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道(真理)の実践


世界最後の謎を解き明かす(ムー大陸探検事典) ~第5章 ムー文明の継承者・東大国と日本 : 高橋良典の仮説 Ⅱ

2017-07-16 21:44:46 | 超古代・アトランティス・ムー・縄文・先住民・諏訪・御柱・カゴメ

第5章

ムー文明の継承者・東大国と日本

高橋良典の仮説II

 キンバレー山脈の岩壁に描かれた古代日本の帝王ラ・ムー  

ナスカ平原に描かれた地上絵 

チャーチワードは語るー「今から一万二〇〇〇年以前に栄えたムー大陸の住民カラ族は、イースター島からアメリカに植民してカラ帝国をつくると同時に、インド方面にも植民してナーガ帝国、ウイグル帝国などをつくった」と。彼の説く「ムー文明」がかつて宇宙規模の広がりをもつ「空艇文明」であったことは、のちに概説するとおりだへ第8章参照)。が、はたして、チャーチワードの仮説に登場するカラ族が世界各地にムー文明の都市をつくったというのは、考古学その他の学問から明らかにできる確かな事実なのだろうか。この点に関し、地球文化研究所の高橋は、ムー文明時代のカラ族が世界各地に雄飛していた当時の証拠を求めて、過去二〇年余り調査を進めていくうちに、以下に述べる貴重な手がかりをつかんだ。つまり、われわれは今のところム!王国の実在を直接的には証明できないが、『契丹古伝』という稀有の書物に記された東大国と、そこに登場するカラ族の存在を明らかにすることによって、間接的にムー王国の実在を証明できるのではないか、という見通しを得たのだ。

 「いさかひを避け、とこしへに温れむいのちを重ねしめよ」と記されたエクアドル地下都市出土の黄金の胸飾り

証拠1

大いなる『契丹古伝』

今から一〇〇〇年ほど前(九四二年)に遼の史官を務めた耶律羽之の手に成る王家の書『契丹古伝』は、.やまとふみししとさつかみすち『耶摩駝記』『氏質都札』『汗美須鍾』さいせいしようしよひ『西征頚疏』『秘府録』『神統志』『費みこくししんいんたいき彌国氏洲鑑』『辰殷大記』『洲鮮記』の九つの史料をテキストとして編纂されている。そこには、今日のわれわれが三〇〇〇年の時の流れの中で転変と流移の果てに忘れ去ってしまった、はるか昔の日本人の祖先の歴史が脈々と息づいている。『契丹古伝』の目的は、建国まもない遼(契丹)の王家がみずからの歴史的背景と正統性を明らかにしながら、漢民族の中原支配に抵抗する周辺諸民族の団結をリードし、鼓舞するところにあった。が、同書は結果的に、われわれ日本人が今となっては入手できなくなった、『耶摩胎記』をはじめとする八世紀以前の古代史料を駆使することによって、記紀や他の古史古伝から洩れてしまった渤海滅亡以前の高句麗・日本の太古史を明らかにしている.、同書がわれわれに垣間見せてくれる太古日本の歴史は、その内容があまりにも通説とかけ離れているため、これまで欧米や中国の学者が流布してきた世界史の常識に従えば、全くの空想としか見えない。が、『契丹古伝』によれば、われわれ日本人と契丹人の共通の祖先である東大神族の歴史は、過去三〇〇〇年にわたってエジプト、シュメ;ル、インダス、黄河の地を次々に侵略してきたアトランティス人、つまり中あや国で漢人として知られる欧米の支配階級アッシリヤ人~アーリヤ人の手で抹殺され、改ざんされてきたという。つまり、われわれがこれまで教わってきた紀元前の日本と世界の歴史はすべて虚構であり、われわれの祖先の真実の歴史、カラ族(タル族)と呼ばれてきた東大神族がかつて地球のすみずみに築き上げてきた輝かしいムー文明の歴史は、アトランティス人(漢人~アーリヤ人~アッシリヤ人)の手で巧妙に流布されてきた歴史の通説にひそむ大ウソを暴かなければ明らかにできない、ということを同書は訴えているのである。はたして、『契丹古伝』に書かれていることは、全面的に信頼してよいものか。そこに記された東大国は本当に紀元前七世紀ころ、地球の大部分を治めた国だったのか。

 "幻の""東大国""首都分布図"

 東大国の主要都市リスト

中原の首都

鹿児島県川内平野の入来(いりき〉

東原の首都

アラスカ南部の州都ジュノー

南原の首都

ニュージーランド北島のマヌカウ

西原の首都

アフリカ南部のジンバブエ

北原の首都

カザフ共和国のケンピルサイ

神京

パキスタンのペシャワル

秦率母理京

オーストラリアのジランバンジ

離京

イースター島のホツイチ

海京

エクアドル海岸部のエスメラルダス

斉京

ケニヤのヒラッタスヒル

仲京

韓国迎日湾地区の高壇耶(かこや)

    サハラ砂漠に描かれた太古日アフリカに侵入したアトランティス(アッシリヤ)の同盟軍と戦うムー(カーリァ)の戦士たちサハラ砂漠の伝説の都イジュンハンの位置を示す地図

また、当時の東大国王スサダミコが歴史的に実在したとすれば、その証拠は、世界各地にどのような形で残っているのか。今、われわれが明らかにしなければならない疑問はあまりにも多く、一朝一夕には解決できそうもない。けれども、高橋は、彼自身の専門分野である古代文字の研究を通じて、今では『契丹古伝』に書かれていることが、ほぽ全面的に正しいのではないか、という見通しをもつようになった。『契丹古伝』に記された東大国の伝説の都をいくつか現地調査していくうちに、彼は、日本神話の高天原が東大国の中原地方(日本からインドに到る地域)に実在したことや、アンデス・ヒマラヤの奥地にムー文明の痕跡が残されていることを突きとめた。そればかりではない。以下に記すごとく、『契丹古伝』に書かれたとおりの「歴史の抹殺」が、奈良時代以前の日本で実際に行なわれた証拠をつかんだのである。

ムー(カーリア)との戦いを示すヒッタイトの壁画

抹殺された神代の記憶

一九九三年に遷宮せんぐうの大祭を二十年ぶりに迎えた伊勢神宮。その伊勢神宮の境内にある神宮文庫に古くから収められた史料は、奇妙なことに、漢字でも仮名でもない不思議な文字で書かれている。この由緒ある神社に源義経や平将門が残した歌、菅原道真や稗田阿礼が奉納した詩歌に、現在のわれわれが知らない文字が使われているのはなぜか。これまでわれわれが学校で教わってきた歴史によれば、古代の日本に漢字以外の文字はなく、漢字以前の文字もなかったことになっている。ところが、実際に古墳から出土しかめかんた鏡や、甕棺に副葬された弥生時代の遺物、各地の博物館に収納された縄文土器を丹念に調べてみると、それらの表面には、伊勢神宮の奉納文に使われているものと同じ文字が刻まれている。

新しい読み方:ヒツキヲアタヘム   従来の読み方:日之光天下大明見

鏡(模写)と解読結果(東京国立博物館蔵)この章で紹介したいくつかの例を見てもわかるとおり、漢字伝来以前にそれらの文字が使われたことは確かである。にもかかわらず、奈良時代に成立した『古事記』や『日本書紀』に漢字しか使われていないのはなぜか。

今日の学界では、江戸時代に本居から宣長が「上古文字なし」「漢ごころを廃せ」と主張して以来のしきたりに従って、古代の日本には文字がなかったことが通説とされている。が、事実に即していえば、古代の日本には縄文時代から文字があったし、漢字以外に旧字と新字の区別があったことは文献にもはっきり記されている(書紀・天武十一年の記載ほか参照)。宣長は『日本書紀』を軽視するあくだりまり、同書の天智六年の条に記された「築紫都督府」の設置とそれに伴う「漢字使用令」が、カラ心を廃してアヤ心(漢人あやひとのいつわり)を育てたことを見過ごしてしまった。再び事実に即していえば、古代の日本から神代の文字とカラ心が消されてしまったのは、六六三年の臼村江の戦いで、カラ族(日本)がアヤ人(中国)に決定的な敗北を喫したからである。つまり、われわれがカラ族固有の文字で記録された太古日本の輝かしい歴史をことごとく見失ってしまったのは、臼村江の大戦後、九州の大"宰府に進駐して日本占領軍司令部"""築紫都督府を設置したアヤ人ら(唐の軍人官僚二千余人/書紀・天智八年の記事参照〉の陰謀により、それまで使われてきた神代文字の使用を禁止され、漢字の使用を強制されたことが最大の原因なのだ。「築紫都督府」が唐の占領軍司令部を意味していることは、この時期にくだらこま日本とともに唐と戦った百済と高麗のそれぞれの都が、唐に敗れたのち、「熊津都督府」「平壌都督府」という、同じ「都督府」の名称で唐軍の占領管理下に置かれた例を見れば明らかに太古の秘密を記した宮下文献である。

この時代に、われわれはそれまで使ってきた固有の文字を公式の書物に用いることをやめ、神代文字で書かれた古史古伝を、『古事記』『日本書紀』のような漢字表記の書物に書き改めた。その結果、白村江の敗戦以前にわれわれの祖先が世界各地に雄飛していた記憶は、地名・人名の漢字化とともに次第に失われ、日本の有力氏族がかつてインド、ヒマラヤ山脈の麓にも高天原の都を定めて、アジアからアフリカ、アメリカ大陸に到る九州全土を治めていた時代の輝かしい歴史も徐々に失われてしまった。『契丹古伝』は、紀元前の日本人が、東大神族と呼ばれたカラ族(クル族)の一員として、紀元前のインドでもテイルムン(太古の目本)の高度な建築技術のあとを示すモヘンジヨダロ遺跡活躍していたことを伝えているが、当時の記憶は、九世紀の初めに万多親王らが編纂した『新撰姓氏録』という有力氏族の家系由来記に化石的な形でかすかに痕跡をとどめるのみである。

 

よみがえる高天原の神々

だが、この『新撰姓氏録』に残されたわずかな情報だけでも、われわれの祖先の失われた歴史を復元する上で、はかり知れない意味をもっている。例えば、そこには、京都の祇園祭りで有名な八坂神社の一族が、朝鮮半島から日本列島に移り住むはるか以前に中国大陸の久留(呉仔長江流域)にいたこと、その前はタイの川麻乃(チェンマイ)にいたこと、そしてさらにその前はインド東部の意利佐(オリッサ)にいたことが記されている。九世紀末に遣唐使を廃止して国風文化の復興につとめた菅原道真のルーツを『新撰姓氏録』に基づいて調べてみると、これまで実在したか確力めようのなかった日本神話の高天原の所在や、そこで活躍した日本の神々の実体がはっきりしてくる。

この書物から、われわれは、菅原一族の祖先の天神たち、初代の穂日(ホピ)や息子の夷鳥(イドリ)、末孫の鵜濡淳(ウジュヌ)らがインドのデカン高原を流れるゴダバリ河とナルマダ河の流域に住んでいたことを知るだけでなく鵜濡淳がウジャイン(ナルマダ河の北)の町に、夷鳥がインドーレ(ウジャインの東方)の町に、また穂日がボーパール(インドールの東)の町に拠点を定めて、これらの都市を建設したことが読みとれるのである(高橋良典著『謎の新撰姓氏録』徳間書店刊を参照)。そして、これから述べることが最も重要なポイントであるが、実際にわれわれ探検協会のメンバーがインドのデカン高原へ調査に行ってみると……。驚くなかれ、穂日の町や鵜濡淳の町はここにちがいない、と単に文献から仮説を立てたにすぎないボーパールやウジャインの古い寺院の壁や古城の敷石のいたるところで、われわれは、日本の神代文字で書かれた古代日本語の銘文を発見することができたのである(第6章参照)。このことは何を意味するかといえば、それは、菅原氏に代表される日本の有力氏族が、かつてインドのデカン高原サハラ砂漠の洞窟に描かれたムー(太古日本)の女王ガーナカン高原にいたことを示している。

そればかりではない。われわれがデカン高原の中心部にある有名なアジャンタ石窟寺院の最古の柱から写しとった刻文を、あとで高橋が解読してみるとそこには、伊勢神宮の古代文字で「クダハラマロ」(管原麻呂Vと読める寄進者の名が刻まれていたのだ。クダハラマロのタダハラ(管原)は、『姓氏録』によれば、菅原氏の元の氏族名である。そのクダハラ氏の男子の名がアジャンタにあるということは、いまや疑いようもなく、菅原氏の祖先がインドのデカン高原でも活躍していたことを証明している。

アジャンタの石窟に描かれた壁画そして、紀元前三世紀まで湖るアジャンタ石窟の創建者が菅原道真の遠い祖先であったといえるなら、天神の穂日や夷鳥たちが活躍したという日本神話の高天原は、まちがいなく、インドのデカン高原に実在したといえるのだ。一九九〇年に高橋が、『新撰姓氏録』という歴史学会公認の文献から"導き出したデカン高原""高天原仮説"は、今やわれわれだけでなく、インドのデカン高原へ行った人なら誰でも、現地と日本に共通する神代文字碑文を目にすることによって、決定的な形で確かめられる。しかも、彼の仮説は、インド人と日本人の言葉や遺伝子を調べた専門家の研究によっても、また、インドと日本の古い伝説や祭りの伝統、考古学上の遺物を比較した研究者の報告によっても、二重、三重に重なる結論として確実に裏づけられる。今なお戦いはやまずこのように見てくると、われわれの祖先がかつて中原(インドから日本に到る地域)に都を定めて世界全体を治めたという『契丹古伝』の言い伝えは、現在のわれわれにとって確かに信じがたいものではあるが、太古日本の忘れ去られた歴史の真相をかなり正確に伝えていることがわかる。

イオンと格闘する太古日本の王ギルガメシュる。

日本ではこれまで、江戸時代に神代文字の存在を明らかにした平田篤胤の功績が学問的に根づかなかったため、過去二〇〇年問、欧米の考古学と言語学の発展に貢献し、オリエント世界の古代史を解明する上で決定的に重要な役割を果たしてきた碑文学の伝統がなかった。けれども、今やわれわれは、過去二〇年にわたる高橋の調査によってその正しさが明らかになってきた古代カラ族の神代文字を有力な武器として、世界各地に築かれたカラ文明の諸都市を探りあて、『契丹古伝』に記された東大国の位置や、高天使鶏という空艇に乗って世界を駆けめぐったわれわれの祖先の足跡を発見できるようになった(第7章参照)。『契丹古伝』に登場する東大国の実態を解明する作業は、ここ数年前に始まったばかりである。そのため編者の耶律羽之が採録した九つのテキストの史料価値も、今のところ定まっていない。また、『契丹古伝』に記された原日本人のカラ族と、チャーチワードが紹介したムー文明の建設者ーカラ族との関係も十分に明らかになってはいない。しかし、高橋の見通しでは、二つのカラ族は時代を異にする同じ日本人の祖先であり、『契丹古伝』のカラ族が建設した東大国は、紀元前六八七年(C14年代で一万二〇〇〇年前)の大異変で滅亡したムf文明の継承国家ではなかったかという。世間では、チャーチワードの唱えたムi文明とプラトンが紹介したアトランテイス文明が、ともに今から一万二〇〇〇年前に滅び去ったと伝えているが、『契丹古伝』というたぐい稀な文献とデカン高原に残されたカラ族碑文に基づけば、ムー(カラ)とアトランティス(アッシリヤ/アーリヤ/アヤ)の戦いが異変によって中断されたのは、前八世紀から前七世紀にかけてのわずかな期間であった。

アトランティス(ギリシア)との戦いを見守るトロイ(ムー)の英雄パリスムーとアトランティスの戦いは、われわれの見方によれば今なお続いておりこの戦いは、日本人が『契丹古伝』に記された太古の歴史を解明し、アヤ人によって長いあいだ教えられ続けてきた虚構の世界史を書き改めない限り終わることはない、というのがわれわれの偽らざる思いである。

[アヒルクサ文字]

アヒルクサ文字は、伊勢神宮・出雲大社などの由緒ある神社や旧家に古くから伝わる神吠岐諄のひとつ。九州の阿比留家に伝わる阿比留文字の草書体と考えられたことから、江戸時代の国学者として有名な平田篤胤らによってアヒル草文字と命名された。が、本来はアヒル文字と別個に発生した紀元前の文字で、最近は股いん代甲骨文字の草書体ではないかと考えられている。アヒルクサ文字に代表される日本の古代文字は、伝世資料によって百数十種類あったことが知られているが、古墳・甕棺から出土した鏡や刀剣、縄文時代の土器・土面、石造物の表面に刻字が確認されているのは、今のところアヒルクサ文字以外ではイヅモ文字、トヨクニ文字、北海道異体文字などの数種に限られており、今後の研究が待たれている。

伊勢神宮神宮文庫に収められたアヒルクサ文字とイヅモ文字の奉納文

汗美須鍾かみすち

『契丹古伝』に引用された史料。汗美須錘(神統)には次のような内容が記されている。神祖ヨセフは、ヒンズークシュ山脈の南のふもとにあるアソタの地に都を定め、その都をペシャーワルと名づけた。ペシャーワルは神の都である。ヨセフはシャー・ジ・キのシャーンキヤー王に命じてこの都を治めさせた。彼はまたシラヒゲアケ(白髭王)に命じて朝鮮半島の迎日湾地羅らしめ、この地を高壇邑と名づけた。高壇の地は太陽つき観測の中心地(都祁)であった。高壇邑は南アフリカのアスハムとエクアドルのエスメ一フルダスを結ぶ大円軌道の中点に位置するため、仲京と呼ばれた。ヨセフはエクアドルのコカムイトパクシ神に命じてエスメラルダスに居らしめ、その地をグアヤスと名づけた。グアヤスの港グアヤキルは太平洋航路の重要拠点だったので、海京と呼ばれた。彼はまた南アフリカのアカムイスハム神に命じてケニヤのムグルクに居らしめ、その地をヒラックス・ヒルと名づけた。ヒラックス・ヒルのあたりはアフリカに住むカラ族の宗教的聖地となり、キスームの都、斉京と呼ばれた。彼はキリコエアケ(聞得王)に命じてボゴングの地(オーストラリア)を治めさせ、その都をジランバンジと名づけた。ジランバンジは神祖ヨセフが最初に降臨したところモリなので、始祖降臨の都と呼ばれた。キリコエアケは、ジランバンジのほかにも、イースター島のハンガ・ヌイに宮殿を建てて住んだ。ハンガ・ヌイの地はホツイチと呼ばれ、ラノニフラク火山のふもとにあって神都ペシャーワルから最も離れた地球の裏側の地にあたるため、離京と称された。キリコエアケは生まれたときから頭に刃のような角をそなえ、常人とはちがっていた。彼は人問に害をなす悪霊や邪鬼を退治するのが何よりも好きだった。死者を甦らせたり、病気を封じたり、気の流れを変えたりする秘密の行法を二十四項目にわたって体系化したのは彼である。彼の教えは今でも有効であることが確かめられている。

イースター島遺跡分布図。ラノ・ララクの東に離京があった。

[契丹古伝]

遼の耶律羽之がまとめた契丹王家の歴史書。全文四六章から成り、次のように始まる。いま神とは何かを考えてみるに、古くからの言い伝えでは、神は光り輝くものとある。その光り輝くようすはたとえようもない。しいてこれを譬たとえれば、日の光に輝く鑑のようである。そこで鑑は太陽神をかたどったものとして日神体と書かれ、カガミと読まれる。その昔、天界を統治した太陽女神たる我らの目祖アメウシハクカルメ"(阿乃法翅報云亭霊明""天"統治日霊女)は、シベリア南部のエニセイ川中流域に広がるミヌシンスク盆地に宇宙船で着陸し、盆地の南部から東部にかけてつらなるサヤン山脈のふもと、カーメンヌイで日孫を産まれた。のちに東大国主となられた日孫ヨセフ皇子は、またの名をアバカンといい、スサダミコともいう。ミヌシンスク盆地の中心都市アバカンにその名をとどめる目孫に、目祖はみずから乳を与え、彼が大きくなると、コマカケと呼ばれる飛行艇を与えて、地上に降臨させた。これが我らの神祖ヨセフの誕生の由来である。ヨセフを神祖と仰ぐ我らカラ族は、世界の各地で活躍した。カラ族の勇者はイースター島のラノ・ララクの南東にあるホツイチの霊廟にまつられ、各地のカラ族の都はいずれもコマヤ(高麗国・高天原)と呼ばれ、国名をシウク、族名をシウカラ、国民をタカラと称し、国王をシウクシフとたたえた。シウクとは東大国とうだいこく、シウカラとは東大民族、シウクシフとは東大国主という意味である。神祖ヨセフの子どもや孫が世界の各地でカラ族の国を受け継いだのは、ヨセフの時代にカラ族が世界的な規模で活躍したからである。紀元前の我らの祖先の活躍を記した別の書物には、こう記されている。すなわち、トコヨミカド"(常夜帝""地下都市の王/"常世尊=不死の王)と呼ばれた東大国主ヨセフは、初めオーストラリアのジランバンジに降臨し、次いでミヌシンスク盆地を見おろすアファナシェヴァの山に降臨した。オーストラリアとシベリアの二か所にカラの二つの源があり、同じシウ氏を名乗る二つの宗族がいるのは、神祖ヨセフの右のような降臨にともなって、我らの祖先が現地にとどまったからである。紀元前七世紀にカラ族の一員となったティルムン(東冥ー日本~インド)の人々はヨセフの子孫ではなく、大洪水のあとティルムンの楽園に住んだウトナピ"シュティム(阿辰法須氏""""天御中主""禺)の子孫であ"る。アフリカのカラ族の王としてその名を世界中の人々に知られたエチオピア王タルハカ(寧義氏=ニンギルス=ニニギ)が"現れたのは、ウトナピシュティムの時代より八〇〇年ほどあとのことである。ウトナピシュティムやタルハカ、ヨセフの時代に我らの祖先が世界の各地で活躍したことを垣問見るにつけても惜しまれるのは、その後千数百年の問に我らカラ族のかつてのつながりが見失われ、祖先の貴重な記録が散逸さんいつしてしまったことである。そこで私は複雑にからみあった瓜うりのツルや綿糸のかたまりを解きほぐす思いでカラ族の失われた歴史を解き明かし、その昔、カラ族の祖先が今とは比べものにならないほど広大な土地で活躍した時代があったことを明らかにしたいと思う。

アッシリヤ(アトランティス〉の宮殿

西征頌疏さいせいしようしよ   

『契丹古伝』に引用された史料。西征頒疏には、紀元前七世紀の戦いのようすが断片的に次のように記されている。神祖ヨセフはいよいよ西に向かって反撃を開始するにあたり、ボルネオ島の西部にいたクチン王の軍隊を同島南西部のクタパン要塞に移し、デカン高原中部にいたサガール王の軍隊をインド半島最南端のアーディチャナッルール要塞に移動させ、南オーストラリア海岸の中部にいたユークラ王の軍隊をエーア湖の西にあるクーバーピジー要塞に派遣して攻撃の準備をさせた。そしてついにみずから大軍を率いて怒濤のごとくエリュトラ海を渡り、アフリカに侵入した敵軍を駆遂してサハラ砂漠の西にあるイジュンハンの丘に達し、夕ロホスとイン・タデイニの間にタデメッカの都を設けてカラの同朋を救出した。ここにエリュトラ海とあるのはインド洋のことである。イジュンハンはアフリカ大陸のさいはて、夕陽が沈む西アフリカの海岸に近いアドラール・デ・ジフォラスの高地にある。スサダミコ神祖ヨセフ(順嵯檀彌固"""山幸彦ホホデミ)は紀元"前六六〇年に即位してみずから東大国を治められた。そしてこの記念すべき年から数えて八八0年たった紀元二二〇年、高句麗の山上王位宮とその弟の百済王仇首(山上王ちほやえちくの弟の蘭須)は千穂八重築しかむのみね紫神之峰と呼ばれた九州・鹿児島の八重山に登り、漢帝国の滅亡を祝って、「秀穂立つシナカキ、とよあしかびさか神が培えけむ、豊葺芽栄」と神に感謝した。この年カラの人々はついに漢帝国の支配から脱し、再び日祖ゆかりのカラの故地を奪回して、日向高千穂と呼ばれた霧島山の神の都に永くとどまれるようになったのである。その後およそ[六〇年余りたった紀元三九一年、高號の好太王は右のように栄ある東大国の伝統を継いで高句麗王となり、大いに我らの旧領を回復して広開土王(コウカイトワケ~トコイカウワケ~瑳競伊弐王~瑞競伊尼赫琿)と称えられた。好太王の時代に人々は久しく失われていた祖先の気風を取り戻し、カラ族の勢いは再び盛んになったのであった。西征頒疏によれば、カキとは稲葦神洲のことで、稲穂が豊かに実る神の国という意味である。

シャンカ文字

インドの初期仏教遺跡、サーンチー、バールフト、あるいはデカン高原の先史美術の宝庫バンパトケア、その他の遺跡から発見されている謎の未解読文字。現地でシャン力文字と呼ばれている、この未解読文字の代表例は、図に示したアジャンタ最古の石窟の柱に刻まれた文字群である。高橋良典は『謎の新撰姓氏録』(徳問書店刊)の中で、日本人の祖先、たとえば太宰府天満宮に祀られた菅原道真らの祖先が、紀元前のインド・デカン高原で活躍したこと、日本神話の高天原の歴史的な舞台は、インドのデカン高原だったという仮説を唱えている。古来より日本で「天神さま」として親しまれてきた菅原氏は、『新撰姓氏録』によれば、かつて管原(くだはら)氏と呼ばれた。そして、アジャンタ最古の石窟に刻まれたシャンカ文字を解読した高橋は、驚くべきことに、これを目本の由緒ある神社に古くから伝わるアヒルクサ文字とタガラ文字で、クダハ一フ(管原)マロ(麻呂)と読んでいる。ということは、菅原氏のような日本の有力氏族がかつてインドのデカン高原で活躍したことを決定的に物語っているのではないだろうか。

石窟の石柱

 石柱のシャンカ文字の解読結果

辰殷大記しんいんたいき

『契丹古伝」に引用された史料。辰殷大記はこう記している。イサク(殷叔)と呼ばれたイスラエル最後の王ホセア(忍穂耳)には老年になっても息子がいなかった。そこでカラの人々からこの上なく高貴な人物(殷越―干越)であると尊敬されていたイサクは、アフリカやヨーロッパ、小アジアの各地に離散したイスラエルの人々を率いて東方の聖地ティルムン(日本)へ旅立つにあたり、スサダミコ(密矩)と呼ばれたヨセフ(火々出見)を養子として迎え、彼の後継者とした。その後まもなくイサクは亡くなったが、そのとき彼は八十九歳だった。こうして我らの神祖ヨセフが永遠のいのちを授けとこよひこみこられた太陽の御子、常世トコヨヒコミコ日子御子(督抗費国密矩)としてイサクの跡を継いだのは、紀元前六九五年(伊兮歩)乙酉の秋、九月(七月)のことだった。

太古日本の王イサク

ティルムン

大洪水ののち、ペルシア湾の東方につくられた神々の楽園。シュメールの伝説によれば、ティルムンは大洪水を生きのびたウトナピシュティムが神々とともに住むことを許された楽園で、息子のギルガメシュがクラブ(イラク南部の古代都市)の英雄になったあと、不老長寿の薬草を求めてやってきた土地という。有名なギルガメシュ叙事詩に、「はるかなる地、川々の河口」にあると記されたティルムンは、別の言い伝えによれば「太陽の昇る土地」にあり、計画的に区画された耕地を潤すすばらしい灌潮用水路と井戸のおかげで穀物が豊かに実り、町には立派な穀物倉庫があったという。神々の楽園ティルムンの"すばらしさは""エンキとニ""ンフルサグ""と名づけられ"たシュメールの粘土板に、次のように記されている。ティルムンの国は清らかだ/ティルムンの国は輝かしい……/ティルムンからすでは烏が不吉な漣霧あげることもなく、雄鶏がけたたましい叫びを発することもない/ライオンは生き物を殺さないし、狼も仔羊をとらえない:…/眼病になる人もいなければ、頭痛になる人もいない/女性は年をとっても若々しく、男性もまた老いを知らない…・シュメール伝説のティルムンは平知そのもので、争いことや病気のない清らかな国、人間がいつまでも若さを失わない輝かしい国だった。以上のティルムンは、高橋の研究によれば、太古の日本そのものであり、異変を生きのびたウトナピシュティムとギルガメシュは、あめのみなかぬしたかみ輻体神話の天御中王、高皇産霊に相当するという。つまり、ティルムンは、ティムン(契丹古伝の東冥)ティプン(契丹古伝の東表)に変化したあと、ジプン~ジポン~ジッポンを経て日本になったといえる。

ウルク(夏)の王ギルガメシュ(日本神話の高皇産霊)の物語を記したアッシリヤの粘土板

 [秘府録ひふろく]

 〔契丹古伝』に引用された史料。秘府録にはこう書いてある。神祖ヨセフは、今日アジアと呼ばれている地域を中心として、アフリカからオーストラリア、アメリカ大陸にまたがる広大な土地をカラ族のために確保し、これを五つの地域に分けて統治した。彼はまず、マダガスカルのチアファジャブナ王を南アフリカのジンバブエに派遣して、東大国の西部を治めさせた。次に彼は、北アメリカのシトカ王をアラスカのジュノーに派遣して、東大国の東部を治めさせた。また彼は、九州の串木野カムイ神を喜入(または入来)に派遣して、東大国の中部を治めさせた。彼は中央アジアのカザフ(またはケンピルサイ)にウラル山脈南部のカンダガチ王を派遣して東大国の北部を治めさせ、ニュージーランド北島のマヌカウにオーストラリアの南のタスマン王を派遣して東大国の南部を治めさせた。ヨセフは、右のように東大国の諸大陸の統治を五人の長にゆだねると、みずからは宇宙船に乗って天空の安全をはかり、大海原を航海する人々の安全をはかった。また彼は、九州の句嬰国(のちの狗奴国)の司祭に対して、つねづねの祭りことをおろそかにすることなく、東大国民の末ながい平和と繁栄を保つよう心がけよと命じた。紀元前七世紀にヨセフが東大国の五つの地域を治める以前、これらの地域にはカラ族以外の先住民がいた。北原と呼ばれた中央アジァのステップ地帯には、遊牧民族のマッサゲタイ人(没皮)と狩猟民族のイユルカイ人(龍革〉がいた。西原と呼ばれたアフリカ大陸には、穴居民族のギリガマイ人(魚目)とティブー人(姑腹)がいた。そして中原と呼ばれた東アジア地域にはアイヌ(熊耳)とコロポックル(黄眉)が住み、南原と呼ばれたインド・オセアニア地域には、マオリ人(苗羅)とパプア人(孟潟)がいて農業を営み、海原と呼ばれたアメリカ大陸にはジェー語族(菟首)とコリャ族(狼裾)がいて海洋漁業にいそしんでいた。これらの先住民は、カラ族とともに東大国の国民になったとき、いずれもヨセフの指示に従い、言いつけをよく守った。けれども、その当時インドにいたバクトリア人(箔)とガンダーラ人(牌圏、サカ人(籍)だけは性格が凶暴で手がつけられなかった。そこでヨセフは彼らを征伐してインドから駆逐し、ベンガル湾に追放した。

費彌国氏洲鑑[ひみこくししゆうかん]

『契丹古伝』に引用された史料。費彌国氏洲鑑には次のようなことが書かれている。その昔、地球は大異変に見舞われ、恐るべき洪水が発生して、海と陸の形はすっかり変わってしまった。この異変で地軸が傾いた結果、大地は中国の北西部で縮んで盛りあがり(ビルマ~チベット~ヒマラヤの隆起)、南東部で引き裂かれて水没し蛇身人首の鬼を祭る者が次々にやってきて我らの土地に住みついた。そして彼らは我が東大古族の神の子孫とみずからを偽つたばかりでなく、伏犠や神農、黄帝、少昊なる人物を我らの王の祖先に仕立てあげてその系図に自分たちの祖先をつなげ、あるいは我らの王を陶・虞と改めて彼らの王にみせかけたうえでその子孫になりすまし、これら偽りの神と王に対する崇拝を人々に強要してみずかた(日本海溝~フィリピン海溝の形成)。プングラン(乃后稜)諸島のあたりにあった南シナ大陸と東北の大陸は沈んで海となり、アジア大陸の地殻が太平洋方面に大きく傾いて沈んだため、天が東に向かって海面から遠ざかっていくように見えた。秦・舜の時代に地球全土は戦火に包まれ、禺は洪水の後始末に追われた。ところが二のようなドサクサにまぎれて西からは人身牛首の神を祭る者やらを聖帝の子孫なりと誇らしげに語っている。けれども、彼らは自分たちの祖先だと思っていた発と舜が彼らの思惑に反して東大古族の王であり、我らの祖先であったことをはたして知っているのだろうか。西から我らの地にやってきて帰化した人々が王として仕えたのは、嘉・舜のあと世界の王になった夏の国の禺が最初であった。その後久しく続いた夏王朝の創始者である禺のことを彼らは中国だけの王であったかのように記しているが、これはとんでもない間違いだ。というのも、史記に記された禺は大洪水を生きのびてティルムン(日本~インド)の楽園に住んだシュルッパクの王ウトナピシュテイム(天御中主nアソベ王朝初代ウソリ王)をさしており、彼のいた夏の国とは英雄ギ"ルガメシュ(高皇産霊尊"""アソベ王朝第二代タミアレ王)が活躍したクラブ(呉羽)の都をさしている。禺は中国だけの王ではなく、世界全体の王であったことが西族の伝承によっても確かめられるのである。

八咫やたの鏡文字

一伊勢神宮に伝えられた八咫の鏡の表面に刻まれた文字。これらの文字は従来、ヘブライ語で左から右に向かって、エイエアシェルエイエ(我は在りて在る者なり)と読まれてきた。しかし、そのような読み方はヘブライ文字にもとづく根拠のあるものとはみなされない。むしろこれらを分析した結果によれば、古代のサハラ砂漠で使われていたティフィナグ紋字で、あな畏けあがサハな崇めつることほイサクら言祝ぎつあな畏けサハな崇めつると読める(地球文化研究所.高橋解読)。つまり日本神話のイザナギに相当するイサク(古代イスラエル王国最後の王、ホセア)が紀元前七〇〇年頃に、サハもしくはサバと呼ばれた太古の宇宙船サブハをことほいだことが記されたものと解釈される。このサバは有名なシバの女王が使った空飛ぶ乗り物であり、日本では天照大神の太陽円盤として、古くから崇められてきた。、、

エイエアシエルエイア伊勢神宮の八咫鏡文字

 [耶摩駘記]

「やまとふみ契丹古伝』に引用された史料。著者の塢須弗は、耶摩駘記の中でこう述べている。目本がいまだかつて滅びることなく衰えることなくして国を保ってきたのは、この国を治める者がティルムン以来の輝かしい歴史を見失わず、先代から受け継いだ伝統を大切に守り続け、神の言葉にすなおに耳を傾けて、人問としてなすべきことを行なってきたからである。日本のことを秋洲とも書いてアキシマと呼んでいるのは、紀元前七世紀に神祖ヨセフがこの国に世界の都を設け、目体列島を世界の中央島、央畿島アキシマと定めたからである。

[ヨセフ]

旧約聖書にイスラエル十二部族の祖ヤコブの子として登場する人物。日本神話に山幸彦ホホデミ(火々出見)、ホオリ(火折)として描かれ、東日流外三郡誌つかるそとさんぐんしにウヘリ(宇比利)の子として記されたマシカカ(馬司利)に相当する。紀元前六九五年に亡くなったホセア(旧約聖書のイサク/記紀のオシホ耳)の養子に迎えられ、アッシリヤに滅ぼされたイスラエル王家を再興したティルムン(東冥/日本)の王。前八世紀から前七世紀にかけて、アッシリヤ王サルゴン、センナケリブ、およびエセルハドンと戦ったティルムン王ウヘリ(大日霊女/アマテラス)の子、スダース(須瑳檀密矩/ホホデミ)として実在した。

契丹古伝に東大国主スサダミコの名で伝えられたスダースは、前七世紀の戦争と異変の時代に、われわれ日本人の祖先(カラ族/クル族/カーリア人)を地中海、アフリカ方面からインド、日本へ安全に導いた。その功績は忘れ去ることができない。彼は、前七世紀の初めにアッシリヤ(アトランティス/アーリヤ)に征服されたヨーロッパを除く地球全土を五つの地方に分け、それぞれの地域に都を定めて世界を統治した。旧約聖書に彼の父と記されたヤコブ(ニニギ)は、前七世紀にアフリカで勇名をとどろかせたエチオピア朝エジプトのファラオ、タルハカであり、彼の息子と記されたエフライムは、記紀および古史古伝にホホデミの息子として伝えられたウガヤ皇子と同一人物である。

ティアワナコの太陽の門に描かれたヨセフ

原日本古代文字発見地点日本探検協会/高橋良典 調査 日本探検協会では、デカン高原=高天原仮説を証明するため、これまで何度も現地調査を行なってきた。そしてその都度インドでも解読されていない碑文を採集し、100例以上の碑文を解読した結果、古代の日本人はインドのデカン高原あるいはインダス文明地域でも活躍していたことをつきとめた。日本探検協会が毎年継続して進めているインド・ネパール・古代インダス文明地域(ティルムン=日本)の調査に協力下さる方は協会までご連絡ください。

 

太陽神アフラ・マズダはイーマに告げた

おお、美しきイーマよ

この邪悪なる世界に厳しい冬が訪れようとしている

雲高くそびえるかのアヴィ山の項きにも厚い雪が降りつもるであろう

そして水の豊かな緑なす牧場であるこの大地もまた

かつてない大雪に見舞われる

さればイーマよ

今のうちに大いなるバーラを造れ(この大地に大いなる地下都市を造るのだー)    

『ゼンド・アヴェスタ』

 

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