアイヒマンとは、「平凡で小心な、ごく普通の小役人」にすぎな かった、しかしそのアイヒマンの「完全な無思想性」と、ナチス体制に存在した「民衆を屈服させるメカニズム」が、この空前の犯罪を生んでしまったのだ、と いう告発に、多くの日本人は、現在の自分たちの状況に通じる気味の悪さを感じているのだと思います。
 アーレントが問いかけたきわめて素朴で本質的な疑問、つまり大量虐殺の犠牲者となったユダヤ人たちは、「なぜ時間どおりに指示された場所に集まり、おと なしく収容所へ向かう汽車にのったのか」「なぜ抗議の声をあげず、処刑の場所へ行って自分の墓穴を掘り、裸になって服をきれいにたたんで積み上げ、射殺さ れるために整然と並んで横たわったのか」
「なぜ自分たちが一万五〇〇〇人いて、監視兵が数百人しかいなかったとき、死にものぐるいで彼らに襲いかからなかったのか」
 それらはいずれも、まさに現在の日本人自身が問われている問題だといえます。
 「なぜ自分たちは、人類史上最悪の原発事故を起こした政党(自民党)の責任を問わず、翌年(二〇一二年)の選挙で大勝させてしまったのか」
 「なぜ自分たちは、子どもたちの健康被害に眼をつぶり、被曝した土地に被害者を帰還させ、いままた原発の再稼働を容認しようとしているのか」
 「なぜ自分たちは、そのような『民衆を屈服させるメカニズム』について真正面から議論せず、韓国や中国といった近隣諸国ばかりをヒステリックに攻撃しているのか」
 そのことについて、歴史をさかのぼり本質的な議論をしなければならない時期にきているのです。 

 ◆矢部宏治 やべ ・こうじ
 1960年、 兵庫県西宮市生まれ。 慶応大学文学部卒。 (株)博報堂マーケティング部をへて、1987年より書籍情報社代表。 著書に 『本土の人間は知らないが、 沖縄の人はみんな知っていること―沖縄・米軍基地観光ガイド』(書籍情報社)、 共著書に 『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』(創元社)。 企画編集シリーズに「〈知の再発見〉 双書(既刊165冊) 」「J.M.ロバーツ世界の歴史・日本版(全10巻) 」 「〈戦後再発見〉 双書(既刊3冊) 」 (いずれも創元社)。集英社インターナショナル1

 集英社インターナショナル 主要出版物 【日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか 矢部宏治・著】 2015年05月10日 09:30:00 これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。

『福島県』 ジャンルのランキング
コメント (2)   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 【著書紹介】:日本はなぜ、... | トップ | 【著書紹介】:日本はなぜ「... »
最近の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
洗脳からの覚醒はベンジャミン・フルフォード (洗脳からの覚醒はベンジャミン・フルフォード)
2016-10-17 14:39:24

電通はアメりカが操る洗脳広告代理店であり、テレビ、新聞、週刊誌、ラジオ等のマスコミによる偏向報道によって、見事な洗脳に晒され続け、思考停止状態にある日本人は、自分自身の脳、すなわち思考そのものを点検せよ! 我々はハッ、と気付いて用心し、注意し、警戒すれば騙されることはない。 すべてを疑うべきなのだ!
洗脳からの覚醒はベンジャミン・フルフォード (洗脳からの覚醒はベンジャミン・フルフォード)
2016-10-17 14:39:41

電通はアメりカが操る洗脳広告代理店であり、テレビ、新聞、週刊誌、ラジオ等のマスコミによる偏向報道によって、見事な洗脳に晒され続け、思考停止状態にある日本人は、自分自身の脳、すなわち思考そのものを点検せよ! 我々はハッ、と気付いて用心し、注意し、警戒すれば騙されることはない。 すべてを疑うべきなのだ!

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
ブログ作成者から承認されるまでトラックバックは反映されません。
  • 30日以上前の記事に対するトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • 送信元の記事内容が半角英数のみのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • このブログへのリンクがない記事からのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。