阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。あちこちでShootする写真日記。お遊びもあり。

諏訪市上川の八剣神社斎田に御幣(おんべ)を立てる氏子総代、信濃毎日新聞        

2015年06月29日 | 諏訪便り

06月29日(月)付 信濃毎日新聞

 諏訪市小和田の八剣神社は28日、夏の例大祭に合わせて、「虫除(よ)けの神事」を開いた。

氏子総代が神社近くの水田を回り、竹で作った高さ2メートルほどの「虫除け御幣(おんべ)」を立て、

豊かな実りを祈願。神社は、市内で26日に7棟を焼いた火災現場の近くにあり、恒例の子ども屋台などは自粛したが、神事は実施した。

 例大祭には大総代ら約100人が参列し、宮坂清宮司(64)が祝詞を上げた。続いて、斎田担当の総代ら6人が、神社近くの高島、

上川、渋崎などの地区にある水田の一角など22カ所に御幣を手分けして立てた。

斎田委員長の小松巳子男(みねお)さん(63)=諏訪市高島=は「実りある地域に、という願いを込めた」と話した。

 火災の際、神社では境内への延焼を警戒。氏子らの協力で、一時、ご神体を移す神事を行い、調度品などを避難させた。

宮坂宮司は「氏子の皆さんのおかげで今年も無事に例大祭を行うことができた」とねぎらっていた。



この写真は2004年に法事で諏訪へ帰ったときに写したものです。この神社には,甲斐の武田軍団が諏訪を占領したときに

武田兵が書いた落書きが,そのまま残っているそうです。

八剣(やつるぎ)神社  clickは諏訪大社上社の摂社(筆頭子社)で、諏訪湖畔の小和田地区の氏神さまです。

元々は諏訪湖中にあった「高島」という島にありましたが、秀吉配下の武将・日根野氏が高島に城をつくることになった時に、

高島の島民とともに近くの小和田(コワタ)という地に移されました。築城された城がいまの高島城です。

小和田地区の住人は移住と引き換えに諏訪湖の漁業権と自治権を手に入れ、住民自治は明治まで続きました。

ようは住民が持ち回りで町の役職を果たし、地区民の合議で小和田を運営していたそうです。

諏訪神社は出雲から天皇族に追われ、諏訪地方に逃げ込んだ一族の長が神様になった神社ですが、

その子社となった「ハ剣神社」は出雲族が日本海を進み、越の国から安曇野を通って、

諏訪へ到達する以前から当地に居住した縄文時代に遡る先住民の氏族神に違いありません。



案内してくれた従兄に、これが一族*の“まき”の祠だと教えてもらいました。
この祠の前にも4本の小さな御柱が建っていました。

小和田地区に昔から住む住人には、先祖を同じくすると伝えられている
いくつかの同族集団があります。それを“まき”と言います。
この“まき”と言う用語は日本各地にあるようですから、古代にまで
さかのぼる概念だと思います。語源を知りたいのですがまだわかりません。
撒き?巻き?牧? 英語で言う“CLAN”と同じことだと思います。

今は別に親戚付き合いをするわけではなくとも、あの家とは同じ
“まき”だと、皆それぞれが承知しているのだそうです。八剣神社の
境内にはこの“まき”の先祖神を祀る祠が、各“まき”ごとにいくつもあります。

年に一度“まき”の人たちは集まって掃除をし、その後、一緒にお茶を飲んだり
酒を温めて歓談すると別の時に聞いたことがあります。

この祠の小さな御柱も「御柱祭」の年の「小宮の御柱祭」で諏訪大社の全ての
子社の御柱が7年ぶりに建て直されるときに、新しく建て直されます。
小宮の御柱祭りは子供たちが主役だと聞きました。

残念ながら私は一回もこれらの行事に住人として、参加したことはありません。

親も昭和20年代、30年代に、九州や関西から子供を連れて故郷の祭りに
帰る余裕は当然ありませんでしたから。

2020年7月19日追記

〇特に小和田地区は:
 
⇒旭ガラス月刊PR誌「GLASS & ARCHITECTURE」の記事
「連載 ■コミュニテイセンターとその周辺(13)<小和田>」
昭和46年8月5日発行 著者 本多昭一 発行 旭ガラス(株)
16頁~26頁

「新信濃風土記」という本によれば、天正19年(1591年)に、豊臣秀吉の家臣、日根野織部正高吉が、
(諏訪)湖中の高島の漁村50戸を小和田に移して、高島城を築いたということですが、
この「移した」というのが重大事件だったろうということは容易に想像できます。

・・・中略・・・・高島村の人たちは、湖の中の島(現在の高島城のあたり、現在は陸続きですが、昔は湖が大きかった)
に住んで、湖で漁をしたり、田んぼ(現在の小和田田んぼあたり)で稲作をしていたわけですが、日根野氏が
「城をつくりたいので立ち退いてくれ」というので、話し合いで、住居地として現在の小和田の土地をもらうとともに、
特権として諏訪湖全体の漁業権を得たということです。・・・後略・・ 引用終わり。
 
〇なお、口承で伝えられている我が一族?の「ファミリィヒストリー」としては
明治維新まで表向きは諏訪藩の城内で殿様の野菜を作る足軽で、実際は殿様のお庭番だったとか??
藩の諜報部門の家だったから維新の折に文書はすべて廃棄されて文書によるその証拠はないと。



日本における同族集団: わが国の各地町村にみられる本家・分家の関係の家の結合集団のこと。

“同族”ということばは学術用語で,地方ごとにそれぞれ違った呼称がある。まき・まけ・ばっかなかま・じるい・あいじ・じわかれ・おやこまき

・いっけ・うちわなどと多種多様で,その集団の形態や社会的機能も少しずつ差異がある。

また,これらの集団は本家・分家の枠に必ずしも限定されず,血縁仲間とか親族集団をさしている場合もある

いずれにしても家と家との間の系譜関係,あるいは主従関係によって結合し,たがいに社会生活を円滑に営むために連帯する家々の連合体,

これを同族団と呼ぶのが一般化している。

都市における商店でも“暖簾内”などと称して,本店・支店の結合をはかっているものがあるが,これも同族団の一種とみられる。//webから引用。


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