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二つの日本復帰を経験・教職の道に生きて・津留健二著・2017年5月12日(金)

2017-05-12 08:18:42 | 日記
 第4章 生い立ち・感謝の冒頭に次のようなことが書かれています。
 小学校3年生の夏、東京で父が37歳の若さで病死したので、一人っ子の私は、母と一緒に奄美大島に帰った。
当時、母は36歳であった。その後、母は再婚もせず田舎で祖父の土地を貰い農業をして私を育ててくれた。
 その気丈な母も、糖尿病とガンの病には勝てず長年の療養生活の末、1981年(昭和56年)、74歳で一生を終えた。
 奄美大島にある鎮西村の離島である池地国民学校(現在の池地小中学校)に転校します。
卒業後、名瀬市の大島農学校に進学します。卒業後、沖縄にある琉球大学の法政学科に進学します。
 1952年(昭和27年)琉球大学の法政学科に入学します。1953年(昭和28年)12月25日に奄美群島が日本復帰します。大学2年の時でした。
1954年(昭和29年)、学生会長に立候補して当選します。
1956年〔昭和31年)の卒業式では卒業生代表の答辞を述べます。
 就職先として琉球政府裁判所を目指すも、本籍が奄美大島で形式的には〔外国人〕であることから難しいことが分かる。
 当時は、高等学校職員は公務員ではなかった。〔琉球政府立〕ではなく〔連合区立〕だった。運良く〔外国人〕扱いでも就職できた。1956年【昭和31年)、首里高校に採用されて教師のスタートをきる。
 7年勤務して知念高校に転勤する。1970年知念高校から、再び首里高校に転勤になる。
2年間勤務して、琉球政府文教局指導課へ指導主事として転出する。
 1972年(昭和47年)5月15日に日本復帰が実現する。琉球政府文教局指導課は、学校指導課に変わる。指導主事を7年間務めた後、課長補佐(2年間】に昇任。
 1972年7月1日に私は学校指導課に事務として採用されてます。その時、津留先生に出会っています。津留先生を学校指導課に、訪ねてくる生徒が多かったです。やはり生徒だけでなく、多くの人を惹きつける何かを持っていました。
 私も時々、津留先生とお話をする機会がありました。私は、津留先生に〔情報〕を下さいと言ったら、苦笑いをしていたことを覚えています。
私は、教員を目指すために翌年3月に退職しました。
 県立宜野湾高校教頭(3年)、県立知念高校校長(2年)を勤務した後、社会教育行政を担当します。
1988年(昭和63年)教育次長になります。(3年勤務)
1990年(平成2年)西銘順治知事を破って太田昌秀知事が誕生します。
1991年(平成3年)教育長に就任。(2年間勤務)
1993年(平成5年)沖縄県人材育成財団理事長に就任。(2年間勤務)
1995年【平成7年)沖縄女子短期大学附属高校長に就任。(3年勤務)
 以上のように、エリートの道を歩みます。
 津留先生は、〔春風秋霜〕をモットーとしていました。春風のような和やかさで人に接し、秋霜のような厳しさをもって自己を抑制する。
〔他人に優しく自分に厳しく〕という意味です。 
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