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ただ今勉強中です。

しばらく更新が空きました。

北海道はここ最近天気が変わりやすい感じですねぇ…なかなかスカッと晴れません(--;)

五井野正博士の記事を書いてから、様々な方々にご覧いただけているようで嬉しいです(^^)

しかしだからこそ、誤解の生じないよう慎重に記事を書いていきたいと考えております。



ここ最近の記事をご覧いただいている方々は、「なぜこのような記事ばかり書いているのか?」と疑問を持つ方もいらっしゃるかもしれません。

これに関して、まとめ記事というものを書こうとしていたのですが、未だその方向性が定まらず、無用な誤解を与えかねない部分が多くなりそうだったので、詳細はまた改めて記述したいと考えております。

まず、自分はなぜこのような記事を書いているのか?についてざっくりご説明いたします。



理由1:現世的な精神的苦しみからの、ひとつの解決の道

何度か書きましたように、私は長いこと精神的な憂鬱と共に生きてきました。

今完全にそれらの憂鬱が解消されている、というわけではありませんが、だいぶ軽くなり、たびたび感じるその憂鬱の種類も変わってきているように思います。

一般的に精神的な病気というものは、家庭環境や所属する社会環境、個人的なレベルでの問題として考えられているかもしれませんが、それだけが全てではないような気がしております。

そのあたりも含めて、今後まとめていきたいと思います。



理由2:ブログをご覧の方々に対して、五井野正博士の素晴らしさを極力誤解のないように伝えるため

五井野正博士に関する一連の記事をお読みいただいた方々は、それぞれに何かを感じていただけたと思います。

私は心より五井野博士を尊敬する者として、読んでいただいた方々にその素晴らしさを、極力誤解のないように伝えられるよう、慎重に記事を書いております。

というのは、五井野博士の精神世界やこれまでの偉業というものは、あまりにも幅広くまた深遠なものばかりで、博士の名前を初めて耳にした場合に当然のごとく、「ひとりでそれだけのことをするなど信じられない」とか「胡散臭い」という気持ちを抱いてしまう人が実際に多く、それが誤解につながってしまう、ということなのです。

インターネット上で五井野博士を検索すると、その情報量の少なさや、批判的記事が検索されたりするため、それらに影響されるとやはり博士に対する誤解が深まってしまう、ということが実際に起こっています。

これからの時代、精神的にも物理的にも、本当の道を示してくださる方はこの方のみ、と私は考えているため、ぜひとも多くの人に、その世界について知っていただきたい、という気持ちです。

多くの方々に知っていただければ、五井野博士の日本での表舞台への登場(海外では十分に認知されております)への機運が高まってきて、それが本当の意味での日本救済につながる、と考えております。

そのために、その他の記事を複線として記述して、それらと合わせて五井野博士の記事を読んでいただけると、ひとつの「世界観を変える」助けになると考えています。



ではまず、一連の記事のリンクです。

初めての方、読み落としなどある方はこちらからご覧ください。

奥の、奥へ。

一枚上手の人々。

最も賢い悪人とは。

最も賢い善人とは。

五井野正博士〜出逢い〜

五井野正博士〜最も賢い善人であると感じる理由その1 最高の仏教解釈〜

五井野正博士〜最も賢い善人であると感じる理由その2 知られざる偉業〜

五井野正博士〜最も賢い善人であると感じる理由その3 示される未来〜

五井野正博士〜まとめ〜

(注:五井野博士も著作で述べられておりますように、善悪で物事を判断することは結局二元論的見方で、最終的に視野狭窄の原因となってしまいます。私がこれらの記事を善悪を基準として書いてきたのは、ものの考え方のひとつ、としてご理解ください。)



基本的にこれらの記事で主張したいことは、ご覧の方の個人的世界観を変える材料になれば、ということです。

これらの記事の流れをうまくまとめようと考えていたのですが、注にもありますように、善悪など二元論的見方の末路は結局、正しい見方を損ねる可能性がありますゆえに、そのあたりについても自分の考えがまとまり次第、随時更新していきたいと考えております。

またここで断っておきますが、五井野博士を「最も賢い善人」という形にしたのも、実は形式上のことでありまして、五井野博士自体は善も悪も超えられたところにいらっしゃいますので、この言い方も適当ではない、と現時点で考えております。

これまで五井野博士の著作を中心にたいへん多くのことを学ばせていただいておりますが、その著作の裏付けとなる事物に関して、自分でろくに調べもしないで語る、というのは片手落ちになる、ということも考え合わせて、様々なことに対して多角的・立体的に物事を判断すべく、独自に他者による著作から勉強をしております。

ただ今読んでいる著作は、池田整治さんの著作、江戸時代にまつわる文献、スティーブン・グリアの著作、などです。

これらの文献の内容を総合しまして、さらに五井野博士の著作と照らし合わせて、更なる理解を深めようと考えております。

その道すがら、気づいたことなどをこちらのブログでフィードバックできれば幸いです。
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最も賢い善人とは。

ライブもひと段落したので、続きを書いていきます(^^)

先日の記事「一枚上手の人々。」を読んでいただいた人は、それぞれ最も賢い悪人や、最も賢い善人について思いを巡らせていただいたことと思います。

今回は「最も賢い善人」について、考察します。



まず、「善」とは何か?

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goo国語辞典より

ぜん【善】
よいこと。道義にかなっていること。また、そのような行為。「―を積み、功を重ねる」「一日一―」


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「よいこと」や「道義」とは何か?

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goo国語辞典より

どう‐ぎ【道義】
人のふみ行うべき正しい道。道理。「―にもとる行為」「―的責任」


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「正しい道」とは何か?

…これがなかなか、わかりません。

だからこそ、現代人はいろいろな宗教や学問、書物に求めたりしながら、それぞれの価値観を形成して、自分の「正しい道」を模索しながら生きている、というのが正直なところでしょう。

ここまでの定義で、「最も賢い善人」を考えた場合、人の歩むべき正しい道を歩む、ということを目的として、それを成し遂げるための道筋を注意深く考え構築し、実際に成し遂げる能力を持った人、ということが言えます。

この記事をご覧の方々は、そのような人を身近に、または書物やメディアなどから見出せるでしょうか?

まずは自分の周りから、または尊敬する人々から探してみてください。

そして、その人が本当に「正しい道」を示しているかどうか、自分なりに考えてみてください。



私は様々な精神遍歴の中で、昨年ある方に巡り会うことができました。

先日の記事でもご紹介しましたが、五井野正博士という方です。

私はこの博士が、現在地球上で最も賢き善人であることを確信しております。

これまで博士は、全人類に対して正しき道を示してきましたが、ほとんどの人々はそれを無視、もしくは弾圧してきました。

現在の日本の一大事も、博士は30年以上前から警告を発してきております。

そして今現在も、この状況からの進むべき道を日本の人々に示し続けております。

その心たるや、常人の次元を超えております。



次回、自分なりに五井野正博士について、記事を書きます。
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最も賢い悪人とは。

※今回の記事は、かなり特殊な内容で、読むとユウウツになる可能性があります。

感情的な傾向が強い方や、精神的な治療中の方、または今ご自分の夢を追っていてそれを実現しようとしている方などは、今読むのを控えて、落ち着いているときにお読みください。

ですが、今後の世界を見ていくうえで、知っておいたほうがあとあと精神的な被害は少ないと考えております。

これまでもこのブログでは、心の問題について思索する記事を多く書いてきましたが、時代が急に大きく変わろうとしているために、それほど時間をかけていられない、と思いこの記事を書いています。

このようにお伝えするのはおこがましいのですが、この記事をお読みいただく方は自己責任ということでご了承ください。













先日の記事「一枚上手の人々。」を読んでいただいた人は、それぞれ最も賢い悪人や、最も賢い善人について思いを巡らせていただいたことと思います。

今回は「最も賢い悪人」について、考察します。



最も賢い、というのは、改めて申しますと、その人がある目標を抱いたときに、慎重に道筋を考え、確実に実行することです。

「最も賢い悪人」は、悪人であるがゆえに、目標達成の手段を選びません。

悪人が持つ目標達成への手段とは?

いったい悪人はどんな手段を用いるのでしょうか???

まずはご自分でお考えください。









どうでしょうか?

どんな手段を想像されたでしょうか?

では答えを…










それは、「恐怖」と「偽善」です。

ではそれぞれ検証していきます。

まず、「恐怖」とは何か?

皆さん様々なところで「恐怖」を感じることがあると思います。

例えば、幽霊やお化け屋敷、UFOや都市伝説などのオカルト、事故や今回の震災などの災害、脅迫・恐喝などの事件や戦争などの暴力…様々な恐怖があります。

人が恐怖するとどうなるか?

先日の記事にもありましたように、感情的な恐怖の状態になると、思考や行動は停止して、自己の判断が出来ない状態となります。

その状態では人間は為すすべもなく、自己のすべてのコントロールをその恐怖の対象に委ねてしまうでしょう。

賢き悪人は、他者のこの状態を利用して、自分の目的を遂行していきます。

簡単な例としては、銃を向けて「手を上げろ!」と脅してコントロールすることです。



では、「偽善」とは何か?

これは、あたかも「善」を装いながら、相手をコントロールすることです。

偽善は、身近なところでは、「お前に○○してやったから、自分に××しろ」というニュアンスのコントロールです。

「せっかく○○してやったのに…」とか「お前たちを食わせるためにがんばっているんだ」とかいう発言も偽善の一種です。

これらは身近な小さな例ですが、これが社会的に大きくなると、偽善が見えにくくなります。

例えば会社では(全てではないですが)、「当社はエコ活動に積極的に参加しています」や「当社は○○活動に賛助しています」などの宣伝。

事業内容を詳しく見てみない限りは、その善悪は判断できませんが、中には事業内容の中で社会的問題を抱えている会社もあったりしますので、宣伝の表面的な部分だけで判断すべきではありません。

また、国家では(全てではないですが)、「○○国で成果が上がっている事業を我が国でも!」や「国際標準に対応するため」なども偽善の可能性があります。

やはりこの場合も、その内容を自分で精査しない限りは、そのプロパガンダ(特定の思想・世論・意識・行動へ誘導する宣伝行為)に、善悪に寄らずにコントロールされてしまうからです。

賢き悪人は、あたかも善人のように装って他者を欺き、自分の目的を遂行していきます。

最近の例で言うと、子宮頸がんワクチン接種はまさにこの典型です(検索して調べてみてください)。



では、「恐怖」や「偽善」を見抜くためには?



恐怖から考えていきます。

恐怖する、というのは、自分の考えていたことを超えていたことが起こった場合に表れます。

例えば、お化け屋敷を例にすると。

初めて入るお化け屋敷は、いつどこでお化けが出るのかわからないので恐怖するわけです。

何回も入ったお化け屋敷は、大体いつどこでお化けが出るかわかっていますので、それほど恐怖はしなくなるでしょう(それでも恐怖する人はいるかもしれませんが)。

要するに、いろいろな物事に対して、事前に何が起こるか知っていれば恐怖は少なくなるわけです。

現実的な例では、テレビや新聞の不安を煽るような報道を見て、「どうしよう」と不安に感じる(不安は恐怖とほぼ同じ意味です)ことが挙げられます。

しかし、その報道よりも先に正しい知識を知っていれば(またはもともと、より詳しい知識を持っていれば)、その報道がデタラメだったりする場合もあり、その場合はいたずらに不安になるようなことはないでしょう。



次に、偽善について考えていきます。

偽善を見抜くためにもまた、自分でその周辺の知識を良く知る必要があります。

どういうことに対しても、「これはこうなんです」と言われて、なるほど、とすぐ思ってしまってはいけません。

こういう風に言うと、「疑い深すぎるのはダメなのでは?」と思う人も多いかもしれません。

が、この世の中では、疑い深いほうが正しく判断できることがほとんどです。

なぜなら、現代社会はいろいろな部分で価値観が転倒しており、ほとんどの人が本当の人の生きる道がわからない状態になっているからです(これはまた改めて詳しく述べていきます)。

実際の自分の経験に勝るものはありません。

もし誰かに「これはこうなんです」と言われて、「本当かな?」と思ったら、自分で同じようにやってみたり、その他から改めて別の角度の知識を得るようにすればいいんです。

その結果「確かにそうだ」か「ありゃ、何か違うぞ」ということになると思いますが、それで改めて本当のことに近づいていく、というプロセスが得られます。

最終的に、偽善を見抜くには、本当の「善」というものを知ることが必要です(これもまた改めて述べていきます)。



最後に、賢き悪人の例を知りたい方へのサイト紹介です。

通常の思考をしている人には、非常に過激な内容なので、読んだらユウウツになると思います。

しかし、何も知らないままユウウツになるのとは、また違います。

このユウウツは、本当の知識を得ることと、本当の「善」を知ることで解消することが出来ます。

申し訳ありませんが、やはりこのサイトの閲覧は、自己責任でお願いいたします。

LEGACY OF ASHES 「天空の蛇 その2」
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/207.html

こちらのサイトに書かれていることは、すべてが真実とは言いませんが、このような賢き悪人がいる、ということだけでも覚えておいていただければ、と思います。

地球は、賢き善人と、賢き悪人の、壮絶な戦いの場になっている、と考えてください。
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一枚上手の人々。

一枚上手の人々。

この言葉を聞いて、どんな人々を想像するでしょうか?

考えるその人の職業や趣味・興味などによって、想像される人々は異なってくるでしょう。

例えば自分ならシンガーソングライターですので(そこのところ、どうぞ忘れないでくださいね(笑))、自分が良いと感じる歌の上手な人や素敵な歌詞を書ける人、グッとくるメロディを奏でる人、などが一枚上手に感じ、尊敬します。



多くの人々がこのような善的な想像を行うことでしょう。

しかし、この世の中は善の人ばかりではありません。

詐欺や暴力など、犯罪を行う人々は、手段の如何に寄らず目的を達成することから、それもまた「一枚上手」と言わざるを得ません。

振り込み詐欺で引っかかる人々は、彼ら犯罪者の狡猾な手口により引っかかってしまったわけで、悔しいですが相手が「一枚上手」であった、ということになります。

もちろん、引っかからない人もいるので、そのときは引っかからなかった人が犯罪者よりも「一枚上手」だった、ということになります。



また、人々はこの世に生まれて、その人それぞれに与えられた能力があります。

IQ(知能指数)のような定量的に計るものや、よく頭の切れる人・賢い人、など抽象的に表現される能力があります。

先に述べたように、世の中には善人と悪人がいる、ということと考え合わせて、思い切って単純化すると、人間の性質はその人の物事の対象により2次元のパラメータのように考えることが出来ると思います。



それぞれの変数を考えてみましょう。

■善(横軸)

自利利他の考え方で物事を考えることです。自分の利益が他人の利益になる、または他人に益することで自分に利益がある、と考えることです。

■悪(横軸)

自利のみを考え、そのためには他者を害することも手段に考えることです。他人の利益を奪うことで自分の利益にすることを考えることです。一部法的に犯罪とされる場合があります。

■賢い(縦軸)

ある目的を抱いたとき、それを成し遂げるための道筋を注意深く考え構築し、実際に成し遂げる能力です。

■愚か(縦軸)

ある目的を抱いたとき、それを成し遂げるための道筋をあまり注意深く考えることが出来ず、短絡的・場当たり的な考えで行動を起こしてしまうことです。



その人の物事の対象、としたのは、人それぞれ本分というものがあり、その人がある対象に持つ興味や関心次第で、能力を発揮する力が違うからです。

例えば、ある学生は勉強はまったくダメなのに、野球をやらせたらものすごく上手い、というように、勉強を対象にすると愚かで悪人であるが、野球を対象にすると賢い善人、ということが言えます。

人々はあらゆる対象に対して、それぞれモノの見方や能力がある、ということが言えるでしょう。



さて、本題の「一枚上手の人々」というところに戻ります。

この図から考えると、善にも悪にも、ある対象に対して「賢い」人々が一枚上手となることがわかると思います。

例えば、目的として「お金を稼ぐ」ということについて、それぞれの極端な例で考えてみます。



■最も愚かだが、最高の善人の場合

「自分にはとにかく働くしかないから」と、自分がすぐにでも出来る仕事を見つけて一生懸命働き、自分の生活を切り詰めてお金を稼ぐことでしょう。

■最も愚かで、最高の悪人の場合

手近なお金を持っていそうな人を見つけては、暴力なり脅迫なりでお金を脅し取るでしょう。もちろん、場当たり的な行動なので、警察にすぐ捕まってしまいそうです。

■最も賢く、最高の善人の場合

誰もが喜ぶ製品や情報・技術、芸術などを慎重に考え、それらを求める人々の負担にならない程度の価格で多くの人に提供して、少しずつ自分の稼ぎを増やしてゆくでしょう。

■最も賢く、最高の悪人の場合

あらゆる法律の網の目をかいくぐり手段を選ばず、問題があった場合は他者になすりつけ自分の手を汚さず、自分に不利益にならないようにお金を稼ぐでしょう。



極端な例でしたが、だいたいイメージは掴んでいただけたと思います。

この例ではお金としましたが、目的は「野球」でも「音楽」でも、もっと抽象的な「有名になりたい」「夢を実現したい」など、何でも当てはまると思います。

この世の中にはたくさんの人々がいて、それぞれの善悪賢愚で世の中を動かしています。

目的は同じでも、そのアプローチはさまざまで、それが例えば「成功術」のような啓発本や、著名人の「伝記」などに見られるものとなります。

突き詰めていくと、やはり最も賢い人や最も愚かな人、最高の悪人や最高の善人、という人が必ずいます。

あらゆる人々の中で、最高の賢い悪人や最高の賢い善人は、「一枚上手」というよりも、「何枚も上手」の人がいるのは直感的にわかるでしょう。

さて、その人たちは今、何をやっているのでしょうか?

どんな目的を持って、どんな道筋を構築して、どのように実行しているでしょうか?



そしてあなたは今、どんな目的を持って、どんな道筋を構築して、どのように実行しているでしょうか?

物事を考えるきっかけになれば幸いです。

もちろん、自戒もこめて。
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奥の、奥へ。

平時のときでも、緊急のときでも、奥の、奥へ。

時間は止まらず、止まるのは思考と行動。

改めて、こういったことに気づかされています。



というのも、こちらをご覧の皆さんも、仕事でも趣味でも何でも良いですが、何かをするとき、過去の経験や知識、または性格などから、あるところから思考や行動がストップする、ということがあると思います。

そのストップした段階が、ある人は「満足」、ある人は「不満」、ある人は「成功」、またある人は「失敗」、など名づけたりするでしょう。

また、感情についても同じように考えられます。

「怒り」や「喜び」、「恐怖」や「楽しみ」、など、感じているときは思考や行動がストップしているでしょう。

もちろん、「喜び」や「楽しみ」などのプラスの感情は、味わい深くていつまでも感じていたいものですが、「怒り」や「恐怖」というものは、感じたくないのにそれに支配されてしまう。

逆に言えば、感情に支配されているとき、人は思考からも行動からも離れてしまっている、と言えます。



例えば、今回の災害において如実に感じるのは、テレビの報道です。

津波の映像は何回見ても、恐怖や不安を覚えます。

実際に災害に遭われた方々がその映像を何度も見たら、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を刺激されることは誰もがわかると思います。

それを知ってか知らずか、テレビ局各社は再三に渡って報道し、アナウンサーやコメンテーターはしかめっ面をするだけ。

普段からテレビを見ている人たちは、これが当たり前だと思ってしまってはいないでしょうか?



「テレビはそういうものだ」ということにしてしまえば、テレビから流されるものに、思考から感情から支配されてしまいます。

もちろん、良心的な内容の番組も数多くありますが、今回の報道(今回だけではないですが)に関しては、ひどすぎます。

タイトルを「奥の、奥へ。」としたのは、この部分です。

というのも、ここでさらに踏み込んで、「なぜこんな報道をするのか?」ということを考えてみてほしいからです。

そう思った人の考え方次第で、いろいろな答えになると思いますが、最初はそれでもいい。

自分で考えてみる、という最も大事な行為を、長い間放棄してきたことに気づくでしょう(自分も偉そうなことは言えないですが)。



自分がそのように考えた場合。

・なぜこんな報道をするのか?
→刺激的な映像が多いほうが、視聴者を多く得られるから。

<パターンA : 科学的サイド>

・なぜ刺激的な映像が視聴者を引きつけるのか?
→人々の脳は基本的に、良し悪し関係なく、強い刺激を求めるから。

・なぜ脳は強い刺激を求めるのか?
→そのほうが神経細胞の組織化が速やかに行われるから?→他者や書物へ。

<パターンB : 社会的サイド>

・なぜ刺激的な映像ばかり報道して視聴者を多く引きつけようとするのか?
→民放テレビ局は基本広告収入で成り立っているため、どんな手段を用いても視聴者を多く引きつけなければいけないから。

・なぜ手段を選ばないのか?
→優先順位の1位が広告収入(お金)で、国民を正しく導く、という大儀はないから。

・なぜ人の道や心ではなく、お金を優先させるのか?
→みんなお金が大好きで、お金で何でもできると思っているから。

・お金とは何か?
→…最大の疑問です。→他者や書物へ。



というように、奥へ、奥へと思考を巡らすと、ものごとはその人なりに核心に迫っていきます。

<パターンA>では科学的なサイドから、<パターンB>では社会的サイドからの検証となっています。

道は違えど、それぞれ追求していけば、みんな同じところに辿り着くと思います。

自分の知識の範囲を超えたところで、他者や書物に聞いてみる、というのが、至極自然な流れであり、健全な思考や行動を守る指針となると思います。

今までの自分もそうなんですが、最初のところで他者や書物で聞いたり読んだりしたりしてきたため、その最初に聞いた人や書物の影響を強く受け(いい加減に選んだ知識は、その後必ず矛盾に突き当たる)、そういうものってしっかりと頭に残らないんです。

頭に残らないと、次に思考するための道具とならないので、必ずいつか思考が止まります。

思考が止まったときに「わからない」「難しい」となってしまって、そうなると一枚上手の人々に簡単にコントロールされていまいます。

人からコントロールされるということは、潜在的に誰でも嫌なことなので、嫌な気分になることも多くなる。

そうならないために、このように「奥の、奥へ」思考、行動、ということが大事だと、改めて感じております。



このようなことは、例えば自分の仕事や興味のあることに対しては、皆さん自然と行っているはずです。

そうではない部分への関心に対しても、同じように考えてみてほしいです。

この記事をご覧になってから、この世界というものを試しに自分なりに考えてみる機会を持っていただければ嬉しいです。
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人間のロボット化について。(その1)

先日の記事で「人間のロボット化」について触れましたが。

今日も固い思索内容なので覚悟してお読みください(笑)



一見ネガティブな感じもする「人間のロボット化」。

実はそうでもない、と考えました。

というのは、優れた精神と技術を持っている人の場合。

あらゆる業種の優れた職人や、仕事の出来る経営者や会社員、また音楽家・画家などの優れた芸術家、更には料理の得意な主婦などの作業や取り組みを、もしはたから見せてもらったら、その無駄のない動きと手際の良さ、創造性を見て感動するでしょう。

その動きはまるでロボットのように正確。

そういった人がそばにいるだけで、場の創造性が高まると思います。

優れた親から優れた子供が育つ、というのは、家庭にもこういった場が存在し、言葉では伝えられない創造性を肌に感じながら育つから、かもしれません。



逆に創造性が低下したロボット化。

これはあらゆる依存症に陥った人々によく見られるでしょう。

アルコールやタバコ・麻薬などの依存症の人々、DVなど家庭内暴力や自傷行為、ギャンブルやセックスなど快楽依存症者、最近ではテレビやネット・携帯・ゲームなどのメディア依存などなど。

依存、というだけあって、それがないと気分が落ち着かなく衝動的にそれらを求めてしまう。

はたからそういう人たちを見ると、ほとんど自動的にそれらの行動を行ってしまっているのがわかるでしょう。

そのような人がそばにいると、不可解な場が出来上がってしまう。

まして自分の身を滅ぼす行動を続ける人を見続けることは、人間の本質を知らない人の場合は苦痛となってしまい怒りを増幅させ、それがまた互いの悪影響を及ぼしあうことになってしまうでしょう。



普通の人はこの二つのロボット化の間で、その人なりの行動となっているでしょう。

この二つのロボット化の背後にあるものは?

自分は「フィードバック」にあるように考えます。

フィードバックとは…?

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Wiki フィードバックより

フィードバック (feedback) とは、ある系の出力(結果)を入力(原因)側に戻す操作のこと。元来はサイバネティックスの用語であり、生物の恒常性や多様性を支えるしくみから見出された。システムの振る舞いを説明する為の基本原理として、エレクトロニクスの分野で増幅器の特性の改善、発振・演算回路及び自動制御回路などに広く利用されているのみならず、機械系や生物系、経済などにも広く適用例がある。自己相似を作り出す過程であり、それゆえに予測不可能な結果をもたらす場合もある。対義語は
フィードフォワード。

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Wikiの説明でもあるように、あらゆる生命体はこの機能を備えており、その生命体としての維持を実現させています。

例えば、日陰の植物の茎が異常に伸びるのは、光が得られない場合茎を伸ばす、というフィードバックが働いているからで、光が得られる日なたの植物の茎は、そのフィードバックを働かせる必要がないため、それらに比べるとかなり短くなっています。

人体も風邪などのウィルスに対する抗体や発熱、ケガの治癒なども生命体としてのフィードバックが正常に働いているからこそのものです。

人の行動について簡単に言えば、何かこうしよう!とやってみて、その結果と自分の意図の違いを検証し修正すること、ということでしょうか。

前者の創造性に富む人というのは、このフィードバックが正常に動作して、自分の意図と結果の違いを正しく記憶して、次回同じことを意図した場合に意図と結果が近づくように反映させる能力がある、ということが言えます。

後者の依存症の人の場合は、このフィードバックが異常で、苦しみが増えているにもかかわらずその苦しみの結果を認識できず、次回も同じことを繰り返してしまい苦しみが増えてゆく、ということが言えるでしょう。



では、フィードバックが正常に動作するための条件は?

それはその人の「心」の問題となるでしょう。

どのような「心」が正常なフィードバックへ向かわせるのか???

次回更に思索を深めていきたいと思います。
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意味と無意味の果て。

最近固い話題が多くてご覧いただいている方に申し訳ありませんが。

今回はゆるく…と思ったのですが、タイトルからして固いし(笑)。

でもけっこうゆるい内容です。



最近の自分の記事内容の固さは、以前よりもいろいろな対象に意味を求めるようになったからだと考えています。

よく子供が「これは何で?」「どうして?」みたいな質問を大人にしたりしますが、そんな感じ。

以前は何故だか「これはこうだから…」とか「これはダメだろう…」とか、乏しい自分の知識でいろいろなことにレッテルを貼り、結局いろんなことがうやむやになったまま、悶々と過ごしてきたことが多かったように感じます。

現代科学も「何でだろう?」という精神としてはそうなのですが、自分と同じようにうやむやな段階で技術化して、軍事技術や環境破壊の科学になってしまっているのでしょう。

それだけ宇宙というものは「不思議」という名の懐が深い。

単純に自分が想像する量の数億倍の不思議がまだ詰まっているでしょうね。

生命の不思議、人の不思議、宇宙の摂理の不思議…。

あらゆるものに対する、死ぬまで満足しない不思議の探求が、本来の人間の歩む道、かもしれないと考えるようになりました。

「この世はでっかい宝島 そうさ 今こそアドベンチャー」

この言葉は真理です(笑)。



一方、無意味とは?

人間は意味を求めて生きていながらも、ふと無意味なものや出来事に出逢ったとき、笑います。

笑いとは、意味を求める緊張感から解放する効果があります。

お笑い芸人のナンセンスや不条理が面白いのは、自分の中にある常識を揺さぶって解放してくれるからです。

このことから、子供が良く笑うのは、いろいろなことに意味を求めている度合いが少なく、ありのままの変化が面白いから、だと思います。

自分はお笑いが大好き(好きな芸人はタカアンドトシ、さま〜ず、爆笑問題、ナイツ、ラバーガール、などなど…)ですので、笑いには大いに興味があります。

そこで、笑いやユーモアの原点である「無意味」についても考えるわけです。

では、世界で最も無意味なこととは何か?

これも自分の探求のテーマですね。

ただ注意したいのは、これらの笑いやユーモアには、人をバカにする笑いやブラックユーモアという言葉もありますように、「質」というものがある(そういった意味では、爆笑問題の笑いの質はやや低いかも)。

この「質」の高い最高の笑いやユーモアとは???

こういった視点も持ちながらいきたいですね。



予感なんですが、これらの意味の追求と無意味の追求…最後は同じところにつながっている感じがしてならないのです。

この宇宙は最高に意味があり、また最高に無意味である。

そんな結論に到達しそうな予感がしています。

これから生きてそれを証明できたら良いな、と思います。



…なんだかんだ、今日も固いな(笑)。
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ルールのあるところには不正がある。

京都大学の入試で新手のカンニングについて。

入試ネット回答は翻訳ソフトか 京都府警、答案を調査へ
http://www.47news.jp/CN/201102/CN2011022801000578.html

カンニングもいつの間にかハイテク化しましたねぇ(笑)。

この「したたかさ」は現代の社会に出てからかなり通用すると思うので、京都大学も入れてあげたら良いのでは?(と勝手に言ってみました(笑))。

以前の記事「ユーストリームお試し放送。」でもルールについて少し触れましたが。

現代の社会は法律があり常識があり国民の義務がある。

これらのルールがある限り、表でも裏でもルールを破る人が出てくる。

表でルールを破る人は逮捕か社会的転落ですが、裏でルールを破る人は元気?にしていることでしょう。

裏でルールを破る人たちの「元気」がまた、社会の大きなうねりになっていることも多いと思います。

また、ルールの内容によって、その人間社会の精神的レベルが推し量れると思います。

今あるこれらのルールは、本当の本当は誰のため?何のため?にあるのか?

そのあたりを突き詰めて、いろいろ物事を考えていきたいところです。



試験の話に戻ります。

学力を測る手段として「テスト」を採用している段階では、このようなことになるのは致し方なし、といったところでしょうか。

本来学力というのは、定量的に量れるものではなく、その人自身の目標・意志・経験などの総合体として判断されるべきものだと考えるようになりました。

そういったことを踏まえて、こんな大学入試があっても良いのでは?↓



【問い】
あなたに4年間時間を与える。その時間で自由に自身の望む学問・技術を極めなさい。

あなたが欲する知識や技術・環境は、国内外問わずすべての大学の教授やその他の人物に直接接触・交渉し、構築するものとする。

(※各大学や全世界のそれぞれの国民にはこのシステムについて通達済みである)

その過程で得た知識・技術・人脈・他者への影響をもって、卒業証書とする。



極端かも知れませんが、心ある人間にとってはこれでかなりテンション上がるはず(?)です。

自分も昔は受験勉強の鬼?みたいに、「目標=大学合格→良い就職→良い人生」と、判で押したような現代的理想を目指す思考をしていたために、案の定、目標を見失ってしまった経験があります。

学校の勉強をする前に、「良い人生とは何か?」について徹底的に考える時間があれば良かったな、と今更ながら思います。

人間はもともと心や精神を高めて、他に影響を及ぼしながら生きていく生き物です。

それらの心や精神を評価されない家庭環境や学校、社会環境では、如実に人々の心は死んでいくことになります。

大人も子供も、人間はいつだって精神的な利他行為における正当な評価が最高に嬉しいものです。

心が備わっていれば、ルールなんて無くたって悪いことはしないでしょう。

心を育てることを最優先としないで、モノや法でしばろうとする社会の末路は、人間のロボット化、ということなのでしょうか。



これからも「人間」や「精神」、「心」について探求していきます。
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今日は小沢さん問題を考察。

またここ最近になって騒がれている小沢さん陸山会政治資金規正法違反問題についてですが。

超簡単に考察します。



すでに二度に渡って小沢さんは嫌疑不十分で不起訴になっているにも関わらず、それをほじくり返してはいろいろやっている模様。

はっきり言って何やっているかわからないです。

不起訴になったということは、東京地検特捜部の全力の捜査でもその嫌疑内容がわからなかったということ。

捜査のプロが全力で行ったにも関わらず、その捜査結果を不服と訴える市民団体って何?

例えて言うなら、自動車修理工場に行って、

ある客「自分の車、動くんですけど、何かおかしいんですよねぇ」

整備士「では全体を点検しますね」

数日後…

整備士「何の問題もありませんでした、大丈夫ですよ」

ある客「え〜、でも何か変なんだよねぇ…もう一回調べてみてくれます?」

整備士「…わかりました」

数日後…

整備士「本当に何の問題もありませんよ、大丈夫です」

ある客「うーん、でもなぁ…もう一回調べてみてくれます?」

整備士「…」

といったやり取りのようなものです。

最後の晩に整備士が仲間と近所の居酒屋で、

「ほんと変な客がいて参ってる…」

という話をしたら、その整備士に同情しない人がいるでしょうか?



しかし、マスメディアはこのような報道の仕方はしていないのが現状です。

また、他の問題視している民主党議員や自民党議員、テレビのコメンテーターはそろって、

「政治とカネの問題を明らかにしなければ!」

とか言って、それを明らかにしようとして不起訴にしている東京地検特捜部の仕事をなめている?とも取れるような言い方は依然として変わりません。

これはいったい何なのでしょうか???



話を変えて。

問題が発覚してから、捜査や国会での批判、メディアでの報道など、この問題には膨大な人が関わっています。

その膨大な人たちは国会議員や検察官などの公職、またメディアなど民間企業も含めて、みんな仕事として関わっています。

関わっている間は、人件費や諸経費など、膨大なお金がこの問題について費やされています。

公職の人はもちろん、この問題に関わる仕事は、税金から支払われます。

2009年末から1年半の間、それらの人件費が費やされ、最後はまた不起訴。

さて、これらの総額はいくらなんでしょうか???

問題の対象となっている額を超えていたら???



そういった偉い人たちは、学歴もありますし、有能であるからこそそういった立場になっていることと思います。

本当に有能ならば、誰かが、

「そんな無駄遣いや国会の空転はやめて、国民のために使いなさい」

とでも、すぐなると思うのですが、そうならない。

不思議なものです。



これらのことは何でなのだろうか?

そういったことに気付いて、

「ではどういうことなんだろう?ではどうすればいいだろう?」

と自分で真剣に考え始めたとき、本当の生が始まります。
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革命を起こすなら。

最近中東での民主化?革命が軒並みニュースの話題となっていますが。

ざっくり考察してみたいと思います。



・なぜデモが起きたのか?
→悪政による民衆の不満が頂点に達したから。

・なぜ悪政が行われたのか?
→国家組織というものは、基本的に利権・汚職で腐敗するのが歴史の常だから。

・なぜ人間は利権を持つと汚職で腐敗しなければならないのか?
→仏教では、人間には「貪瞋痴(とんじんち)の三毒」という、欲望、怒り、愚痴(迷い)があるから。

・なぜ人間には欲望、怒り、愚痴(迷い)があるのか?
→過去世の悪業(カルマ)が精算されないまま生まれてきているから。

・なぜ人間は過去世の悪業(カルマ)が精算されないまま生まれてきているのか?
→過去世の悪業(カルマ)が精算されないままの魂は、必ず地球に生まれるようになっているから。



…ちょっと考察の規模が壮大になってしまいましたが(笑)

とりあえずここでやめておいて。

別な視点で考察します。

今回エジプトでの革命のデモに参加した人数はおよそ100万人強です。

そしてエジプトの人口は全部でおよそ8300万人。

民主化運動参加者はざっくり1%強です。

もちろん、その他のエジプト国民も不満を持っている人は多かったと思いますが、全員というわけではないでしょう。

今回のエジプトの革命では、政府が徹底的な弾圧を行わなかったので、デモ参加者に死傷者が出る程度でした。

しかし、リビアのように空爆までする弾圧があった場合、デモ参加者以外の人々にも被害があったかもしれません。

(ライフラインや交通機関への影響だけでも被害があったと言えるかもしれません)

もしそれほど不満もなく静かに暮らしていた人々がこれらの被害にあった場合、そのデモは正しかったと言えるのでしょうか?



単純に言えば、国民に不満が無ければデモは起こらなかったはずです。

では、不満とはどこから来るのか?

仏教では十二因縁として、

無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死

という流れがあります。

簡単に言えば、無明を断じて光明に転ずればすべての問題は解決するのですが、それは悟りの世界のためはるか遠くです。

なので、普通の人々は最後の「老死」に脅えて生きていることになります。

いわゆる「死にたくない」ということです。

すべての不満はここからやってくると思われます。



では「死んでもよい」と思えるというのはどういうことなのか?

「命は大切です」という言葉の裏には、「自分は死ぬのは嫌だから、あなたが死ぬのも嫌だ」という意味が込められています。

もちろん、自殺を勧めるわけではありませんが、「死んでもよい」というのは、宇宙の摂理からすると当たり前のことなんです。

いつ何時何が起こるかわからない状況で、「死ぬのは嫌だ」と言ってみても、やがて誰にでも死は訪れます。

その宇宙の摂理をただ受け入れると、自分の死も他者の死も受け入れられるようになるのでしょう。

(それは極論だ!と言う方もいると思いますが、自分も今の段階では極論のような気がします)

いつか死ぬ、という当たり前の、厳然とした事実を受け入れたとき、本当の生の事実が目の前に現れるでしょう。

そのときは、自我の執着はだいぶ減ってきているため、意識が外側に向くでしょう。

そこで初めて、他者や自分を取り巻く世界の実相に触れ始める。



仏教では、正しい道を歩むための道が3つ用意されています。

声聞(仏の教えを聞く)、縁覚(自分の身の回りの出来事から物事を悟る)、そして先日の華厳経の菩薩です。

華厳経のところでも書きましたが、特に菩薩は衆生救済の大願を掲げたときから、あらゆる恐れから抜け出します。

菩薩の歓喜地の中では、衆生救済のためなら自分の体や命さえも惜しくない境地となります。

先の「死んでもよい」というのは、この心なしにはその言葉の重みは出てこないと思います。



死をも恐れず、宇宙の摂理に従って生きる。

ふと周りを見渡すと、その心を持っている者たちが自分たちの周りにたくさんいることがわかります。

植物や動物です。

地球上の人間の大多数は、それらの命をいただきながら(仏教では動物は禁止ですが)、自分の命を惜しむ不思議な生き物です。

このことに気づいた人々は、歓喜とともに菩薩道へまい進し始めるでしょう。



…いつもながら文章が散らかりますが(笑)。

まとめると、この動乱の世界の中で私たちが出来ることは、自分の中にある不満を徹底的に無くすることです。

少量でも満足する心を持って、自分を捨てるつもりで世界と接する。

そうすれば、デモに参加する必要もなくなりますし、目の前に弾圧が訪れても、受け入れる心も起こるでしょう。

デモをするなら、ガンジーの「非暴力運動」ですね。

訴えない、怒らない、抵抗しない、淡々とした行進…これが本当の民主化運動だと思います。



革命を起こすなら、世界を変えるのではなく、自分を変える。

自戒を込めて書きました。
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第3の開国。

最近テレビや新聞で何かと話題のTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)について。

自分もまだ完全な理解はありませんが、勉強のために独自の視点からこの問題を見つめてみたいと思います。

(メモ的な内容で無駄に長いので、興味のある人だけどうぞ)



Wiki 環太平洋戦略的経済連携協定より転載

2006年5月に4カ国加盟で発効した経済連携協定であったが、2010年10月よりアメリカ主導の下に急速に推し進められる事となり、TPPの転換点と見られ参加国間で協議を行い2011年のAPECまでの妥結を目標にしている[2]。
また、交渉・締結国に日本を加えた10カ国のGDPを比較すると、その9割以上を日米2カ国が占めるため、実質は日米FTAだとの見方もある[3]。


最初、2006年5月にシンガポール、ブルネイ、チリ、ニュージーランドの4カ国間で発行された経済連携協定だそうです。2010年からアメリカが主導?というのが良くわかりませんが、その先に書いている「実質は日米FTA」とは…?



Wiki 自由貿易協定より転載

自由貿易協定(じゆうぼうえききょうてい、英: Free Trade Agreement, FTA)は、物品の関税、その他の制限的な通商規則、サービス貿易等の障壁など、通商上の障壁を取り除く自由貿易地域の結成を目的とした、2国間以上の国際協定である。




これより、「日米FTA」とは、日米間で自由貿易を行うための関税などの障壁を取り除くための協定であることがわかります。

では関税とは何のためにあるのか…?



Wiki 関税より転載

関税の機能

関税の機能は大別すると以下の通りになる。

■国家収入の確保
経済の発展段階が低い開発途上国(UC)・後発開発途上国(LDC)においては、国家財政を確保する手段として重要な収入源になっている場合がある。

■国内産業および市場の保護および振興・育成
国内企業の保護・振興や、海外から国内投資誘致のために特定の品目に関する関税率を(高く)設定する場合がある。




基本的に関税の機能は、「国家収入」と「国内産業・市場の保護」の機能しかないようです。

この関税を撤廃しよう!と考えるということはどういうことなのか?

得する人と損する人に分けて考えてみます。

■得する人

・輸出業者

これはどんな国も産業も関係なく、輸出を生業とする企業や個人がまず得をするでしょう。今まで100円のものを輸出するときに余計に払っていた10円を払わなくてよくなるので、その分今まで150円で売っていた市場価格を140円にしても損しないことになります。

・消費者

安価な海外の製品が大量に流入すれば、当然市場価格が下落しますので、その分消費者への負担が少し軽減されるかもしれません。しかしこれはあくまで輸出業者が良心的に製品を市場価格の下落に反映させた場合のみで、もし関税撤廃により上げた利益を輸出業者たち(もしくは中間マージンを得る卸売り業者たち)が自分たちのものにして市場価格に反映させなければ、当然市場価格の変動もないことになり、消費者が得することはまったくないでしょう。

・輸出業者と関係のある政治家や官僚(?)

輸出業者は関税撤廃大賛成なので、何とか撤廃するように政治家に一生懸命働きかけるでしょう。タダでがんばれ!って話も無いでしょうから、いくらか賛成派の政治家や官僚に対して口利き料なども発生しているかもしれません(これは私の妄想かもしれませんが)。

■損する人

・それぞれの国家

先にも示したように、全体的な割合は少ないかもしれませんが、関税は税金であるためにいくらか国家の歳入になります。それが撤廃されると、国家収入が削減されるわけですから、その分を何とかやりくりしなければならないでしょう。また、輸入超過に陥っていて、関税の歳入に頼っている国家は、とたんにその国家財政が逼迫する可能性があると思われます。

・国内市場や産業

これはニュースや新聞でも取り沙汰されているとおりで、自由化を進めるということは、国内産業の保護をしない、ということに他なりませんから、それらの市場や産業に対する不利益は必ず存在するでしょう。その影響力はどの程度かはわかりませんが、大規模な産業、かつ強力な輸出ルートを確保している企業でなければ、その他の産業は得をすることはまったくない、と言えるでしょう。



ここまで書きましたが、これは結局お金の問題ですので、このような問題はどうしても得する人と損する人が現れてくるのが現実です。誰も得しようとしたり損しようとしない社会では、このような問題は発生するわけも無く、現在の社会では何も問題のないところから、必ず得しようとする人たちがいろいろな活動を展開して、世界を(自分たちの良いほうに)動かそうとするものです。この問題も突き詰めていけばそういうことなのでしょう。



閑話休題。表題の「第3の開国」について。



管総理は今回のTPP締結に向けての動きに対して「第3の開国」と言っているそうです。

第1の開国を明治維新、第2の開国を第2次世界大戦敗戦後、そして今回、ということです。

皆さんも歴史の勉強をしてお分かりのとおり、1,2,3それぞれ、なんとなく「しぶしぶ開国」、みたいな雰囲気、わかるでしょうか?

どれも日本が積極的に望んで行われた開国ではない、と私は思います。



第1の開国について。

なぜ江戸時代の日本は国内の平和を維持するため、長いこと「鎖国」をしてきたのか?江戸時代にはオランダや中国、その他の国々からいろいろ貿易を迫られていた。そこでなぜ江戸幕府は自由化ではなく「鎖国」という決断に踏み切ったのか?このところがわからなければ、江戸末期の開国は意味がわかりません。



Wiki 鎖国より転載

鎖国(さこく。英:seclusion, national isolation, locked country, closed country)は、徳川幕府が日本人の海外交通を禁止し、外交・貿易を制限した対外政策である。ならびに、そこから生まれた孤立状態を指す。実際には孤立しているわけではなく、外交だけでなく貿易の権限を徳川幕府が制限・管理した体制であり、李氏朝鮮、琉球王国、中国(明朝と清朝)[1]とオランダ[2](政府ではなくオランダ東インド会社)とは交流があった。




こちらのページを見ると、徳川幕府成立から外国から様々な貿易干渉があり、徳川幕府の国内市場の安定化や輸入の制限など、奮闘ぶりが伺えます。最終的には、貿易上問題の多い国々を排除して、オランダや中国、朝鮮などを限定して貿易するという政策を行った、ということですね。

第1の開国に相当するのは、ペリーの浦賀来航からの日米和親条約の締結ですが、これは米国が日本という国を考えて開国したわけではなく、自分たちの都合で開国させた、ということは不平等条約からもわかるとおりです。

だから、今までどおりでよかったのに、しぶしぶ開国、ということになりますね。

もうひとつ興味深い部分を引用します。



Wiki 鎖国より転載

「評価」より抜粋

その反面、18世紀以降の蘭学の流行に見られるように、ヨーロッパの植民地にならなかったアジア諸国の中で、これだけヨーロッパの学問が広まった国はない。清朝中国では、北京にキリスト教宣教師団が滞在していたが、中国人の華夷思想からか、専ら宣教師が中国語を習得し、中国人がヨーロッパの言語を学習することは少なかった。李氏朝鮮では、清朝中国から間接的に西洋の技術を採用しただけである。
この点、徳川日本は完全に国を閉ざしたわけではなく、ヨーロッパでもオランダとは貿易を行っており、キリスト教以外はオランダ語を通じて自由に諸外国の情勢や最新の学問を研究できた。これが、徳川時代末期の開国(1854年)以後、日本が急速に自主的な近代化を達成し得た基盤の一つになったといえる。



先日の記事、「日本人はすごいんです。」につながるような内容ですね。海外の文化を吸収して、さらに高いレベルに昇華させるのは、やはり日本人の素晴らしい気質のひとつであるようです。


第2の開国について。

明治以降、強制的なグローバル化を迫られた日本は、皆さんもご存知のとおり軍国主義を発展させ、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦、太平洋戦争へと突き進み、最後は原爆を投下されて敗戦国となります。

ここでは資料も膨大で、かつその真偽がはっきりしないため、総論として記述します。



Wiki 第二次世界大戦より転載

「総括」より抜粋

戦勝国となったアメリカ、イギリス、フランス、ソ連は(そして戦勝国の座を中華民国から引き継いだ中華人民共和国も)その後核兵器を装備するなど、軍事力においても列強であり続けた。アメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中華民国の5か国を安全保障理事会の常任理事国として1945年10月24日、国際連合が創設された。国際連合は、勧告以上の具体的な執行力を持たず指導力の乏しかった国際連盟に代わって、経済、人権、医療、環境などから軍事、戦争に至るまで、複数の国にまたがる問題を解決・仲介する機関として、国際政治に関わっていくことになる。
だが戦勝国も国力の疲弊にみまわれた。東南アジアでは、日本が占領した植民地をアメリカ、イギリス、フランス、オランダが奪回し、宗主国の地位を回復したが、一方で、日本軍占領下での独立意識の鼓舞による独立運動の激化、本国での植民地支配への批判の高まりといった状況が生じ、残留日本人がインドネシア独立戦争、ベトナム独立戦争などに加わり近代戦術を指導するなどし、疲弊した宗主国にとって植民地帝国の維持は困難となった。また、中国における国共内戦では残留日本人が両陣営に参加するとともに共産軍の空軍設立に協力するなどした。その後1960年代までの間に、多くの植民地が独立を果たした。その意味においても、世界を一変させた戦争であった。



戦争というものは、フェアなルールから考えれば、それぞれの国の軍隊に所属する兵隊と兵器を使用して、相手国の軍隊を降伏、もしくは壊滅させるまで行うものです。

その対象として民間人が犠牲になる戦争はフェアではなく、それは別な意図があると考えたほうが良いでしょう。

日本は確かにこれらの戦争でアジア圏の国々を植民地支配してきましたし、それなりにそれぞれの国で民間人を死亡させてきた部分はあると思いますが、ドイツ軍によるユダヤ人虐殺、アメリカ軍による日本本土攻撃や、原爆の投下など、もともと戦争の目的とは関係ない行動は少なかったと思います。

第二次世界大戦後半、日本は大東亜共栄圏という、それまで欧米列強に植民地支配されていたアジア各国を解放する思想を掲げました(若干後付けの感もありますが)。それが実際に影響するのは、戦後日本の植民地支配から再び列強の支配に移ってからで、上の赤文字の引用にもあるとおり、日本人によるサポートで独立意識が芽生えた国が多かったのも事実のようです。

欧米の軍隊を撃破することでアジア諸国を欧米の支配から自国の支配へ変更し、最終的に自国本土を攻撃されて敗戦することで、結果的にすべての植民地支配を手放しそれぞれの国の独立を促す、という、肯定的な見方をすればすごい荒業のように感じますね。

そして第2の開国、いわゆる戦後のGHQへと発展していくのですが、敗戦国であるがゆえに、この第2の開国もやはり「しぶしぶ開国」ということが言えそうです。

これらのことは、もともと日本は侵略国家ではない(大戦以前にあった対外戦争は白村江の戦い(663年)、豊臣秀吉の文禄・慶長の役(1592-1598年)程度)ことからもおおよそ予想がつく流れなのかもしれません。



何だかいろいろ話が散らかってしまった感じがありますが(苦笑)。

この流れでいくと、第3の開国もやはり「しぶしぶ開国」になってしまうのか?

長くなりましたのでこの辺で。

次回はこれらの話を踏まえて、自然と現代の人間の違いについて考察したいと思います(これもメモ的)。

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マージャンに対する仏教的考察。

最近は本当に便利な世の中になりました。

携帯電話のちっちゃい小窓でいろいろゲームが出来たりします。

自分もたまに気晴らしに、携帯の無料アプリのマージャンゲームをやったりします。

マージャンをあまりわからない人は、今回の記事はてきとうに読み飛ばしてください(笑)



マージャンを簡単に説明いたしますと、マージャンは基本的に4人で行われ、最初に配られた14のハイから始まり、それからは親から順に山からハイをひとつずつ取り、いろいろ構成を変えながら手役を作り、一番早く完成させた人があがり、となるゲームです。

マージャンゲームをやっていてふと、これは人の人生と一緒だな、と感じてこの記事を書いております。



最初に配られる14のハイは、その人が生まれ持った業や個性、とでも言えるでしょうか。

最初からいきなりあがっている天和(テンホー)や地和(チーホー)は、生まれ持って天性の才能とその歩むべき道が決まっているような人とも言えるでしょう。

またそうでなくてもちょっと良いツモ(運)があれば良い手役になる配パイの人は、早めにあがれる(恵まれた人生を歩む)でしょう。

逆に、配パイの段階でバラバラになっていて、完成させるには相当な良いツモ(運)と読み(努力)をしなければあがれない配パイの人は、その局(人生)ではあがれないかもしれない(なかなかうまくいかない)でしょう。



次に、巡目の流れについて。

マージャンでは運の部分(良い配パイや良いツモ)がかなりの割合でもありますが、それよりもっと大事なのは、最初に与えられた配パイからどのような手役を完成させるか?自分の現在の点数の具合から、どのような立ち回りをすれば最終的な勝利を得ることができるか?が長期的な強さの秘訣となっております。

なので、最初に与えられた配パイを冷静に見つめ、現在の状況にもっともふさわしいパイを次々と切っていく人が本当に強いマージャンを打ち、実際に最終的には勝利します。

ツモの流れにはいろいろあります。

役ハイでドラの中(チュン)が最初に1枚あったとして、状況的にいらないから切ったあとに、2枚連続して中(チュン)をツモってしまったとき。

こんなとき、「あぁ…切らないで取っておけば良かった…」などと考えて過去を後悔したりするでしょう。

でも巡目は次々と進んでいく。

その後悔の動揺で、冷静に次のハイを捨てることが出来なくなってしまうと、またあがりが遠のいていくでしょう。

逆に、役ハイでドラの中(チュン)が1枚あったとして、「いつか中(チュン)をツモって鳴けば、それだけで満貫だ!」と欲を出し、いつまでもツモれない中(チュン)に執着していて手役を進めることが出来ない、ということもあると思います。



更に、相手の捨てハイが完全に一色手であることがわかるときに、早い巡目でリーチをかけられたとき。

これはとてもじゃないけどフリこめないぞ、とばかり考えて、自分の手役を進めることにビビってしまうこともあると思います。

このように、過去や未来、他人の様子に対して過剰に執着して、現在の手役への判断が鈍ってしまう、ということは人生にも言えることのように感じました。



更にマージャンで大切なことは、その局の最終局面において、自分の手役がまとまらないときに、「相手にフリこまない(おりる)」ということも大事になってきます。

何も考えず、自分の手だけを進めようと、いらないハイをどんどん捨ててしまうと、すぐに相手にロンされます。

「損して得取れ」という言葉もありますように、マージャンでは、相手の捨てハイから相手のあがりの待ちを読んで、更に慎重にハイを捨てる、というこの最終局面の判断が重要になってきます。

人生でも相手をよく観ずに自分の好き勝手やっていると、うまくいくこともありますが、最後に足下をすくわれてしまう、ということと当てはまるような気がします。



自分の目指した手役が失敗することもあるでしょう。また、予想外のツモで手役が完成することもあるかもしれません。

しかし改めて申しますと、最初の配パイ(各個人の業や個性)に関わらず、もっともマージャンが強い人は、その配パイ(自分の業や個性)を受け入れて、ツモ(時の流れ)により自分の手役を最も最適にしようとする冷静な意志(人生における意志)を持ち、相手の捨てハイにも気を配り(他人を意識する)、あがりを目指す人、ということが言えると思います。

そのような人は、常に得点や局など全体(世界全体)を意識して、自分がどのようにして勝利するか?(極解ですが、自分が為すべきことを為す)に最後まで集中しているでしょう。



そのような態度でマージャンや人生に取り組めたら素晴らしいですね。

以上、マージャンを知らない人には何だかよくわからない記事でした(笑)

書いてて思ったのですが、これはマージャンに限らず、トランプや将棋、囲碁などのゲーム、ひいては野球やサッカーなどのスポーツというゲームにも当てはまるような気がしてきました。

ある人は「人生はゲームである」と言ったりしてますが、このことか?!
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誕生日!

あれから33年の月日が流れたんですねぇ…ほんと早いもので!

いろんな想いもありますが、自分らしい流れだったような気がします。

これからも自分らしい流れで、時は流れていくと思います。



軽く過去の誕生日を迎えた自分たちと個人的に会話をしてみたんですが(イメージですが)、その辺はさすがに自分なので意外と寛容な意見が多かったように思います。

未来の自分たちとの会話はこれから。今も常に会話しているしね。




いろいろたくさんのメッセージありがとうございました!

これからも命を削ってでも、良い歌創っていきます(^^*)
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悔しがる。

それは小学校3年生の秋のことだった。

その年の春から始めた剣道。先に始めていた兄の影響だった。
これといった目的もなく、とりあえず始めてみた感じ。
練習で打たれる小手がとても痛くて、泣きそうになりながらやっていた。

その秋に、自身初めての大会。
一級下の、身長差は20cmにもなろうかという小柄な相手。

試合直前、何故だかそのとき自分は、

「可哀想だ」

と思ってしまった。

体の大きな自分が、その子に対して打ちのめす姿が、何とも不恰好に見えた。
それだけはしたくないような気がした。

試合が始まる。

試合前にそのように感じた僕は、自分の気持ちの通り、積極的に攻勢に向かうことはしなかった。
相手は小柄ながら、真剣に攻めてくる。

もみ合っているうちに、相手の竹刀が僕の胴を叩いた。

負けた。

でも、それでいいと思った。

試合後、見ていた人たちは、「なんでしっかりやらないんだ」と口々に言った。

それでも何も悔しくなかった。

その結果が本心だったから。

しかし、それはやさしさでも何でもなく、己と対峙することの放棄であることは、そのときはわからなかった。



次の春、僕は剣道をやめた。

そのことをその後家族からは「弱虫だ」などと、いろいろ言われた。
実はその方が悔しかったが、自分の心にウソをついてその「弱虫」を受け入れた。



この一件は、その後の自分の人生に大きな影響を与えた。

何と言っても、あらゆることに負けやすくなった。

学業、仕事、恋愛、趣味、などなど、問題が起こると、すぐに自分のせいにして負けた。
それが円満な解決方法だと信じて疑わなかった。

残念ながら僕は、高校卒業まで世間的に尊重される学業では負けることは無かった。
これがその後無駄なプライドとして、更に苦しみを複雑なものにしていった。

その小学校時代から思想の根底流れるものは、なかなか変えることが出来ない。

「あらゆる場面において、自分に正当性はない。相手が正しいだろう。」

しかし、それは何の解決にもならず、心の苦しみは日増しに増大することになる。
その範囲は、自分だけではなく、周囲の人を巻き込む形となることは時間の問題であった。

そして、それは歪曲された形で現実となる。

それは、何もないところで、自分が正当性を崩すことで、その形に当てはめるようになったことである。



満たされない不浄の心は、安易に実現可能な欲望を求める。
世の中には、そのような欲望を満たすことで、自分の正当性を崩すツールに溢れている。
刹那的な欲望を満たす生活は、ひとつひとつ、階段を下りるように人生に暗い影を落としていく。
いわゆる、「畜生道を中心とした餓鬼道、地獄道の三悪道」、である。



改めて、「負ける」ということはどういうことか?を考察する。
野生動物は繁殖期に、メスを自分のものにするために、オス同士で争う。
この争いに勝った者が修羅としてメスを受け、負けたものが畜生として野に下る。

人間社会はその社会の作り方によって如何様にもなるが、
現在の資本主義社会は、基本的に「修羅」の世界である。
畜生に落ちやすい人間は、途端に脱落する社会である。



再び、剣道の話に戻ると、スポーツとは擬似的な修羅の世界である。
ルールがある以上、勝敗が決まる。
勝敗が決まる以上、修羅と畜生が決まる。

しかし、試合前にはお互いは、勝つために行うのが修羅の世界である。

自分は小学校3年生のそのとき、どうだったか?

試合前から負けることを想定していた。

要するに、試合前から畜生の命が働いていたのである。



自分は何に負けていたのか?

「自分」にだ。

ルールがある以上、スポーツに取り組むなら修羅の命で望まなければならない。
そこで畜生の命で望むということは、すでに試合放棄していたことに他ならない。

これは資本主義社会でも同じことが言える。
社会のあらゆる場面で、勝負の前から畜生の命によって試合放棄することは、三悪道に落ちることを意味する。
物事に取り組む時には、まず自分というものに修羅の命を燃やしていなければ、あっという間に畜生に転落するということだ。

勝負の世界では、試合前に勝利することはコントロールできない。
しかし、負けることはコントロールできる。
畜生道の命がないのなら、試合前から負ける理由を探す必要はまったく無い。

このことを腹の中に落とし込んでおけば、あらゆる場面で自己に対する「悔しさ」という修羅の命が燃えてくるだろう。
これが無い、ということは、畜生の道を歩んでいると言っても過言ではないだろう。



自分の意図しない結果に対して、「悔しさ」があるか?

畜生道からの脱却には、これが不可欠な感情だと考えている。
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トイレの神様。

トイレの神様/植村花菜
トイレの神様 YouTube

植村花菜 Official web site


2010年3月10日に発売された植村花菜 MINI ALBUM『わたしのかけらたち』の6曲目に収録されており、11月24日にはシングルカットされるとのことです。巷ではたいへんな反響らしく、YouTubeの再生回数から見てもその世間の関心度の高さはスゴイものがありますね。

曲は最近の曲の中ではずいぶん長いですが、そのやさしい歌声と歌詞のストーリー性は、世代を問わず訴えかける内容でとても良いですね、泣けますね。意外と3拍子。曲のストーリー構成は、幼年期(仲良し)→思春期(反発)→青年期1(喪失・自戒)→青年期2(感謝)という美しい流れです。反響が大きいということは、みんなやりたいけど出来ていないことだったりするんですね。自分に至っては厳格な(?)核家族だったので、おばあちゃんとの思い出がほとんど無いだけに、前半の心の交流は単純にうらやましかったりします。そういう人も多いかな?

タイトルにもあるように「トイレにはエラいベッピンさんの女神様がいるから、トイレをピカピカにすると自分もベッピンさんになれるんやで」という、少女にトイレ掃除をさせるためのおばあちゃんの細やかな方便を主題としてストーリーが進んでいきます。こう言われると、掃除嫌いの子供や大人も掃除に対して前向きになれるでしょうね。大人の人がそれからベッピンさんになるには、かなり別な意味のテク?が必要になるかもしれませんが(笑)。

ここで、「掃除」というものを、別な観点から再考したいと思います。

宇宙を取り巻く自然というものは、生成・消滅を繰り返しております。別な言い方では創造・破壊とでも申しましょうか。「創造」と聴くとクリエイティブでポジティブ!なイメージ、「破壊」と聴くとデストラクティブでネガティブ…なイメージ、を持つ方も多いと思いますが、宇宙・自然からするとどちらもそういった二元性のイメージは無く、粛々と自然のあるがままに動いています。

人間のみのイメージとして、「創造」という名の物づくりの行為は発展的・未来的・活動的であり、「破壊」という名の元に戻す行為は停滞的・過去的・消極的であると感じます。多くの人が同じように感じているのではないでしょうか。

では、「掃除」という行為を考察してみますと、創造か破壊か?と考えると「破壊」であり、別の言葉では「浄化」という分解・廃棄・整理というような言葉で置き換えられると思います。このような言葉を聞いたら、「苦手だ」と思う方が多いと思います。自分も苦手です。

再び宇宙・自然に戻りますと、生成・消滅、もしくは創造・破壊というものは常にバランス良く行われている行為であり、自然にとってはどちらも重要であり得意です。全体として美しいサイクルを描いています。

このことを考えると、人間の勝手なイメージで「創造」を善、「破壊(浄化)」を悪(面倒・金にならない)と考えるため、「創造」ばかり優先されると現代のような「大量消費社会」になり物が溢れかえるようになります。「創造」側である工業製品大量生産や建築物は、いらなくなったときのことを考えて創っている会社や人はどれだけいるでしょうか?例えば缶ジュースを例にすると、飲料メーカーで大量に生産され各地で消費され、回収はそれぞれの自治体が行う。出来るところと消えるところが違うわけです。

近年のリサイクルの発展により、多くのものが再利用されるようになりました。それでもモノは増える一方のような気がしています。自分もイザ掃除!と取り組もうとしたときに、必ずと言って良いほど自分が所有するモノの多さに毎度愕然とします。これからはなるべくモノを増やさないようにしたいものです。

少し話はそれましたが、戻って宇宙・自然から見ると、創造・破壊は同列。どちらもポジティブな活動です。ここで、「掃除」というものも、そのように非常に重要でポジティブなもの、と捉えてみてはどうでしょうか?

Wiki 天(仏教)

仏教では三界(欲界・色界・無色界)にそれぞれ神様がおり、全部で28天あります。三界について下から簡単に説明すると、欲界は物質的な欲望を持つ神がおり、色界は物質的な欲望は離れた神、無色界は物質から完全に離れた精神の神がおります。

仏教では物質的な創造は、欲界の六欲天によるものです。破壊、いわゆる浄化は、色界第四禅定の浄居天が対応します。

これはどういうことかというと、仏教においては、人間にとって物質的な創造は、物質的な欲望の神から来るものであり、それを浄化することは、物質的な欲望から離れた上位の神によって行われる、ということです。

このことから、人間は本来的に、創造する者よりも浄化する者の方が、精神的に優れているということがわかります。モノを創ることよりキレイにするということは、とてつもなく素晴らしいことなのです。なので、掃除すること・掃除する人はとても崇高な行為であり、行為者である、と仏教は説いているのです。

これから年末の大掃除など、掃除をするという方は、このことを頭の片隅に置いておきながら掃除に取り組んでみてください。きっと面倒くさがらずに誇りを持って取り組めるようになると思います(^^)

以上、トイレの神様より、掃除についての思索コラムでした。
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