おっさんひとり犬いっぴき

アベさんと黒犬トトのノンキな日々

地獄の季節

2017-06-16 10:48:10 | 日記

 漫画家の水木さんが、出征することになり、エッカーマンの「ゲーテとの対話」を持参する。戦争という異常な状況下で、いつ命を落とすかわからない中、自分の生きる意味という哲学的問題を解決しないことには、死ぬ覚悟はとてもできなかったという。

 おそらく若者は、古今東西いつの時代でも悩み続けるものである。逆に言えば、悩みなんて持たなくても生きていけるような安全安心な世の中になったとしても、悩みをいくらでもひねり出すことができるのが、若者の特権とも言えるだろう。

 昨日、本屋に寄った時に、予定になかったランボーの「地獄の季節」(小林秀雄訳)を買った。百ページちょっとの薄っぺらな本だが、その昔、いかに行くべきかという凡庸な悩みを抱えてウンウン呻っていた僕が、ある日偶然に手に取り、そこからのめり込むように本の世界に埋没して行くことになるきっかけとなった。

 小林秀雄も別のところで、若い頃に古本屋をぶらぶらしている時に、薄っぺらな「地獄の季節」という本を手に取り、そこにとてつもない時限爆弾が仕掛けられていたことに驚愕したという話を書いている。

 人は若い時に受けた影響からなかなか逃れることはできないが、都合良く忘れてしまうことはできる。若かった僕が抱え込んだ人生の一大事も、日々の雑用にすっかり埋もれてしまい、生きる意味よりも夕飯のおかずのほうがより重要な問題になってしまった。

 久しぶりにページをめくると、そこには当時と同じ動悸が激しくなるような扇動的な文字が並ぶ。「俺は正義に対して武装した。俺は逃げた。ああ、魔女よ、悲惨よ、憎しみよ、俺の宝が託されたのは貴様らだ」「突然、俺の眼に、過ぎて行く街々の泥土は赤く見え、黒く見えた、隣室の燈火の流れる窓ガラスのように、森に秘められた宝のように」「もう秋か。──それにしても、何故に、永遠の太陽を惜しむのか」

 かつては、何を思ってこういう文章に接していたのか、もう思い出すことはできない。思い出すのは、こういった詩句に染み付いた、僕の青春時代だ。

「また見つかった、
 何が、永遠が、
 海と溶け合う太陽が」

 有名なフランスの映画監督ジャン=リュック・ゴダールの映画「気狂いピエロ」のラスト、主演のジャン=ポール・ベルモンドがダイナマイトで自殺するシーンで、その直後にスクリーンに流れるセリフがランボーのこの詩句だった。今ではこの詩句に触れても、そんなことしか書くことが思い浮かばない。

 

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