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道(真理)の実践


釈迦略伝~(五)成道 ・(六)説法

2017-07-16 00:34:47 | 観音・釈迦・達磨・因果経

道と人との関係

成道・悟り・超生了死・解脱・・・この神聖で崇高な境涯は天の機密です。苦行六年下山してからさらに六年の歳月をかけて求道を赦されたその醍醐味を凡情で理解できるものではありません。ある人には見えることが隣にいる人でも見えない異次元体験がありますが、高次元と3次元の天機伝承の幽玄な機微は経典にも比喩で記されています。達磨大師も四諦句で「不立文字(文字をたて《表わさ》ない)・教外別伝(教えの外に別に伝える)・直指人心(直接人の心を指す)・見性成仏(性《霊》を見て仏と成る)」と禅宗の極地として経典に記していますが、機密ゆえに今では様々に解釈され本質から離れています。

本釈迦略伝で「天上の明星を観見せられ、豁然と大徹大悟なさり、成道せられました。」とありますが クライマックスで釈迦に道を伝えたのは燃燈仏(ねんとうぶつ)という高次元の存在です。

※燃灯仏:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%87%83%E7%87%88%E4%BB%8F

お釈迦様が求めた道は、宇宙の真理と霊の救済、人の行うべき教えとを含み、造物主が宇宙を創られて以来存在し、偉大なる人々によって脈々と今に至るまで伝えられている、造物主とつながる方法です。宗教は罪を軽減できても罪を消滅することはできず、精神の安定は得られても過去の歴世の罪業を除去することは許されません。道の心法を得れば,容易にその制限を解く(解脱)ことができます。宗教の開祖は、徳の高い修業の深い聖者・高僧で道を得た方々でした。釈迦も老子も孔子もイエスもそれぞれが、元は広く真理を探し求める求道者だったのです。真の宗教は皆「一」という理に基づく同義・同源の教えでした。

仏    教 : 明心見性 ・ 万法帰一 ・ 方寸宝地 ・ 得一成仏 ・ 慈悲

道    教 : 修心煉性 ・ 抱元守一 ・ 谷神不死 ・ 得一成仙 ・ 感応

儒    教 : 存心養性 ・ 執中貫一 ・ 止於至善 ・ 得一成聖 ・ 忠恕

回      教  : 堅心定性 ・ 清真返一 ・ 当停留十 ・ 得一成真 ・ 清真

キリスト教 : 洗心移性 ・ 黙祷親一 ・ 真十字架 ・ 得一成神 ・ 博愛

「一」とは、宇宙の真理であり根本であり、すなわち真理です。あらゆるもの全ては「一」からはじまり、「一」から離れると成り立ちません。人間は「一」すなわち「道」を得てふる里に還ることができます。

人類一人一人は求道者であり「一」すなわち「真理」すなわち「道」を得る機会が与えられています。人類は今まさに太子(釈迦)と同じ立場におかれています。

  大英博物館所蔵 釈迦肖像

釈迦略伝

(五)成道

太子が正覚山の森林の中で苦行された六年の間、わずかに日に一麦一麻(いちばくいちま)の食をいただきました。そのため体はやつれはて、ちょうど枯れ木同様になりました。そこで太子は自分で“道は慧解によって成し、慧解は根によって成り、根は飲食によって補うものである”と悟りました。“断食もまた道を得る原因になるものではないから、私は食をいただきながら成道しようと決心し、坐から立たれ、尼連禅河へ行って体を清めようとしました。

然し、この六年間の断食のため、身は骨と骨を包んだ皮膚だけが残り、立とうと思っても立ち上がれませんでした。ちょうどこの時、森林の傍らより牛を放牧する名を難陀波羅(なんだはら)と申す一人の少女が参りました。そうして太子に向かって一礼を挙げ、牛乳のお粥を一杯捧げました。

太子はその牛乳のお粥を召し上がって漸く体力の回復を得ました。太子のお伴をして随っていた憍陳如等五人の比兵(びく)が牛乳のお粥を飲まれる太子を見ました。そこで、太子が下山しようとする情勢だと驚き怪しまれ、“太子の道心は後退した故に、我等は既に太子のお伴をする必要はないと考え、太子と別れて西方の波羅奈斯(はらなし)地方へ行ってしまいました。

残された太子は一人で山を下り、歩きまた歩いて仏陀迦耶(ぶったがや)地方に着きました。そうして畢波羅樹(ひつはらじゅ)の下で大決心をされ「我今もし無上の大菩提を生ぜずんば、むしろこの身は砕けども、終にこの座を起きたざるべし」と誓願しました。ちょうどこの時、一人の童子が一束の青草を抱えて来て太子に捧げましたので、静坐に好都合でした。

そこで、太子はこれより自修せられ、静坐冥思(せいざめいし)をされましたが、この静観中、無数の環境を経過しました。三十五歳になられる年の十二月八日真夜中に天上の明星を観見せられ、豁然と大徹大悟なさり、成道せられました。(前に、一人の童子が一束の青草を抱えて来て、太子の静坐のため捧げたと話しましたが、この草を吉祥草と称し、童子を吉祥童子と申し、またこの成道せられた道場を吉祥道場と称します。) 

(六)説法 

太子は成道なされた後、まず弥桜山の阿修羅迦藍及び欝陀羅摩の二人の仙人を渡そうとされました。そうして弥娘山に来られて、初めて二人の仙人は既にずっと以前に亡くなられたことを聞きました。

そこで、道をかえて波羅奈斯国(はらなしこく)の鹿野園(ろくやおん)に行かれ憍陳如等五人の比丘のため四聖諦の法を説き、五人の比丘を度されました。

御仏様は鹿野山に住まれること僅か三ヶ月にして五十六人のお弟子を得たのであります。そこで、御仏様が入山なさる前に頻姿沙羅王と嘗て「最初にまず我を度し給え」との口約があったために、それから道を変えて王舎城へ行かれました。

成道なされた後、第二・第三年目には、御仏様は王舎城において法を説かれたため、全城内の人民は、皆姿羅門教を離れ、仏門に帰依してしまいました。

成道なされた後、第四年目には、御仏様は吠舎離国(べしゃりこく)の大林精舎に遷られて仏法を説かれました。

成道なされた後、第五年目には御仏様は大林精舎におられ、戒律を説かれましたが、諸弟子を率いて、大林精舎から霊鷲山(りゅうじゅせん)に遷られ,そこにおられました。この年、父君浄飯王が病気で危篤の消息を聞き、迦比羅国に父王の病気見舞いに帰られました。そうして父王のために仏法を説かれました。父王が亡くなられた後、儀法により葬儀を営まれました。

成道なさってから第七年後に、御仏様は憍薩羅国(ぎょさらこく)の首都舎衛城におられ、教化をなされました。この年、波斯匿王(はしどくおう)は、多くの太子が亡くなられたので、祇園精舎を建てられました。

成道なさってから第九年後に御仏様は摩伐羅補羅(まけいしばらほら)及び波羅奈斯・吠舎離等の各都邑(みやこ)をお廻りになられ、教化の説法をなされたのであります。

成道なされた後、第十三・第十四年目には、御仏様は憍薩羅国におられ各都邑を巡廻して教化なさりました。

成道なされて第十五年後に、御仏様は迦比羅国に帰られて、仏法を説かれ、又印度の各都邑を巡廻なさって衆生の教化をなさいました。

成道なされて後、第十七年目には御仏様は竹林精舎におられ、仏法を説かれました。

成道なされた後、第十八年目には御仏様は舎衛城におられて説法なされました。

成道なされて後、第十九年目には御仏様は竹林精舎におられ、摩伽陀国に来られて、各村々を教化なさりました。

成道なされた後、第二十年目には祇園精舎におられて、仏法を説かれました。

成道なされた後、第二十一年目には、御仏様は諸弟子の中より阿難尊者を選び出し、左右に随待せしめ、諸弟子に説法をなさりました。

阿難尊者はこれより後、二十五年間、博く仏法を拝聴して暗記なさることに終始一貫しました。今日、衆生が仏法を聞き得ることができるのは、多く阿難尊者の念持の功によるものであります。

成道なされた後、第二十二年目より第三十六年に至るまで、各地方のお招きに応じて、大林精舎、祇園精舎及び霊鷲山の三道場を往来しながら仏法を説かれました。

成道なされた後、第三十六年目より、御仏様は霊鷲山に於いて法華経を説かれましたが、会せて八年間、第四十四年目に至ってはじめて説き終わりました。

成道なされた後、第四十五年目に御仏様は拘尸那城附近の醢蘭若(けいらんにゃ)河地方の娑羅樹の下で入滅(涅槃)なされました。(涅槃)時、西暦紀元前九百五十二年2月十五日午後六時でありました。

お釈迦様のご降誕以来、出家・苦行・成道・説法・円寂に至るまで、合わせて八十歳になられます。即ち涅槃は中国の周穆王(しゅうばくおう)五十二年2月十五日に当たります。

 

優曇華の花

仏教経典では、3000年に一度花が咲くといい、その時に金輪王が現世に出現するという。『金光明経』讃仏品に「希有、希有、仏出於世、如優曇華時一現耳」とある。また『法華経』、『南史』にも出る。

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