身体が交替する錯覚:視覚の交換実験が示すもの
2008年12月 5日
Alexis Madrigal
別の人(またはマネキン)に取り付けたカメラの映像をストリーミング表示するゴーグルを装着した被験者は、カメラがつけられている方を自分の身体だと感じることがある、との研究結果を神経科学者が発表した。
しかもこれは、あやふやな、哲学的な意味だけではないのだという。被験者が体験したのは測定可能な生理学的変化だ、と論文には記されている。
オープンアクセス(無料公開)方式の学術誌『Public Library of Science One』に掲載された論文の執筆陣はこの研究について、未来の人間とロボットの協調にとって重要な意味を持つものとなる可能性を秘めたものだと述べている。さらにこの研究は、シンギュラリティー(技術的特異点)を過ぎたら自分の脳をアップロードしたいと夢見る人たちに希望を与えるかもしれない。研究チームが見つけ出したのは、生身の人間ではないものに意識を宿らせる、より良い手法なのだという。
スウェーデンのストックホルムにあるカロリンスカ研究所の神経科学者、Valeria I. Petkova氏とH. Henrik Ehrsson氏はこの論文で、「この研究成果は、産業や臨床で革新的な応用につながる可能性がある」と書いている。「テレロボティクスでヒューマノイド・ロボットに『なる』経験、仮想現実アプリケーションでシミュレートされた身体を自分のものと認識する体験は、ユーザーによる制御、リアリズム、さらには『存在する』という感覚を拡大するだろう」
ゲーム業界では『Mirror's Edge』[EA社のゲーム]がすでにその方向に踏み出している。このゲームをプレイすると、仮想身体のほかの部位が動くのが見え、乗り物酔いを引き起こすほどのリアルな感覚が生み出される。
今回の生物学的研究において、何世紀も前から続く古い問題に進展が見られたのは、技術の進歩のおかげだ。リアルタイムの映像を表示できる軽量ヘッドマウント・ディスプレー(HMD)の開発が、身体が交換されるという奇妙な錯覚を生み出す上で重要な進歩だった。
今回の研究に先立って、スウェーデンの同じ研究チームとヨーロッパの別の研究チームが、映像と仮想現実のツールを使って体外離脱体験を生み出す研究も発表している。
今回の論文には以下のような記述がある。「これらの実験から、人間の意識の中心を別の身体へ『移す』のがいかに容易なのかが示された。このことは、人間の意識と身体の関係という、古典的な問題に直接関わるものだ。これは哲学者、心理学者、神学者が何世紀も議論してきた問題だ」
まとめると、石器時代に育まれたわれわれ人間の脳が――そしてこの脳が慣れ親しんでいる身体の境界線が――、人類の進化によって生まれた(脳の外にある)テクノロジーによって混乱させられる可能性を、これらの研究は示していることになる。
特にEhrsson氏は、ディスプレーとライブカメラからの映像を使った同氏の以前の研究について、人間の脳は、眼が自分の身体だと伝えてくるものを信じるように調整されていることを示すものだと語っている。
Ehrsson氏は英国放送協会(BBC)に対し、「体内体験(in-body experience)では一人称の視点からの見え方が決定的に重要だ」と語っている。
「つまり、われわれは眼がある場所に自己が置かれていると感じるのだ」
第1の実験で、被験者は拡張現実(AR)のゴーグルをつけ、次に下を向くように言われた。その際、ゴーグルのディスプレーにはマネキンの頭部に装着されたカメラから映像が送られた。
つまり、被験者は自分の腹部の方向に目を向けているのだが、実際にはマネキンの腹部が見えていたわけだ。
そのまま、実験者はマネキンと被験者、両者の腹に触れる。
被験者からは、マネキンが触られた方の感覚を感じたとの報告があった。
これを1分ほど続けたのち、実験者はよくある生理学的ストレスの測定テストを行ないながら、マネキンの腹部をナイフで脅かした。
すると被験者が経験している生理学的ストレスの急上昇が測定された。
これは被験者が生理学的にマネキンを自分の身体と認識していたことを意味すると、実験者は語っている。
別に行なわれた実験では、相手の頭部に装着されたカメラからの映像を見ながら、握手を2分間行なった。
驚くべきことに、この実験の被験者は、自分の手の近くナイフが突きつけられたときよりも、相手の手の近くに突きつけられた場合に、より大きなストレスを経験したという。
[この錯覚は、被験者と別の人物の性別が異なっても起きたが、カメラを取り付けた対象が椅子などの「物」だった場合には起きなかったという]
これらの実験は、Ehrsson氏のここ数年主張してきた内容にいっそうの根拠を与えるものだ。
自分の身体が終わり周囲の環境が始まる境界線の感覚には、触覚だけではなく、視覚が大きな役割を果たしているとEhrsson氏は考えている。
「したがって、体全体を自分のものだとみなすのに十分な感覚を作り出すには、複数の感覚の信号と運動系の信号を一人称視点で整合させるだけでよい」と論文は結論づけている。
「従来の教科書的知識では、身体の知覚は筋肉、関節、皮膚がもたらす、末端から中枢に向かう信号の処理から直接的に生じるものだという点を強調しているが、当論文の結論は、従来の教科書的な教えとは著しい対照をなすものだ」
引用:"If I Were You: Perceptual Illusion of Body Swapping" by Valeria I. Petkova, H. Henrik Ehrsson. Public Library of Science One: doi: 10.1371/journal.pone.0003832
[日本語版:ガリレオ-緒方 亮/長谷 睦]
WIRED NEWS 原文(English)
http://wiredvision.jp/news/200812/2008120523.html
この話から導き出される結論は、「複数の意識が一つの体を共有している認識を生み出すことが可能で、おそらくは一つの体という制約によって複数の意識のほうが(そのまま複数の意識であり続けられることなく)やがては単一の意識に変容(融合)するであろう」という予想である。
意識は体の存在に合わせて生じる。体の存在を前提として「私」という認識=自我が生じる。(したがってその逆はない!肉体に先立つ自我=霊は存在しない。)
この予想はそのことを証明することになるだろう。
またこの予想が正しいということは、人類を霊肉二元論というドグマから完全に解き放ち、同時にキリスト教など多くの神我論的宗教にとってその教義体系の終焉を意味する。
(我々はこのドグマを回避した仏教的な宗教を生み出す必要があるかもしれない。しかしとりあえずは真実と信仰を別の次元で切り離すことさえ出来れば、教義の部分を空洞にした道徳としての宗教が生き残る道はある。)
あるいは、人間にとって身体の区別こそが本質的な自他の境界なのであって、意識そのものには身体のような明確な境界は存在しない。
(したがって、仮に霊魂があったとして、それに自他の区別があるわけがない!死んだ後も意識様のものが残ると仮定して、それはもはや自分という認識や自我を伴い得ない!
自他の境界、その根拠である身体が既にないからである。
、、、もっとも記憶が自他の境界を決めるではないかという反駁もあり得る。
しかし記憶はコピー可能な単なる死んだ情報であり、自他を区別する根拠にはなり得ない!)
でも実はこの議論はすでに大乗仏教の唯識論で同じ結論が出ていて、やがてその証明が大脳生理学などの分野から行われるというだけの話なのである。
私という意識も、彼という意識も、それが意識だけであるならただ虚しい存在に過ぎない。そのような意識は幻のような現象としてしか存在していない。すなわち無我ということに他ならない。
しかしそれを逆に考えて積極的意味合いを見出すことは可能である。
彼我の意識の境界が極めて曖昧で、本来はその区別が虚妄であるという認識を強く持てるのであれば、自分同様に敵をも愛することが許されよう。
イエスの言うような「汝の敵を愛せよ」というのは、自らの自我の根本的不在の認識に至って、ようやく言えることなのである。
(わりとサラッと言っているが、ここで述べていることは仏教とキリスト教が最終的に一致しうる部分についての、宗教的帰結である。
だからここで述べたことをきちんと理解できるなら、もうその人にとってキリスト教で学ぶべき部分はない。)
2008年12月 5日
Alexis Madrigal
別の人(またはマネキン)に取り付けたカメラの映像をストリーミング表示するゴーグルを装着した被験者は、カメラがつけられている方を自分の身体だと感じることがある、との研究結果を神経科学者が発表した。
しかもこれは、あやふやな、哲学的な意味だけではないのだという。被験者が体験したのは測定可能な生理学的変化だ、と論文には記されている。
オープンアクセス(無料公開)方式の学術誌『Public Library of Science One』に掲載された論文の執筆陣はこの研究について、未来の人間とロボットの協調にとって重要な意味を持つものとなる可能性を秘めたものだと述べている。さらにこの研究は、シンギュラリティー(技術的特異点)を過ぎたら自分の脳をアップロードしたいと夢見る人たちに希望を与えるかもしれない。研究チームが見つけ出したのは、生身の人間ではないものに意識を宿らせる、より良い手法なのだという。
スウェーデンのストックホルムにあるカロリンスカ研究所の神経科学者、Valeria I. Petkova氏とH. Henrik Ehrsson氏はこの論文で、「この研究成果は、産業や臨床で革新的な応用につながる可能性がある」と書いている。「テレロボティクスでヒューマノイド・ロボットに『なる』経験、仮想現実アプリケーションでシミュレートされた身体を自分のものと認識する体験は、ユーザーによる制御、リアリズム、さらには『存在する』という感覚を拡大するだろう」
ゲーム業界では『Mirror's Edge』[EA社のゲーム]がすでにその方向に踏み出している。このゲームをプレイすると、仮想身体のほかの部位が動くのが見え、乗り物酔いを引き起こすほどのリアルな感覚が生み出される。
今回の生物学的研究において、何世紀も前から続く古い問題に進展が見られたのは、技術の進歩のおかげだ。リアルタイムの映像を表示できる軽量ヘッドマウント・ディスプレー(HMD)の開発が、身体が交換されるという奇妙な錯覚を生み出す上で重要な進歩だった。
今回の研究に先立って、スウェーデンの同じ研究チームとヨーロッパの別の研究チームが、映像と仮想現実のツールを使って体外離脱体験を生み出す研究も発表している。
今回の論文には以下のような記述がある。「これらの実験から、人間の意識の中心を別の身体へ『移す』のがいかに容易なのかが示された。このことは、人間の意識と身体の関係という、古典的な問題に直接関わるものだ。これは哲学者、心理学者、神学者が何世紀も議論してきた問題だ」
まとめると、石器時代に育まれたわれわれ人間の脳が――そしてこの脳が慣れ親しんでいる身体の境界線が――、人類の進化によって生まれた(脳の外にある)テクノロジーによって混乱させられる可能性を、これらの研究は示していることになる。
特にEhrsson氏は、ディスプレーとライブカメラからの映像を使った同氏の以前の研究について、人間の脳は、眼が自分の身体だと伝えてくるものを信じるように調整されていることを示すものだと語っている。
Ehrsson氏は英国放送協会(BBC)に対し、「体内体験(in-body experience)では一人称の視点からの見え方が決定的に重要だ」と語っている。
「つまり、われわれは眼がある場所に自己が置かれていると感じるのだ」
第1の実験で、被験者は拡張現実(AR)のゴーグルをつけ、次に下を向くように言われた。その際、ゴーグルのディスプレーにはマネキンの頭部に装着されたカメラから映像が送られた。
つまり、被験者は自分の腹部の方向に目を向けているのだが、実際にはマネキンの腹部が見えていたわけだ。
そのまま、実験者はマネキンと被験者、両者の腹に触れる。
被験者からは、マネキンが触られた方の感覚を感じたとの報告があった。
これを1分ほど続けたのち、実験者はよくある生理学的ストレスの測定テストを行ないながら、マネキンの腹部をナイフで脅かした。
すると被験者が経験している生理学的ストレスの急上昇が測定された。
これは被験者が生理学的にマネキンを自分の身体と認識していたことを意味すると、実験者は語っている。
別に行なわれた実験では、相手の頭部に装着されたカメラからの映像を見ながら、握手を2分間行なった。
驚くべきことに、この実験の被験者は、自分の手の近くナイフが突きつけられたときよりも、相手の手の近くに突きつけられた場合に、より大きなストレスを経験したという。
[この錯覚は、被験者と別の人物の性別が異なっても起きたが、カメラを取り付けた対象が椅子などの「物」だった場合には起きなかったという]
これらの実験は、Ehrsson氏のここ数年主張してきた内容にいっそうの根拠を与えるものだ。
自分の身体が終わり周囲の環境が始まる境界線の感覚には、触覚だけではなく、視覚が大きな役割を果たしているとEhrsson氏は考えている。
「したがって、体全体を自分のものだとみなすのに十分な感覚を作り出すには、複数の感覚の信号と運動系の信号を一人称視点で整合させるだけでよい」と論文は結論づけている。
「従来の教科書的知識では、身体の知覚は筋肉、関節、皮膚がもたらす、末端から中枢に向かう信号の処理から直接的に生じるものだという点を強調しているが、当論文の結論は、従来の教科書的な教えとは著しい対照をなすものだ」
引用:"If I Were You: Perceptual Illusion of Body Swapping" by Valeria I. Petkova, H. Henrik Ehrsson. Public Library of Science One: doi: 10.1371/journal.pone.0003832
[日本語版:ガリレオ-緒方 亮/長谷 睦]
WIRED NEWS 原文(English)
http://wiredvision.jp/news/200812/2008120523.html
この話から導き出される結論は、「複数の意識が一つの体を共有している認識を生み出すことが可能で、おそらくは一つの体という制約によって複数の意識のほうが(そのまま複数の意識であり続けられることなく)やがては単一の意識に変容(融合)するであろう」という予想である。
意識は体の存在に合わせて生じる。体の存在を前提として「私」という認識=自我が生じる。(したがってその逆はない!肉体に先立つ自我=霊は存在しない。)
この予想はそのことを証明することになるだろう。
またこの予想が正しいということは、人類を霊肉二元論というドグマから完全に解き放ち、同時にキリスト教など多くの神我論的宗教にとってその教義体系の終焉を意味する。
(我々はこのドグマを回避した仏教的な宗教を生み出す必要があるかもしれない。しかしとりあえずは真実と信仰を別の次元で切り離すことさえ出来れば、教義の部分を空洞にした道徳としての宗教が生き残る道はある。)
あるいは、人間にとって身体の区別こそが本質的な自他の境界なのであって、意識そのものには身体のような明確な境界は存在しない。
(したがって、仮に霊魂があったとして、それに自他の区別があるわけがない!死んだ後も意識様のものが残ると仮定して、それはもはや自分という認識や自我を伴い得ない!
自他の境界、その根拠である身体が既にないからである。
、、、もっとも記憶が自他の境界を決めるではないかという反駁もあり得る。
しかし記憶はコピー可能な単なる死んだ情報であり、自他を区別する根拠にはなり得ない!)
でも実はこの議論はすでに大乗仏教の唯識論で同じ結論が出ていて、やがてその証明が大脳生理学などの分野から行われるというだけの話なのである。
私という意識も、彼という意識も、それが意識だけであるならただ虚しい存在に過ぎない。そのような意識は幻のような現象としてしか存在していない。すなわち無我ということに他ならない。
しかしそれを逆に考えて積極的意味合いを見出すことは可能である。
彼我の意識の境界が極めて曖昧で、本来はその区別が虚妄であるという認識を強く持てるのであれば、自分同様に敵をも愛することが許されよう。
イエスの言うような「汝の敵を愛せよ」というのは、自らの自我の根本的不在の認識に至って、ようやく言えることなのである。
(わりとサラッと言っているが、ここで述べていることは仏教とキリスト教が最終的に一致しうる部分についての、宗教的帰結である。
だからここで述べたことをきちんと理解できるなら、もうその人にとってキリスト教で学ぶべき部分はない。)










