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道(真理)の実践


釈迦略伝~(一)前生 ・(二)降臨

2017-07-13 18:51:35 | 観音・釈迦・達磨・因果経

この世界は3次元ですが、小さい時から異次元体験をしたことのある人は以外に多いと思います。もともと人は4・5次元の存在ですがだんだんと密度が濃くなってもう忘れかけていたところです。

今回から6回に分けてお釈迦様の伝記を掲載します。お釈迦様が実際どのような方でどのようにして真理を求めたか、その要点が記されたものです。歴史的な証拠や遺稿を参照して様々な釈迦伝説がありますが、本編は天界の高次元の仙佛が実際の物語を伝えるものです。

夢と思っている現実の世界、あるいは現実と思っている幻の世界が交叉している物語のようですが、真実の物語というのは天命に添った生き方、その人が役目を果たすために歩んできた道のりです。私たちは多次元の存在です。.あらためて過去の聖人の歩みをたどりながら、聖人の人生から真理の重要性について汲み取っていただきたいと思います。

釈迦略伝

     大英博物館所蔵 お釈迦様の画像

(一)前生

お釈迦様の前世は、歌利王(かりおう)にご体を切り裂かれた故事があります。

ある時、歌利王が多くの妃や宮女を引き連れて山に狩りにゆきましたが、疲れて山で休んでいるうちに眠ってしまいました。しばらくして目を覚ますと、連れてきた多くの妃や宮女は一人もおりません。山をあちこち探し尋ねると、一つの山洞があり、妃や宮女はその山洞の前で僧侶の説法を聞いていました。歌利王は大いに怒り、僧侶に向かって「汝は婦女をなぜここに誘ったのか」と責めたてました。

僧侶は「われは実に無欲なり」と答えました。すると王はまた「いかにして、汝は色を見てもなお無欲と申すや」と詰問しますと、僧侶は「持戒あるのみ」と答えました。王はまた「何を持戒と申すや」と問いますと、僧侶は「忍辱なり」と答えました。王は「忍辱と聞くやいなや大怒りして刀を抜き僧侶に切りつけ、「汝に問うが痛かろう」というと、僧侶は「実に痛からず」と答えますと、王はますます怒り僧侶の身体を切って節々に分解しつつ「汝に問うが我を恨むや」と問うと、僧侶は「既に無我なり、いずこより怒りや恨みが来たるや」と答えました。

この時、四天王が震怒し一時に強風が起こり、石や砂が飛んで天龍八部が一斉に護法しました。僧侶の分解された身体はまた元通りになりました。

歌利王は大変恐れて僧侶の前にひざまずき、伏してあやまちの赦しを請いました。僧侶はただちに王に代わって、天に赦しを求めました。するとまたたく間に天気は晴れわたりました。そこで王も改心し善功をつむことを誓いました。

僧侶もまた「もし成仏することを得られれば、我まさに汝を先に度す」と発願しましたが、その僧侶こそが後世の釈尊でした。歌利王はすなわち五百世後お釈迦様誕生の時の憍陳如(ぎょちんにょ)でした。

憍陳如はまた阿若憍陳如(あにゃぎょちんにょ)ともいい、中印度迦比羅城(かびら城)のバラモン種族に生まれました。卜術(占い)に長じ、お釈迦様誕生の時も、いち早く召されて卜を占なったことがあります。

その後お釈迦様が出家して、尼連禅河畔の山中で苦行された時、憍陳如は実にお釈迦様に随侍していた5大弟子の一人でした。 

Deshi A:僧侶の請願「もし成仏することを得られれば、我まさに汝を先に度す」について

成仏というの、死んで極楽浄土(極まりのない世界)に行くと考えられていたことですが、僧侶は「もし得られれば」と言っています。これは功徳に対する天の裁量であることは勿論ですが、当時は”もし”というほど稀有なことのため厳しい修行、をしていました。何百世(何百回も生まれ変わった後)の輪廻の苦行をへて、これから先もそういう覚悟の中で必ず成し遂げるという誠心からの請願に人の縁の尊さを実感します。

お釈迦様が5百世後、菩提樹の下で真理を得ましたが、同じく5百世後お釈迦様の5大弟子として生まれ変わった憍陳如に「まず汝を先に度す」という当時の約束を果たせたかどうかはわかりませんが、少なくともお釈迦様という師を得た憍陳如はやがて成就する機会が得られたろうと思います。 

お釈迦様が16年の苦行の後、菩提樹の下で金星(明星)の灯をかりて通りがかった燃灯佛という師から「真理」を得て、後に弟子の中でただ一人摩訶迦葉という弟子にこの真理の秘法が伝えられました。

 

(二)降臨

釈迦の二字は、中国語に訳せば能仁(のうじん)となり、牟尼(むに)の2字は寂黙(じゃくもく)になります。お釈迦様の父親は、中インド迦比羅国の国王で浄飯王(じょはんおう)といい、母親は麻耶(まや)夫人といいました。麻耶夫人は勤倹で、質朴質素な方で贅沢な生活を喜ばず説法や道の教えを聞くことを好まれました。44歳のとしの時に天から神人が降りてくる夢を見てお釈迦様を懐胎しました。

麻耶夫人は臨月にあたる4月8日に藍比尼園(らんびにえん)に参りましたが、ちょうどこの時、園内はのどかで暖かい春の日で無憂樹(むうじゅ)の花が爛漫に咲き乱れていました。世間で釈迦牟尼佛という方がこの日ここで降誕されました。推算してみると、西暦紀元前約1029年(記録では紀元前400年前後が多い)にあたり、中国では周昭王(しゅうしょうおう)24年のことでした。

中国の歴史上にも、その4月8日には山や川が振動して五色の光が大微星をつらぬたと記録され、また太子の蘇田(そでん)というものが国王に「大聖人が西方に生まれ、一千年後にその教えがこの地にも及ぶことでしょう」と奏上したと記録されています。お釈迦様はご誕生後、母の麻耶夫人と共に迦比羅城に帰りましたが、父の浄飯王は生まれた太子をご覧になって大変喜び、悉達多(しったるだ)と名前をつけました。悉達多の三文字は「一切成就」の意味になります。

麻耶夫人は、お釈迦様誕生後七日にして亡くなりました。そこで、麻耶夫人の妹君の波闍波提(はじゃばだい)夫人が代わって愛護養育しました。悉達多太子が七歳になって、婆羅門(ばらもん)の学者の一人跋陀羅尼(ばつだらに)が師として学問を教えました。しかし迦比羅国の領土はわずかに5百方里余りの一小国で、諸大国の間に挟まって群雄と対立しなければなりません。そこで浄飯王は、孱菩提婆を招聘して太子の師として、もっぱら武芸を教えるようにしました。悉達多太子は聡明であり、文武に通じたのでその名声は内外を震わせました。

Deshi A: 西暦紀元前約1029年(記録では紀元前400年前後が多い)

お釈迦様が誕生した年について歴史的な記録と異なりますが、この伝記は仙佛のお話ですのでそのままお伝えししておきます。

続く

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