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世界最後の謎を解き明かす(ムー大陸探検事典) ~第7章古代の地球を治めた日本の王探検協会の調査Ⅱ

2017-07-29 20:53:50 | 超古代・アトランティス・ムー・縄文・先住民・諏訪・御柱・カゴメ

第7章古代の地球を治めた日本の王探検協会の調査Ⅱ

宮下文献に天之田原男と記された太古日本の王ツタンカーメン

 

日本に伝わる神代文字は、かつて太平洋を中心に栄えたムー王国と、その継承国家ティルムンの栄光を記すために使われた。その神代文字を手がかりとして、世界各地の未解読碑文に挑戦してみると、驚くべきことに、太古日本の王が全世界を治めていた遠い昔の記憶がよみがえってくる。ムr文明時代の碑文は、以下に見るいくつかの文明の建設者が、帝王ラ・ムーの教えに従った太古の日本人であったことを物語っている。

リポート1

古代カラ族の未解読文字分布原日本人カラ族が世界各地に残した文字から浮かび上がってきた文明とその遺跡についてー。

カラ族の残した文明と思われるものが地球上におよそ十か所ほどある。

(1) シュメール文明

(2) インダス文明

(3)原中国文明

(4) タレタ・エーゲ文明

(5) エトルリア文明

(6)イベリア文明

(7)サハラ文明

(8)アサニア文明

(9)オセアニア文明

(10)アンデス文明

以上の十か所の文明(地図参照)についてそれぞれ簡単に述べていくこととする。

太古の日本人力ラ族が残した世界10大文明

古代カラ族の航海者が寄港した地中海のクレタ島

第一にシュメール文明について。従来シュメール文明は五〇〇〇年前に栄えた文明とされてきたが、シュメールは粘土板にSMRという表記で出ていて、サマリア文明であったと考えられる。サマリアは実は三〇〇〇年前、ダビデ、ソロモンによって築かれたイスラエル王国の都であった。このサマリアの元の古い名前はカルとかクリ、カラあるいはクルという表記がなされていて、古代イスラエル王国の国名はカルクー、すなわちカルの国、カラ族の国であるということが古い文献から確かめられている。そしてわれわれがふつうヘブライ人といっている人たちは、ヘロドトスの『歴史』に登場するカーリア人、フルリ人とつながりがあり、フルリ人はタルリ、つまりクル族であるということで、カラ族の残した文明の第一と考えられる。

第二はインダス文明。中近東に栄えたシュメール文明とかかわりを持つインダス文明の担い手は、インドのタミル人に代表されるドラヴィダ語族と考えられる。このドラヴィダ語族は地中海方面からインド、日本に移住した人々で、実際に日本語とドラヴイダ語がかつて共通の祖語を持っていたことが多くの専門家によって認められている。日本におけるその代表的な言語学者が大野晋教授である。地球文化研究所の高橋良典が解読したインダス文字の銘文からインダス文明の建設者がクル族であったこと、そしてほぼ日本語といえる言葉をインダス文明の担い手が使っていたことが判明している。

第三に原中国文明。日本人の祖先の一部をなす倭人がかつて江南、山東、満州、朝鮮の各地にいたことが中国の史書に記されている。そして、その倭人といわれる人たちの到来以前に中国や朝鮮にいた人たちは、日本に伝わる漢字以前の文字を用いて、数多くの碑文を残している。中国の古代碑文もまた日本語で書かれていることから、この原中国文明はわれわれ日本人の祖先、カラ族が築いたものとみることができる。

第四にクレタ・エーゲ文明。このタレタ文明時代に残された三種類の古代文字、タレタ絵文字、線文字A、線文字Bのうち、すでに線文字Bは解読され、古代ギリシア語で書かれていることが判明している。線文字Aと、絵文宇を高橋が試みに解いた結果によれば、それらは古代の日本語、つまりカラ族の言葉で書かれていることがわかった。

第五にエトルリア文明。BC八世紀の初めに小アジアのカーリア人地区からイタリアに移り住んだエトルリア人は、日本に伝わる古代文字を用いて記録を残している。このことからエトルリア文明の建設者も原日本人のカラ族であったと考えられる。

第六にイベリア文明。イベリア半島のタルテッソスに伝わる古代碑文もまた、日本に伝わる古代文字で記されている。有名なタルテッソス・リングに刻まれた文字を解読した結果、この指輪はアフリカに亡命したイスラエル最後の王ホセア(イサク)がエチオピア朝エジフトの王からイベリアの統治を委ねられたことを記したものと考えられる。イベリア半島のイベリアという言葉は、ヒブル、ヘブルから来ている。また、イベリア半島の古代都市セビリアもサマリアから来ている。このことも間接的にイベリア半島の統治者が古代イスラエル最後の王ホセアとかかわりのあることを暗示している。

第七にサハラ文明。サハラ砂漠の各地、たとえばアルジェリアのタッシリやマリ共和国のアドラール・デ・ジフォラスに残された古代文字碑文を読むと、アッシリアの追求を逃がれたイサクとヨセフ、イザヤらがホガール山中に身を隠したことがわかる。彼らはエチオピア王ピアンキとタルハカの時代にアッシリアに反撃して、この地にタデメッカと呼ばれる都を造った。そのことも碑文の解読結果から判明している。マリ共和国のタロホスとインタデイニの間にある巨大な石造都市の廃塘ぼ、そのタデメッカに相当し、この地区に残されたティフィナグ文字碑文はBC七世紀のタデメッカに日本人の祖先の一部が住んでいたことを示している。日本の『新撰姓氏録』はアルジェリァのオーネトやマリ共和国のブーグー二からやってきた人々の名前を記し、『契丹きつたん古伝』はまた、日本神話のホホデミに相当するヨセフがマリ共和国のイジュンハンに救援部隊を派遣したことを記している。

第八にアサニア文明。東アフリカのケニヤからタンザニア、モザンビーク、ジンバブエ、南アフリカ、コンゴにかけて無数に存在する遺跡群はこれまで、いつ誰が残してきたものかわからなかった。が、このアサニア文明の都がエンガルクー、あるいはニイケルクーと呼ばれていることは、それがカル国(イスラエル)の滅亡後に再建された新カル国、新ケル国であったことを意味しており、日本の『姓氏録』や『契丹古伝』にケニヤのキスーム、ソマリアのキスマユ、スーダンのナパタ、シャバのルブンバシやマノノ、リカシ、ジンバブエ、セイシェルなどの出身地の名前、あるいは都市名が記されている。このことは、これらの遺跡がBC七世紀からBC五世紀にかけて、日本の『姓氏録』に名をとどめる沙半王(シャバ王)や飛鳥戸(アスハム)の人々によってつくられたことを示している。

第九はオセアニア文明。『契丹古伝』によれば神祖ヨセフはオーストラリアやニュージーランド、イースター島に都市を建設したといわれ、実際にオーストラリアやイ;スター島にはそれらの都市の跡とみられる遺跡があり、日本に伝わる古代文字で記された碑文が残されている。オーストラリア東部のジランバンジやイースター島のラノ・ララクは『契丹古伝』によればキリコエアケが統袷したといわれるが、このキリ⊇エアケはイースター島でウオケと呼ばれ、オーストラリアでウォガウォガと呼ばれる神となっている。また、イースタi島に伝わる文字板のひとつを解読した結果もまたイースター島と日本のつながりをはっきり物語っている。第十はアンデス文明。アンデスの諸王朝は伝説によればステルニとその子孫によって開かれたといわれる。エクアドルとペルーの伝説は、昔カラ族の一団がイカダの大船団を組んで西からやって来たと伝えているが、その指導者ステルニは紀伊半島の古代碑文にもステルニと記された王であったことがわかっている。

大航海時代以前の旧大陸におけるコウチュウの地理的分布図エクアドルの地下都市から出土した石板の文字とその解読結果

『契丹古伝』は神祖ヨセフの時代にエクアドルのエスメラルダスに都が置かれたことを記し、日本神話はスクナヒコナが伊勢から常世の国へ旅立ったことを伝え、『史記』は徐市じよふつ(徐福とも記された人)が数千人の童男、童女を率いて蓬莱ほうらいを目指したと伝えている。その徐市は日本のアイヌ文字で表されたスクナヒコナ゛の各文字を合成してつくられた漢字名であることも高橋が証明している。エクアドルのバルディビア海岸から日本の縄文土器や弥生の家型埴輪が出土していることや、アンデスのティアワナコ、エクアドルのクエンカその他から日本語碑文が見つかっていること、カラ族の子孫が今もブラジルのフルニオ族として日本語によく似たイアテ語を話していることなどから、日本人の祖先が南アメリカで活躍した時代が過去にあったことは確かな事実とみなすことができる。

リポートⅡ

『竹内文献』と古代文字

『竹内文献』は、「神代の万国史」とも称されているように、上古以来のあめのうき伝承、「空飛ぶ円盤」を思わせる天浮舟ふねに乗って地球に降臨した神々やその子孫(日本人の祖先)が地球をかけめぐった黄金時代、その後の「万国土どろの海となる」大異変や大戦争による崩壊と再建を記した一大叙事詩である。『竹内文献』のイザナギ神話にはこう書かれている。上古(紀元前七五〇年頃)第二一代天皇イザナギは、ヒサカタノアメノマハシラ(比刺方天真柱)を巡って皇后イザナミと結婚したあと、天越根中日見日高見国あめのこしねなかつひみひだかみのくに (今の富山湾地方の氷見をふくむ日高見=石神ピツトカムイの国)の栗礼羽くれは赤土大宮で即位した。

皇后のイザナミは、ここで蛭子ひるこの尊みことをはじめとする多くの皇子、皇女たちを産んだ。しかし彼女は火の神を産んだとき産道がひどく焼けただれて、七夜苦しんだ。そこで彼女はこの病気をなおすため、夫のイザナギに別れを告げてイダナ国パミル高原からアフスタン国のヘラサカイトに去って行った。文中のイダナ国パミル高原とは、ナ支那国(中国)の西のはずれにあるパミール高原をさしている。また、アフスタン国のヘラサカイトは、アフスタンを今のアフガニスタンと考えれば、イラン国境に近いヘラートをさしていると思われる。しかし、このあとの文で、アフスタン国にはアフガニスタンのカブールのほかに、ウズベタ共和国の首都タシュケントやボハラなどがあったとされているので、当時のアフスタン国は今のアフガニスタンより広かったことがわかる。

イスラエルの都市ゲラサに通じる王の大路アフスタン国のカブールやボハラ、タシュケントといった町は、いずれもシルクロード沿いの交易拠点で、これらの町にはパレスチナのサマリアやゲラサ、エルサレムなどからやって来たイスラエルの商人たちが数多く住んでいた。そこで、文中のアフスタン国をイスラエル人によって営まれた隊商都市ネットワークと理解すると、この国にあったとされるヘラサカイトは、前八世紀に栄えたイスラエルの都市ゲラサをさしていると考えた方がよい。イザナミがこのゲラサヘ病気をなおしに帰ったのは、おそらく彼女がゲラサかサマリアあたりの出身で、イスラエルの女性だったからではなかろうか。これは後にイザナミが白人の女性であったことが『竹内文献』に書かれていることでも十分うかがえることだ。イザナギは、妻の重い病気が火の神によってもたらされたことを憤り、火の神を剣で突き刺した。このことによって火の神の穢けがれは清められ、皇子は生まれ変わった。その後、イザナギがイザナミのあとを追ってアフスタン国へ行ってみると、皇后はヘラサカイトにおり、元の通り美しくなっていた。

そこでイザナギはヘラサカイトに宮殿を建てて皇后とともに住み、ここでカブイル民王、ガズニ王尊、ファライ王尊を生んだ。

イザナギはこれら三人の皇子を、アフスタン国のタシュケント城、ボハラ城、カブイル城のそれぞれの王に任命すると、彼らを現地に残し、皇后のイザナミと連れだって日本(天国)の都に帰ろうとした。『古事記』と『日本書紀』によれば、イザナミは火神を産んだとき受けた火傷がもとで、黄泉よみの国に去り、イザナギが火神を殺したあと、黄泉の国に行って彼女を連れ戻そうとしたが失敗に終わったことになっている。しかし、イザナミが地下世界から生き返って、イザナギとの間に三皇子をもうけたことは、竹内文献だけでなく『上記うえつふみ』も記している。おそらく記紀の編者は、イザナミと三皇子の出自を隠すために、彼女をヘラサカイトではなく、平坂で死んだことにしてしまったのだろう。ところが、このことを知ったヨモツクニ(泉国)の白人王は、白人女を返すな、イザナギを追い返せとばかり二人を追ってきた。

白人の追手をかわすためにイザナギとイザナミは相談して、逃げ道に桃の実をうず高く積みあげた。白人王と女たちは突然降ってわいたような、おいしい果物の山に、すっかり上機嫌となって、二人に対する追求の手を休めた。そこでイザナギ天皇は、ヤツシ城の白人王に向かって「汝をローマ国王に命ず、ネゴイ山の王城に居るべし」と告げたところ、この白人王は天皇の申し出を喜んで受け入れた。こうして天皇はさきにアフスタンの各地に派遣した皇子たちにそれぞれカフール、ボハラ、タシュケントの王として防衛の任務を忠実に果たすよう訓令を発したあと、イザナミ皇后をともなって日本の都に帰って来たのである。『竹内文献』のこの記事は、皇后のイザナミが「白人女」であったと述べているが、これは、第一六代天皇ウヒチニの娘ミチノク姫の孫に、ヨロボクニヌシ(豫呂母国主)がおり、このヨーロッパ王、すなわち自人王の孫娘がイザナミであったという記事からも裏づけられる。イザナミが日本では白山姫として加賀の自山に祭られ、白い肌の女神を連想させるのは単なる偶然の一致だろうか。彼女がアフスタン国の王妃でありながら、イザナギとともにこの国を脱出したのは、アフスタン国がアッシリヤに滅ぽされたイスラエルをさしているとすれば、当然のことと考えられる。滅亡前にすでにアッシリヤの属国と化していたイスラエルの王妃が、アッシリヤ(またはヒッタイト)の王女の一人で、アーリヤ系の白人女性だったということは、十分に考えられることである。

イザナギがイザナミを黄泉よみの国から連れ出したということは、『竹内文献』の文脈の中では、もっばらヨモツ国と名づけられたヨーロッパ・小アジア(アナトリア高原)イラン高原地域の一画から脱出したことを意味するものとして語られているが、一方、この地域には数多くの地下都市と地下回廊があるので、実際にイザナギはイザナミをアッシリヤ支配下の地下都市のひとつから救出したことが考えられる。

太古の地下都市に君臨したミクトランテクトリ「黄泉の神」

イザナギの時代に活躍したイスラエルの予言者イザヤが、紀元前七五〇年ころ、迫りくる地球の異変を警告して「あなたは岩の問にはいり、ちりの中にかくれて、主の恐るべきみ前とその威光の輝きとを避けよ」(イザヤ書第二章一九節)と勧めたように、当時の人々は洞窟や地下都市に避難していた。イザナギの孫とされるオシホミミま、『宮下文献』によればトヨクミヌ(トヨクモノネ〉の孫で、トヨクミヌがアイヌのポニウネカムイと同一人物であったとすれば、オシホミミはポニウネの孫のポイヤウンペに相当する人物ということになる。ポイヤウンペは、アイヌの叙事詩『ユーカラ』の中で少年時代を洞窟の中で過ごしたと物語られている。ポイヤウンペの父か、あるいは祖父にあたるアイヌラックルは、魔神にさらわれた日の女神(または婚約者)を救い出すため、地下で魔神と戦っており、このことはイザナギが黄泉の国(地下都市)で鬼神たちと戦った話と同じである。

前七五〇年前後の小アジアは、ホメロスの『イーリアス』と『オデュッセイア』に物語られたトロイ戦争が終わってまもないころで、トロイから脱出したアエネイアースはローマに落ちつき、ギリシア軍の総帥メネラーオスも、ようやくの思いで故郷にたどりついたといわれる。メネラーオスの妻ヘレネーが、トロイの王子アレタサンドロス(パリス)に誘拐されたという話や、オデュッセウスが冥界の王の住むハデースの地下の館を訪れたという話が、日本に伝わる古い物語とよく似ているのは、日本の伝説に登場するイザナギやイザナミ、アイヌラックルやポイヤウンペが、いずれもこの時代に活躍した人物の記憶に基づくものであることを意味している。『竹内文献』はそのような意味で、この時代の失われた日本の歴史(ひいては世界の歴史)を復元する上で、有力な手がかりを与えてくれる。この時期に活躍した天皇たちの行動範囲は、予想以上にスケールの大きなものであり、当時の世界情勢と不可分にかかわっていたことを教えてくれる。本文では、アッシリヤ王とみられる白入王の追求を逃れたイザナギが、その後、ヤツシ城の白人王をローマ国王に任命したと書かれている。この記事の白人王は、おそらくアッシリヤ王とは別人で、トロイから脱出してローマに着いたアエネイアースをさすように思われる。しかし、それがアエネイアースでなかったとしても、同じ前七五〇年ごろに、ロムルスがローマ市を建設し、ローマ(あるいはエトルリア)初代の王になったと伝えられているので、『竹内文献』の記事はまちがってはいない。

またここに登場するヤツシの城が、ルーマニア北東部のヤーシ郊外からクタテニ遺跡として見つかっていること、ククテニ遺跡から出土した土偶が、シュリーマンによって発見されたトロイ市第二期の廃塘から出土した土偶と同じヴァイオリン形をしていて、ククテニはトロイからの亡命者によって建設されたことをうかがわせること、さらにイタリアの初期エトルリア文化(ヴィッラノーヴア文化)は、このクタテニあたりからドナウ川を湖った入々がアルプスを南下して築きあげたものであることを証明する遺物や記録があること。こうした事柄は、イザナギがヤツシ城の白人王に、ローマを建設するよう命じたという記事と非常によく一致している。アルプスのチロル地方に、東北・北陸地方のナマハゲに似た行事が古くから伝わっていることや、南アルプスのモン・ベゴが、日本の東北地方でベゴと呼ばれている牛の神にちなんだ聖なる山であること、また、『竹内文献』でカムナと呼ばれた文字の名と同じ名称をもつエトルリア系のカムナ族がカモこ力渓谷やピネローロの谷に、日本のアイヌ文字と同じ文字を残していること、カムナ族の文字であるカムナモジを解読した結果、彼らは日本語を話していたとみられること。これらの点を前述の事実と合わせて考えると、イザナギ天皇がトロイ戦争の亡命者にイタリア地方の開発を指示したことは十分に考えられ、ギリシア人やローマ人がイタリアを中心とする南ヨーロッパ地域で勢力をもつ以前は、この地域でも日本語を話す人々が活躍していたことは確かだと思われる。

アイの胸飾り

テーベ王朝最後のファラオ、アイ(国常立くにとこたちの父親の高皇産霊神) たかみむすびのかみが残した胸飾り。天空を司る女神ヌトの頭上と羽の下に刻まれた文字は、これまでエジプト語を記した未解読の象形文字と考えられてきた。が、これらを地球文化研究所の高橋が読み解いた結果、次のような言葉が刻まれていることがわかった。・日経ひふる天日あむひとともに出づるトゥトアンクアムン/永遠に在れ〔頭上〕誓ひ/トウトアンクアムン/御身愛で/死したるのち/あの世でも/朝なタベに祈る[右下〕ここに主//天日奉りて/絵師/イシスの宮の日経る札つくる、〔左下〕文中の「主」とは、高橋によれば、前八〇九年の第一次テーべ戦争で亡くなったツタンカーメン(宮下文献に見える天之田原男神)を手厚く葬ったカラ族出身のファラオ、アイをさすという。

[アシカビキミヌシ]

竹内文献に登場する上古第一代天皇。紀元前一六〇〇年頃在位。中国の歴史書『史記』に記された黄帝と同一人物である。竹内文献は、この天皇の時代に次のようなことがあったと伝えている。・上古第一代天皇は宇宙の彼方の天日国から地球に天降り、天元根国(コーカサス山脈/天帝の下界の都)で即位した。・天皇は天元根国に天神人祖一神宮を造った。・また、この神宮の別宮を日球国(飛弾山脈)に造った。・天皇の二十五人の皇子の一人は、天の浮船と呼ばれる宇宙船の建造にあたった。・天皇は万国の地図と文字をつくらせたあと、日本の富士山から天上の星、天日国に神去った。ここに登場する天日国とは、アメンピ(Amenpiのアナグラムから、ヴィマナであることがわかる。

[アメノトコタチ]

竹内文献に登場する上古第一三代天皇。紀元前一〇〇〇年頃在位。中国の歴史書「史記』に見える周の文王と同一人物。テーベの都から世界を治めたエジプトのファラオ、アメンホテップ一世として実在した。竹内文献は、この天皇の四十八人の皇子と皇女が、それぞれ北アメリカと南アメリカ、アフリカ、ヨーロッパ、アジア、ミヨイ、タミアラに派遣され、国王になったと伝えている。アメノトコタチは、日本の筑波山に仙洞大宮という巨大な地下宇宙基地をつくり、ここから天界に神去った。この天皇の孫の中に、星問宇宙飛行と関わりの深い天日月間星男女尊や長寿守護神がいたと伝えられているのは注目される。竹内文献は、テーベ王朝十一代のファラオのうち、この天皇の治績しか伝えていないが、宮下文献には他の天皇名も記されている。

[アメノヤソヨロズタマ]

竹内文献に登場する上古第九代天皇。東日流外三郡アソベ王ウソリ、記紀の天御中主と同一人物。中国では、紀元前一五〇〇年ころ発生した大洪水を治めて夏王朝を開いた禺として知られ、メソポタミアでは、同じ洪水を生きのびて神々の楽園ティルムンに住んだウトナピシュティム(旧約聖書のノア)として知られている。竹内文献は、この天皇の時代に次のようなことがあったと伝えている。・天皇は宇宙船に乗って万国を巡幸した。メソポタミアのニップール(尼波羅国)に天降ったとき、人々は天皇の来訪を記念して、ジッグラト(大黒人山)という階段状のピラミツドをつくった。・万国巡幸の旅から日本に戻った天皇は、息子に位を譲ると恐山に向かい、この地で神去った。恐山霊場の由来はこの時に始まる。おお、見よかの山すそに身を横たえて眠れる大きな蛇をその長さは30オーナ(約56m)幅は8オーナ(約15m)身は水晶のごとく輝き光を放つ金属におおわれているおお、そなたはかの山の蛇の名を知っているかそれはこうだ"炎の中に生きるもの"

[アンデスの黄金板碑文]

イスラエル最後の王ホセア(旧約のイサク/記紀のイザナギ)と、彼の養子になったティルムン王スダース(旧約のヨセフ/記紀のホホデミ)が、紀元前七〇〇年ころ残した碑文.エクアドルの地下都市から出土したといわれる二の碑文の文字は、欧米の学者がインドのブラーフミー文字によく似ていると指摘。故クレスピ神父所蔵の図のような黄金板(52㎝×14㎝×4㎝)を紹介したスイスの作家デニケンは、この碑文の作者を宇宙人とみなした。が、高橋は、これらの文字を、インドのブラーフ、・、1文字の元になった日本の神代文字で読み解いて、次のような結果を得た。・これなる金の板にイサクとヨセフ記す〔一行目〕・ここにわがクルの宝あつめしめ〔二行目〕・のちの世に伝へていしすゑたらしめん〔三行目〕・ヤアヱをわれらのカムイとあがめよ〔四行目〕アンデスの黄金板が、日本の古代文字で書かれ、しかも古代の日本語で意味をなす二とは、紀元前のアンデスの統治者が日本人の祖先のクル族であったことを物語っている。一九三〇年代に南米の地下都市を捜し求めたナチスドイツのSS隊員は、戦後まもなく、日系インデイオのヒバロ族が入口を守るエクアドルの地下都市に侵入し、この黄金板と同じ文字で書かれた何万枚もの金属板を押収したという。「死後に富むを得…」と読める漢字の発明者・蒼頡が残した碑文(西安郊外)

カラ族の地下都市から出土した黄金板碑文

[イザナギ]

竹内文献に登場する上古第二一代天皇。紀元前七二五年頃在位。インドの叙事詩『マハーバーラタ」の中でカウラヴァ(ムー)との戦いに勝利を収めたパーンダヴァ(アトランティス)の英雄ユディシュティラの息子として描かれているパリクシト、すなわち旧約聖書のイサクと同一人物『契丹古伝』に殷叔の名で記され、「日本書紀」に伊弉諾(イサフタク~パリクシト)の漢字名で表記されたイサク(イザナギ)は紀元前八世紀にアッシリヤ(アトランティス)のためにパレスチナを奪われたイスラエル王ホセアとして実在したとみられる。

[イジュンハン碑文]

契丹古伝に日の沈む西の大陸のはてにある斐伊絢倭と記されたアフリカ大陸、マリ共和国のイジュンハンにある碑文(次頁参照)。サハラ砂漠の青い戦士として知られるスーダン系トゥアレグ族の祖先が残したものといわれている。現地でティフィナグ文字と呼ばれているこれらの文字は、これまで解読不能とされてきた。が、ティフィナグ文字と目本の神代文字の類似に注目した地球文化研究所の高橋は、これらの文字の音価を復元。サハラ砂漠の岩山に刻まれた文字は、紀元前七世紀の初めにアフリカで活躍した日本人の祖先、カラ族が残したものであることを突きとめた。木村重信・大阪大学名誉教授が現地で採集してきた百種以上の刻文は、高橋によれば古代アフリカに都市文明を築いていたカラ族が、前七~八世紀の戦争と異変の時代に、東方に向かって脱出し、大移動したことを物語っているという。これらの刻文の中に、スダースやタルハカ、二ニギといった固有名詞が見えることは、イジュンン碑文がエチオピア朝エジプト時代に記されたことを意味している。タッシリの壁画に描かれた古代日本の貴婦人たちは、この時代に、タルハカ(ニニギ)やスダース(ホホデミ)に導かれて、アフリカに侵入したアッシリヤの暴虐から逃がれたのである。

サハラ砂漠のタッシリ高地

アツシリヤ(アトランティス)のアフリカ侵入によって東方へ避難する古代カーリア(ムー)の貴婦人たち

[イースター島文字]

イースター島で発見された謎の文字板コハウ・ロンゴロンゴに書かれている文字。図の文字板には、目本人の祖先の一部をなす古代イスラエルの民=カラ族(旧名カルと呼ばれた首都・サマいアの人々)の一グループが、この島を経て葦原の瑞穂あしはらみずほの国と呼ばれた日本に向かったことが記されている。イースター島はかつて、太平洋を航海するバルサ(筏船)の船団の重要な寄港地で、この島と日本は熊野の諸手船もろたぶねと呼ばれる快速船で結ばれていた。目本の熊野にある列石がイースター島のアフ(モアイの台座)とよく似ていることは、すでに何人かの研究者によって指摘されている。この島の文字板が熊野の諸手船について述べていることは(左の訳文参照)、今も日本で行なわれている諸手船もろたぶね神事の伝統の中に生きており、日本とイースター島との失われたつながりを明らかにするものとして注目される。以下、アタン文字板の訳(部分)を示す。贄ささげたてまつりて降ることなき雨が降らめと水をも飲まずひと時なむも寝ずに夜昼となく海見晴らしし父母ちちははたちを讃えまつらく熊野の諸手船の梶をとり我ら神さびつつ廻る…(下略)

エステバンアタンの文字板

[エトルリア文字]

ローマ帝国の成立以前に口ーマ市を建国したエトルリア人。彼らの残した工トルリア文字は、いまだに解読されていない重要な文字のひとつである。図の迷宮に描かれた記号は日本の古代文字で、「カムサリヌ」(神去りぬ)と読める。エトルリアの人々は彼らの伝説に従えば、紀元前八世紀のトロイ戦争において、炎のトロイを脱出した英雄アエネイアスの率いるトロイ派の将兵がローマに移り住んだことに始まるといわれている。小アジアからブルガリア、オーストリア、チロルの谷を通ってイタリア半島に南下したとみられる彼らは、その途中にもチロルの谷にカムナ文字と呼ばれる、これまた日本の神代文字と関わりの深い文字群を残している。『竹内文献』は、この時代にイザナギの部下の将軍がトロイから口iマヘ移り、今日の口ーマ市を建国したと伝えている。したがってこの地域にエトルリア人が日本の古代文字を用いていくつかの記録を残したことは十分に考えられる。

古代工トルリアの壁画

オオトノチ

竹内文献に登場する上古第十八代天皇。紀元前七五〇年頃在位。インドの叙事詩『マハーバーラタ」の中でドリタラーシュトラの息子ドゥリヨーダナと戦ったパーンドゥの五人の息子の一人として描かれているユディシュティラと同一人物。日本のアイヌに伝わる叙事詩『ユーカラ』にも、ポイヤウンペ(オモタルヒコ)と戦った英雄、カムイオトプシとして描かれている。竹内文献によれば、この天皇の時代に地球はまたもや大異変に見舞われ、天皇は恐山から天界に避難して再び地球に戻ったという。オオトノチの都は世界各地に造られ、天皇は天の浮船と呼ばれる空艇に乗って万国を巡幸したともいう。その空艇は一日に八OOO里、ないし一万一OOO里飛ぶことができたというから、当時の航空機は、時速一三OOキロ以上のスピードをもった超音速機だったことがわかる。

[オモタルヒコ]

竹内文献に登場する上古第十九代天皇。紀元前七五〇年頃在位。日本のアイヌに伝わる叙事詩「ユーカラ』にポイヤウンペという名の英雄として描かれ、インドに伝わる世界最大の叙事詩『マハーバーラタ』の中でパーンドゥの五人の息子と戦うドリタラーシュトラの息子として描かれたクル族の英雄ドゥリヨーダナと同一人物。宮下文献に国狭槌くにさづち (パーンドゥ)の五人の息子の[人、穂千田ほせんた比古として記されたオモタルヒコは、インドの叙事詩『ラーマヤナ』の中で、バーラタ国王ダシャラタ(ミタンニ王ドゥスラッタ)の五人の息子と王位を争った魔王ラーヴァナとして描かれている。が、これは、のちにインドの歴史を改作したアーリヤ人の虚構であり、オモタルヒコ(ドゥリヨーダナ)は、エジプトからインドに都を移したテーベ王朝最後のファラオ、アイ(高皇産霊神)の孫として、また、国狭槌の妻の白清竜プリター)と国常立(ドリタラーシュトラ)との問に生まれた悲劇の子として、ハスティナープラ(ホセンタ)の都に君臨した。『新撰姓氏録』にその名も天日鷲翔矢命として登場するオモタルヒコは、ギリシャの詩人ホメロスが残した二つの大叙事詩、『イーリアス』と『オデュッセイア』の中でも、輝きわたる太陽のごとき英雄、卜ロイのアレクサンドロスとして物語られている。

[岐山きざん文字]

中国西安郊外、岐山県の十六羅漢碑に刻まれた図のような文字群。これらの文字を研究した地球文化研究所では、この碑文に使われた文字が古代サハラ砂漠で使用されたティフィナグ文字であることをつきとめて、次のように解読している。栄え賜はらなむヘブルの瑠璃富むカムイに祈りを捧げなむ右の解読結果によると、中国でもBC七〇〇年頃サハラで使われた文字が残されていることがわかる。と同時に、この碑文は古代地中海世界で活躍したヘブル人(カラ族)が東方の地、中国大陸にも足跡を残したことを物語っている。

[キンバレー文字]オーストラリア北部のキンバレー山脈一帯で発見された文字。これらの文字は日本に伝わるアイヌ文字、トヨクニ文字とのかかわりを示している。その一例は、同山脈の岩壁に描かれていたもので、地球文化研究所によると日本のアイヌ文字で、アルジイサク(主イサク)と読むことができる。この洞窟画に描かれた人物は丸い頭をしており、BC七〇〇年頃、サハラ砂漠の各地に描かれたエチオピア王朝時代の円頭人のモチーフと共通する。左図は、キンバレー山脈を流れるプリンス・リージエント川の谷問の洞窟に描かれた壁画である。左端の人物はアンテナ付きの宇宙ヘルメットをかぶっているように見え、その他の三人も何か現代的な宇宙服を身にまとっているように見える。これらの人物像の上に描かれた五文字は、これまた目本の古代文字で、カムラツク(神ら着く)と読める。すなわち、「神々が到着した」という意味である。この絵から判断すると、彼らは左端に描かれた飛行物体から降り立つ神々を出迎えたかのように見える。それは『契丹古伝』の中に描かれた古代カラ族の王、スサダミコ(ヨセフ)の飛行物体であったかもしれない。

コーカサスの地下都市を探検したアルゴ号の勇士が残したとみられるマイコツプ碑文

 日本の古代文字で記されたタルタリア遺跡出土の粘土板

クニトコタチ

竹内文献に登場する上古第十四代天皇。紀元前八○○年頃在位。目本の『ユーカラ」に国造りの神コタンカラカムイとして描かれ、インドの『マハーバーラタ」にクル族の大王として描かれたバーラタ国王ドリタラーシュトラと同一人物。ギリシャではテュエステースの名で知られている。宮下文献は、この国常立(農立比古)に国狭槌(農佐比古)という弟がいて、二人は故郷を離れたあと東方に新天地を開拓したと伝えている。が、この伝承はテーベ王朝の末期にドリタラーシュトラが弟のパーンドゥとともにエジプトからインドヘ移住し、戦争で荒廃したテーベから父王のアイ(クレオーン/周の厲王胡/高皇産霊神)を迎えたことを物語っている。また、宮下文献では二人の兄弟が仲良く国造りをしたことになっているが、日本とインドの叙事詩は、この大王の時代にクル族が分裂してアトランティス(アッシリヤ/アーリヤ)とムー(エジプト/カーリア)の恐るべき戦争が始まり、地軸が何度も傾く異変が発生したと伝えている。竹内文献によれば、クニトコタチはこの時代に位山くらいやまと槍ケ岳に大宮を造り、その後、天上の星に飛び去ったといわれる。クニトコタチは、大本教の関係者の間で艮うしとら (東北)の金神として崇められ、再び世界を治める天皇として甦ることが予言されている。

クニトコタチの父王アイ

[クレタ象形文字]

ギリシャのクレタ島にあるファエストス宮殿跡から出土した粘土板の文字。地球文化研究所では、図の円板の文字を、次のよう解読している.主あるじうしはくエホバの民主あるじヨセフうしはく民発たつはセト神かしこむ父の民エロハ民----〔略〕越すは神民……〔略〕タルハカうしはく民------上の解読結果によれば、古代のクレタ島にいた日本人の祖先は、前六八七年の里ハ変前に、ヨセフ(スサダミコ)に率いられて島を脱出したことがわかる。

クレタ島出土のファエストス円盤

[クレタ線文字A]

紀元前八世紀に日本人の祖先、カラ族(力ーリア人)の航海者がクレタ島にいたことを示す文字。地球文化研究所では、ハギア・トリアダ宮殿跡から出土した図の粘土板の文字を次のように解読した桶か盥三十風呂三蓋も三 櫂九 酒十三櫓の柱連縄一〇亜麻布十三 盥四五 船五戸板といたも四擢六 酒十四〔当時の注文書の一部〕

線文字Aを刻んだクレタ島出土の粘土板

タカミムスビ

竹内文献に登場する上古第一O代天皇。東日流外三郡誌に見えるアソベ王朝第二代のタミアレ(多弥生)と同一人物。中国では、夏王朝第二代の夏后啓として知られ、メソポタミアでは、ウトナピシュティム(禺/ウソリ/天御中主)の息子ギルガメシュとして知られている。宮下文献のタカミムスビ(エジプト王アイ)とは別人物。竹内文献は、この天皇の時代に次のようなことがあったと伝えている。・天皇は北アルプスに巨大な地下都市(大宮仙洞)を造り、不老長寿の薬を飲んで長生きした。・また、ミヨイ島やタミアラ島(太平洋の古大陸)を視察したあと、檀君国(ウラル山脈一帯)を訪問し、諸王を任命した。シュメール伝説の英雄ギルガメシュはクラブに都を定めたが、その都は富山市郊外の呉羽にもあったといわれる。

アッシリヤのコルサバード宮殿から出土した太古日本の王ギルガメシュ像

竹内文献茨城県北茨城市磯原にある皇祖皇太神宮の神官、竹内家に代々伝わる古文書。今から約二OOO年前、大陸文化の侵入によって古代日本の歴史が失われるの睦恐れた武烈天皇武内宿すく彌の孫にあたる平群真鳥を富山の皇祖皇太神宮に派遣し、そこに伝わる神代文字の記録を漢字仮名混じり文に改めて残したものが原型になったといわれる。この書物には、太古日本の天皇が宇宙の彼方の天日国より飛来して地球全土を治めたことや、この地球がたび重なる天変地異によって荒廃したこと、それにもかかわらず日本人の祖先が天の浮船に乗って天界と地上を往来し、異変で滅びた文明の再建に全力をつくしたことが物語られている。これまでの研究者は、竹内文献のスケールがあまりにも壮大であるため、酒井勝軍のピラミッド調査をのぞけば、見るべき成果を挙げていない。がこの書物に収められた一00種以上の神代文字を、高橋が遺物に即して具体的に調査した結果、竹内文献に記された内容は基本的に真実の歴史を扱っているという。このことは『山海経』や『史記』その他の文献、あるいは言語学、考古学、民族学、神話学、遺伝子分析などの最新成果によっても裏づけられる。古史古伝の中で最も異端の書とみられている竹内文献がこれから日本と世界の歴史を大きく書き変える日もそう遠くはないとみられる。

テーべ王朝

紀元前十一世紀から前九世紀にかけて、ナイル河中流域のテーべを首都として栄えたエジプトの世界王朝。地球文化研究所の調査によれば、日本の『宮下文献』に登場するアメノトコタチ(天常立)以下の十一代の天皇は、エジプト・テーべ王朝(第一八王朝)の十一代のファラオとして、現実の歴史の中で実在したことが判明している(次頁の王名対応表を参照)。 <!--[if !vml]--><!--[endif]-->卜トメス3世ハトシェプスト女王第一代天常立比古神アメンホテップ一世別名ジムヌ神農比古神第二代天之御柱立神卜トメス一世第三代天之木合比女神パトシェプスト女王第四代天之草奈男神トトメス三世第五代天之土奈男神アメンホテップ二世第六代天之火明男神卜トメス四世第七代天之水男神アメンホテップ三世(ニンムリァ)第八代-天之金山男神アメンホテップ四世(イクエンアテン)別名ナフリア農谷比古神第九代天之火山男神スメンカラー第十代天之田原男神トゥトアンクアメン(ツタンカーメン)第十一代高皇産霊神アイ(クレオーン)

[トヨクモノネ]

竹内文献に登場する上古第十五代天皇。紀元前七七五年頃在位。日本の「ユーカラ』にコタンカラカムイの子ポニウネカムイとして描かれ、「マパーバーラタ』に大王ドリタラーシュトラの太子として描かれたヴイカルナ(宮下文献の阿和路比古)と同一人物。この天皇はチベットのカイラス山にある仙洞(シャンバラ)と呼ばれた地下都市に住み、銀河系最大の宇宙船プシュパカ・ヴィマナをもっていた。のちにインドの財宝神クベーラ、クンビールとして知られ、目本でも金比羅様として祀られるようになったトヨクモノネは、シバ神のモデルとなったオモタルヒコの異母兄であり、チペットではシャンバラの王サナート・クマラの名で、日本では鞍馬山の魔王尊の名で今も崇められている。竹内文献は、二の天皇の時代に、富山の呉羽丘陵に五福城と呼ばれる大宮が造られ、トヨノ文字(別称イヅモ文字)が使われるようになったと伝えている。

[ペドラ・ピンタダ文字]

ブラジル北部の巨大な宇宙卵遺跡として知られるペドラ・ピンタダの岩壁に刻まれた図1のような文字。地球文化研究所ではこれらを、次のように解読している。ヨセフとイサクに船を降せる神を見よイサクヨセフとともに手厚く守れ図の下部に描かれた卍形の奇妙な図形は、古代カラ文明の飛行艇として知られるヴィマナの推進力、構造を表したものとみなすことができる。しかも、文中にヨセフおよびイサクという名前が登場するところから、イサクの別名、古代イスラエル最後の王ホセアの時代(BC八世紀末)にこのペドラ・ピンタダ碑文が残されたものと考えることができる。ペドラ・ピンタダ遺跡に刻まれた別の碑文(図2)はまた、次のような解読結果が得られている。ステルニの父なるカムイを祭らむナイムラブの母から力を給はらむ右の解読結果にもとづけば、図2のペドラ・ピンタダ碑文の年代は、BC二〇〇年ころとみなされる。

ペドラ・ピンタダの宇宙卵巨石  図1図2

 

私たちはただ眠るためにわずかに夢を見るために来たのだろうか

いや、ちがう、そんなはずはない

私たちが地上でただ空しく生きてゆくために来たなんて!

けれども私の心に何ができよう

空しく地上で生きてゆくために私たちが来たのだとしたら……

どこにあるのか、私のほんとうの故郷は…:

アステカ・インディアンの歌

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