時々新聞社

慌ただしい日々の合い間を縫って、感じたことを時々報告したいと思います

暴動にみる民族性

2009年07月12日 | 社会問題
中国のウイグル自治区で暴動が起き、多数の死傷者が出ているようだ。
何が原因で、どういうきっかけがあったのかは定かではないが、こういう暴動を見ていて、日本との民族性の違いを痛感させられた。
日本でも、学生運動が華やかなりし頃に、機動隊を相手に火炎瓶を投げつけ、これに機動隊が催涙弾で応酬したり、大学の構内に立てこもったり、・・・、いろいろと騒ぎはあったが、周辺の住民などに直接的に(間接的には、きわめて迷惑な行為であったことは間違いないが、)被害を与えるような「暴動」ではなかった。闘争の相手は、機動隊であり、国会という権威であり、省庁であった。
意味もなく、路上のバスに火をつけたり、車を破壊したり、商店街を襲撃したり、・・・というようなことはなかった。
ところが、中国に限らず、タイ、ミャンマーなどの東南アジア諸国、ヨーロッパ諸国、アメリカなどの外国の暴動では、必ず、自動車の破壊、放火、商店街への襲撃など、端から見ていても、まったく意味のない行動が多い。
要するに、何が不満で暴動を起こしているのかが、よくわからないのだ。
アメリカなどの場合は、暴動に乗じて、商品の略奪などが行われているので、これらに便乗して窃盗を働く連中も存在する。
今回の中国の例では、経済発展の恩恵を受けているのは漢民族ばかりで、この経済支配に対するウイグル民族の不満が爆発した、などと報じられているが、それが、どうして路上の車やバスに放火したり、商店を襲い、公共物を破壊することにつながるのだろうか。
この論理の飛躍が理解できない。
こういう破壊活動に対して、警察などが、暴動を鎮圧し、犯人を逮捕することは当然であろう。
翌日には、「逮捕者を釈放せよ」といった要求を掲げたデモが行われていたが、これなどはきわめて平和的で、我々の目から見ても、至極まともなものである。
なぜ、最初からこのような平和的な示威行動、平和的な交渉や話し合いができないのかが、不思議である。
将来、社会不安が増大した場合、日本でもこのような暴動が起きるだろうか?少なくとも、自動車に放火し、商店を焼き討ちするような、無関係の人間に直接的な被害を与えるような行為は、行われないのではないかと思っている。
日本人はよく、平和ボケしていると言われるが、戦後の社会生活の中で、争いをせずに、話し合いや譲り合い(妥協や馴れ合いと呼ばれるものも含めて)によって、問題を解決する方法を構築してきたのではないかと思っている。
これは、日本人が戦後社会の中で身につけてきた、誇るべき民族的、歴史的特質であろう。
いまも、世界のあちこちで紛争は起きており、立場の弱い者がいつもその犠牲になっている。平和的な解決を模索する動きが、世界に広がることを期待している。

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