阿倍野じゆう録

このページは、阿倍野を様々な角度から紹介していくページで す。『時と遊んだり(時遊)、路と遊んだり(路遊)、耳で遊ん だり(耳遊)などなど』様々な楽しみ方を紹介していきますので お楽しみに。

阿倍野駅名由来ーその3−

2004-06-07 02:24:02 | 阿倍野地名録
金塚
金塚とは、昔、この辺りに金塚と言う古墳があったことに由来する。大伴金村の墓と言われているが不明。
天王寺村時代は「きんつか」で、今は「かなつか」と呼ぶ。金の装飾品が古墳を発掘した際出てきたので金塚という。

吉野通
開通日が明治四四年四月四日で、全て四だったので、「四四野通」>よしの通となる。

高松
天王寺村の小字。一本の高い松があったのが由来。

源ヶ橋
源ヶ橋は、猫間川にかかっていた橋である。現在は、猫間川が埋め立てられいるので橋はない。2度目の橋の欄干(らんかん)は、源ヶ橋温泉の前に今も保存されている。源ヶ橋は、2度架橋された。最初は、和気清麻呂の難波堀江を開削した際、堀江にかけられたと伝えられている。2度目に架橋に関しては、悲しい伝説が残されている。摂陽群談によると、江戸時代に源兵衛という名の男がいた。源兵衛は、奥さんと息子がいたが毎日仕事もせず酒ばかりを飲んでいた。あまりの姿に、奥さんは息子を抱えて家出した。家出して、初めて心を入れ替えた源兵衛は、猫間川で渡し舟の船頭の仕事を始めた。ある日、若い男が源兵衛が仕事してる船に乗り込んできた。見るからに金を持っていそうだったので、源兵衛は、その男を殺して金をパクった。その際、男の財布のなかに源兵衛が見慣れたものが出てきた。それは、離婚した際に、息子に渡した根付けだった。殺した若い男とは、自分の成長した息子だったのだ、、、。源兵衛は、それを知り泣き叫んだ。そして、彼は出家した。彼は罪滅ぼしに、渡しに橋をかけることにした。完成した橋は、いつしか源兵衛橋と呼ばれ、源ヶ橋といわれるようになった。

常盤(ときわ
阿倍野街道に、松が多く常に緑が多いので常盤と呼ばれるようになった。
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阿倍野駅名由来ーその2−

2004-06-07 02:20:59 | 阿倍野地名録
天王寺駅前(阪堺上町線)
天王寺駅前とは、その名のとおりJR天王寺駅前に停留所がある。
開業は、大正10年(1922)であるが、阪堺上町線自身の開業は明治33年(1901)にさかのぼる。最初、大阪馬車鉄道として天王寺西門前ー天下茶屋間で開業した。明治41年(1909)に、馬車から電車に置き換えて浪速電車軌道と改称した。明治42年(1910)に南海鉄道と合併し南海上町線となる。大正10年(1922)に現在の状況となる。昭和55年(1980)南海から分離独立し阪堺電気軌道となる。開業当時の停留所は、常盤通,阿倍野,中道,東天下茶屋。

阿倍野(阪堺上町線)
阿倍野は、創業当時からの停留所である。大正3年(1915)−昭和55年(1980)までは、南海平野線との乗換駅だった。南海平野線は大正3年(1915)今池ー平野間に開通した。沿線は、最初田園地帯だったが、文教地区となった。阿倍野区内には、阿倍野,苗代田,文の里,股ヶ池の4停留所が存在した。昭和55年(1980)地下鉄谷町線延伸により南海平野線は、65年の歴史を閉じた。文の里駅の明浄通商店街前に由来版がある。
松虫(阪堺上町線)
松虫とは、松虫塚に駅名を由来する。松虫塚の伝説については、阿倍野の伝説を参考にしてください。

東天下茶屋(阪堺上町線)
天下茶屋は現在西成区領になっているが、昔は天王寺村の領内で阿倍野と同村だった。天下茶屋とは、一般的に殿下茶屋(でんかちゃや)が転化したと考えられている。殿下とは、太閤秀吉である。伝説によると豊臣秀吉が住吉参詣(堺の政所に行く最中と言う説もあり)の途中、天神之森ほとりにあった芽木家に憩い茶を召した。その際随行していた千利休がこの地の名水を使い茶を立てたところあまりのおいしさに秀吉は、絶句した。我に返った秀吉は、この泉に「恵みの水」と名を賜り玄米30俵の朱印を与えた。それ以降、天下茶屋と称した。天下茶屋こと芽木家(めき)の屋敷は、戦前まで偉業を誇っていたがたくさんの宝物もろとも戦災で焼失した。
なお、天下茶屋にもう一つの名物として是斎屋の和中散という薬があった。和中散は、ドリンク剤だった。主成分は、チンピ(陳皮=みかんの皮)とせんぶりで、煮出して使うものだった。これを、道行く人に無料で提供していた。和中散といえば、草津の和中散が有名だが、天下茶屋是斎は分家である。明治に入ると廃れてしまった。


北畠(阪堺上町線)
北畠顕家卿が延元3年(1338)に、阿倍野合戦において北朝方高師直(こうもろなお)軍に敗れた後、和泉石津原で戦死した。後に、江戸時代になって並河誠所(なみかわせいしょ)が、北畠顕家卿の墓を現地の人が大名塚とよんでいた場所に石碑を築き、墓所として整備した。北畠は、それ以降このあたりの呼称となり、後に地名、駅名となった。


姫松(阪堺上町線)
古来から岸の姫松として有名で、数多くの歌に詠まれている。元々は海岸線が、この松原の手前まであり松林になってた。今は、住吉高校のグランドに5本が残っている。この状況は、江戸時代から問題となっていたようで狂歌川柳に詠まれてる。
住吉の 新田ふえて 年年に あとずさりする 岸の姫松 大田南畝(蜀山人)
我見ても 久しくなりぬ 住吉の あとずさりする 岸の姫松 鯛屋貞柳

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阿倍野駅名由来ーその1−

2004-06-07 02:17:39 | 阿倍野地名録
阿部野橋(近鉄南大阪線、大阪市バス)
阿部野橋駅は、元天王寺村字阿部野にあったので区名と違い「部」の字を用いている。そもそもこの駅が出来たのは、大正12年(1923)の春に大阪鉄道が道明寺から西へ16.5km新線を開業したことに始まる。
開業当時は「大鉄天王寺」と称したが、翌年に現駅名に変更した。
昭和12年に、大鉄百貨店(現近鉄阿倍野店)を開業した。大鉄は、昭和18年(1943)2月に、関西急行電鉄に合併された。その後、関急は昭和19年(1944)6月に南海と合併した。社名を近畿日本鉄道とした。昭和22年に旧南海を分離し近畿日本鉄道が再発足した。駅名の由来は、庚申街道にかかる阿部野橋に由来する。阿部野橋は、和気清麻呂が造った難波堀江川をまたいでいた。大阪市バスの「あべの橋」バス停が出来たのは、昭和2年(1928)2月に阿部野橋ー平野間に市バスが初開通した時である。

河堀口(近鉄南大阪線)
駅名は、「かわほりくち」ではなく「こぼれくち」と読む。難読駅名の一つ。延暦7年(797)和気清麻呂が、洪水対策と農地かんがいのために旧大和川の付け替えと新放水路を築こうとした。上町台地のくびれとなっている堀越神社から河堀口まで、新路を築き水を上町海に流そうとした。上町海とは、当時新世界より向うに広がっていた海のことである。30年かけて完成を目指したが失敗し跡に湿地が残った。ここは旧名に、古保礼(こぼれ)と呼ばれていたが、いつしか河堀とかいて「こぼれ」と読むようになった。江戸時代は歓楽地として有名で、小山があり花見や蛍の名所として有名だった。摂津名所図会にも小堀口松屋亭が掲載。

天王寺
(JR環状線、阪和線、関西空港線、関西本線。地下鉄御堂筋線、谷町線。)
駅から北に15分歩いたところにある和宗総本山四天王寺に由来。
開業は、明治22年(1890)5月14日である。大阪鉄道(上の会社とは別会社)が、湊町(現JR難波)−柏原間を開通した際天王寺駅を置いたのが始まりである。ついで、城東線(天王寺ー玉造ー大阪)が明治28年(1896)に乗り入れてきた。城東線は、環状線のご先祖に当たる。それから、南海が天王寺支線を開通し明治33年(1900)に天王寺駅を開設した。ついで、JR阪和線が阪和電鉄という私鉄として昭和3年(1929)に乗り入れてきた。そして、阪和天王寺駅を開設した。阪和電鉄は、昭和15年(1940)南海と合併し南海山手線となるも昭和19年(1944)に国有化された。ちなみに、大阪電鉄は明治33年(1901)に関西鉄道に合併され明治40年(1908)に国有化された。昭和12年(1938)に、御堂筋線天王寺駅が開業した。谷町線の天王寺駅は、昭和43年(1968)に開業した。そして、平成4年(1993)南海天王寺支線は廃止され、南海天王寺駅は廃止された。

美章園(阪和電鉄ー南海山手線ーJR阪和線)
名の由来は、町名由来その4「美章園」を参考にしてね。

南田辺(阪和電鉄ー南海山手線ーJR阪和線)
田辺村の南に位置するので、南田辺と云うのが駅名の由来。

鶴ヶ丘(阪和電鉄ー南海山手線ーJR阪和線)
長居公園内にあった四発山(しはつやま)と言う丘に鶴が多く飛来していたのが名の由来かといわれているが詳しくは不明。

寺田町(国鉄城東線ー大阪環状線)
聖徳太子が四天王寺を創建した際に、別に「悲田院」「敬田院」「施薬院」「勝鬘院」の四院を築いた際、寺の田として開設した田があったことが、名の由来。
開設は、昭和7年(1933)。
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阿倍野地名録ーその3−

2004-06-07 02:12:12 | 阿倍野地名録
長池町
長池が町名の由来。長池は、上町台地と我孫子丘陵の間にあり猫間川とつながっていた。明治初期までは、長池と桃が池はつながっていた。長池公園は、昭和3年(1929)に竣工した。長池のほとりにある舗装歩道は、日本初のものである。ほとりに、大正13年(1924年)シャープの基となる早川電機が早川徳次によって開業した。一説によると、大昔に、長居池と呼ばれる住吉大社から阿倍野まで広がる巨大な池があった。長池や桃が池や長居公園の中池は、その痕跡だといわれている。

桃ヶ池町
桃ヶ池、股ヶ池、百池、脛池など当て字が多いが、全て同じ場所を指している。明治、大正年間までは、股ヶ池と称されており、南海平野線(廃線)の駅名も「股ヶ池」だった。桃が池の名称由来として、摂陽群談に次のような話が載っている。昔、推古天皇の御世に大蛇がこの地に住み着き大勢の人を苦しめていた。そこで、村民代表が、聖徳太子に「大蛇をなんとかしてください。」と、嘆願しに行った。太子は、早速使者を、大蛇退治に向かわせた。使者は、池に到着したが、濁っているので深さがわからない。心無い村民が、「この池は、とても深いから池中に入ることは出来ない。」といったが、入ってみるととても浅くて股までしか水深がなかった。使者は、太子に授けられた呪文を唱えながら、宝弓を引き絞り、御神矢を放った。神矢は、狙いたがわず大蛇の眉間のど真ん中に命中した。大蛇は、ひとしきり咆哮を上げたが、やがて静かになり息絶えた。それ以降、この池を股が池と呼ぶようになった。明治の頃は、北と南に分かれていた。貸しボートもあり、月見の名所だった。昭和8年(1934)に、現在の形に池を整理し公園化された。そして、地名も「股ヶ池」から「桃ヶ池」に改称された。

西田辺町
江戸時代から大正時代までは、猿山と言われていた。田辺村の西方にあるので、西田辺と改称した。明治末期まで、典系的な田園地帯であった。田辺大根や天王寺蕪などを栽培していた。また、牧場もあり牛乳工場があった。天王寺かぶらは、野沢菜の元になった品種で、干しかぶらが美味だった。
「わしの母さん 天王寺蕪青(てんおうじかぶら) 色が白うて 背が低い(古代の里謡)」

美章園(びしょうえん)
大阪の財界人で有名だった山岡順太郎の父,山岡美章が、大正時代に美章土地株式会社を設立し宅地開発を行い、美章園と名付けて売り出した。その後、地名として採用された。
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阿倍野町名録ーその2−

2004-06-07 02:08:52 | 阿倍野地名録
丸山通
昔、この地に上町台地古墳群の一つである丸山古墳という古墳があったので、地名はそれに由来する。小さな墳丘で老松が茂り宝冠型石塔が丘上にあった。1923年に発掘されたが、今古墳は碑を残し消滅している。理由は、この古墳の土が鋳物型に適していたのでイギリス海軍工廠(こうしょう)が購入し持ち帰ってしまったからである。その際、石棺や香炉などの副葬品がたくさん発見されたが、当時、考古学はマイナーで残念ながらどこかに消え去った。

帝塚山
帝塚山古墳にちなむ。帝塚山1丁目しかなく、2丁目以降が無いという不思議な地名である。(住吉区にもあるが中、東、西にわかれている。)帝塚山古墳は、もと大手塚と子手塚の2古墳あった。現存するのは、大手塚のほうである。小手塚と大手塚前方部は、切り崩されてしまい今はない。手塚山が帝塚山に変わった時の話として、明治31年(1898)11月に、明治天皇が、陸軍大演習を望見したのがこの場所でそれに記念して改称したとあるが、それは、間違いで江戸時代に書かれた「摂津名所図会」にその名が載っている。なお、帝塚山古墳は、6世紀頃の前方後円墳(後円部のみ現存)で、全長100m,後円部径50m,前方部幅56m。ふきいしと円筒埴輪の存在が知られている。埋葬者は、不明。

万代
万代池が名称由来。万代1丁目が阿倍野区、2−6丁目が住吉区という珍しい割り振りになっている。伝説によると、昔、この池に不思議な魔物が住み着いていて熊野街道を、行き交う人を恐れ悩ましていた。その話を聞いた聖徳太子が、使者を遣わして曼荼羅経(まんだらきょう)を投げ入れたところ、魔物が雲散霧消した。それ以降、村人は、この池を曼荼羅池と呼び、それがなまって万代池となった。帝塚山古墳の周濠(しゅうごう=濠)と言う説もある。池の名前は、「まんだい」だが、町名の読みは「ばんだい」である。

共立通
元天王寺村字奥経立、字中経立、字経立。阿倍寺経立坊という一坊があった。区の町名になる際、経立を共立に改称。読みは、天王寺村時代は「きょうだつ」。現在は「きょうりつ」

相生通
天神ノ森方面(西成区)から東に伸びる町並みと、阿倍野筋から西へ伸びる町並みが、出会ったので相生通と命名。

播磨町
播磨塚が町名の由来。播磨塚の名の由来は詳しいところは不明。
一説によると、南北朝時代、住吉合戦で楠木正成軍(南朝)と赤松円心(北朝)が戦った際に敗れた北朝側の赤松円心の子貞範(さだのり)が、500騎の味方の供養のために作ったともいわれている。
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阿倍野町名録ーその1−

2004-06-07 02:06:47 | 阿倍野地名録
文の里
南海平野線(廃線)文の里駅より由来。大正初期に南海が南海平野線を今池ー平野間に開通させた際、この地は農村で駅は作られなかった。しかし、(旧)桃山中学、天王寺中学、明浄学院、工芸高校などが林立し通学のための駅が必要となった。天王寺土地株式会社がこのあたりを開発したが、付近にたくさんの学校があるので文の里と言う駅名を名付けた。そして、地名も文の里となる。

王子町
旧天王寺村大字阿倍野村字王子前に由来。阿倍王子神社の神域を含む東方一帯を王子前と呼称。その歴史は長く、蟻の熊野詣と称された平安末期頃より王子前と呼ばれていた。昭和5年に王子前から王子町に改称される。

旭町
西成から眺めると山が朝日(旭)で光り輝くように見えたのが由来。

天王寺町
旧天王寺村の区域にあり、天王寺村消失をおしんでつけられる。現在北と南に分かれる。天王寺村は、四天王寺に由来。

松崎町
松崎町は、合成地名である。常盤通というのが松崎町を貫いているが、昔の阿倍野街道は松が多く生えていた。そして、目印となる一本松があり戦前までは緑の枝を繁茂させていた。その松と、このあたりの天王寺村時代の字長者ヶ崎との一字を取って、松崎町とした。

三明町(さんめいちょう)
旧天王寺村時代、同地に字南三明や三明があり一説によると阿倍寺の三明堂があったともいわれている。また、三明池という池があったので三明町という名がつけられる。

阪南町
1923年(大正13年)、日本初の区画整理団体である阪南土地区画整理組合により開発宅地化された。それまでは、農村。昭和40年代まで中、東、西が存在。その後1−6丁目に改組。阪南は、大阪市の南と言う意味である。

昭和町
昭和初期に2階建て棟割長屋、表に2−3坪の坪庭のついた建売住宅が販売された。その際、昭和に開発されたから昭和町と名付けられる。

北畠
北畠顕家戦死之地とされる北畠顕家卿の墓所(北畠公園)にちなんで命名。

橋本町
明治初期、天下茶屋遊園地などを手がけた橋本尚四郎、久五郎兄弟にちなんで名付けられる。

松虫通
松虫塚が名の由来。松虫塚については、松虫塚伝説を参照にしてね。 

晴明通
安倍晴明公御生誕の地である安倍晴明神社があるので、このあたりを晴明通と呼称する。ちなみに、保名郵便局(やすな)というのが、安倍晴明神社手前の熊野街道沿いにあるがこれは、信田妻伝説の安倍晴明の父安倍保名公に由来する。近くに、晴明丘(公園)もある。

阿倍野元町
阿倍野村の中心地。阿倍野区は江戸時代、天王寺村新家阿倍野村と称していた。1618年、天王寺村に編入し天王寺村新家阿倍野村となるも、1663年に分村し阿倍野村となる。その後、1743年に摂州東成郡阿倍野村年代記によると全村焼失し、その後復活する。そして、大久保加賀守領として江戸時代は続いていく。1868年、明治維新により大阪府司農局領となる。その後、天王寺村に再吸収される。1925年、天王寺村阿倍野村から住吉区に編入され、1936年分区により阿倍野区が誕生する。

阿倍野筋
阿倍野筋とは、阿倍野街道沿いの地名である。阿倍野街道とは、熊野街道の一部であり通称である。起点は、四天王寺南大門である。終点は、大和川新大和橋手前で紀州街道との合流地点までである。明治後期から大正初期までの地図を見ると阿倍野筋の地名は、近鉄前交差点よりも北側の現天王寺区領にある。戦前は八丁目まであったが、戦後五丁目までに再編される。



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阿倍野時遊録=阿倍野の伝説編=

2004-06-07 01:53:09 | 時遊=時と遊ぶ 阿倍野の歴史=
阿倍野は、昔から伝説の多いところ、、。

桃が池伝説
昔、桃ヶ池には大蛇がおって、近隣の農作物を荒らしたり道行く人々を襲ったりして住民は,めっちゃ困っていた。そこで、聖徳太子に「なんとかしてもらえないやろうか」と請願に行ったところ太子は、早速願いを聞き入れ使者を遣わした。使者は、大蛇と対決するために池の中に入っていったが、一部の住民が「その池は深いからおぼれるで。」と言い出した。使者は、かまわず池の中にざぶざぶ足を踏み入れていった。池は、大蛇が住んでいたのですごく濁っていた。深さの見当もつかないまま、使者は、池の中に足を踏み入れていった。しかし、水深は股の高さまでしかなかった。
使者は、大蛇に向かって聖徳太子に授けられた呪を唱えながら宝弓を引き絞り神矢を放った。神矢は、狙いたがわず大蛇の眉間のど真ん中を射貫いた。大蛇は、ひとしきりこの世のものとも思えない唸り声をあげながらもがき苦しんでいたが、やがてその声も絶えた。大蛇は、絶命し池に平穏が戻った。住民は、「太子様にこれを食べていただきたい。」と、天王寺蕪を送った。その後、しばらくは平穏だった。さて、その退治された怪物は胴回りが1丈2尺長さ3丈6尺あまりの大蛇だった。太子は、股ヶ池浮島に穴を掘り怪物の死体を埋葬したがそのあとも引き続き怪異が起きたので浮かばれてないということでおろち塚を作り天神地祇を祭った。(その塚は昭和初年まで残っていた)それから、およそ1000年後の天明年間に高津三番丁住民だった角田某という人が、夢の中で神前において祈祷しているとにわかに紫雲がたなびきその中にミヅチがおりて来てとても哀れな声でどうか股が池に祭ってほしいと言い夢から醒めた。信心深い角田某は急いで股が池に行きおろち塚から北1丁のところに一宇をたて丸高竜王、丸長竜王として祭った。それ以来異変は起きなくなったという。

万代池伝説
万代池にも、同じような伝説が残っている。
こちらは、魔物とだけ伝説になっており正体はわからない。こちらの伝説は、おなじように太子に相談に行くのだが、使者に、曼荼羅経(まんだらきょう)を太子は手渡した。使者が、曼荼羅経を池に投げ入れると魔物は、消え去った。以降、曼荼羅池とこの池を呼び、いつしか万代池と変わっていった。

松虫塚伝説
以下の5説がある。どれが正しいかは、よくわからない。
 壱、阿倍野に才色兼備で琴の名手であった女の人がいて、宮中に参内して松虫局(まつむしのつぼね)と名乗り、晩年この地に草庵を築き没した。以降この辺を、松虫原といいその真中にあった古墳を、松虫塚と言うようになった。
 弐、 小野小町が、阿倍野に住んでいたときに、松虫局と同居していて秘儀を入魂した琴の音を鳴らしたが、野の松虫の音に負けたので嘆いて琴を捨てた。
 参、後鳥羽上皇の女官に鈴虫と松虫という名の人がいて、法然上人の教えを受け感銘し浄土宗に出家し都を追われてこの地において、草庵を築きこの地で念仏を唱えながら亡くなった。(当時念仏停止で浄土宗は、公的に禁止されてた)経読みて そのあととふか 松虫の 塚のほとりに ちりりんの声「藤原 言因」
 四、謡曲松虫で有名な説。二人の女友達が京都に住んでいて、ある秋の日に、当時流行の熊野参詣帰りに安倍野ヶ原と呼称されていたこの地に達し松虫の音色があまりに美しかったので、そのうち一人が聞きほれて、もっと近くで聴こうと思い原に足を分け入れた。なかなか帰ってこないので、心配したもう一人が、探し出すと、友達は、すでに息絶えて冷たくなっていた。もう一人の友達は、泣く泣くこの地に埋葬し菩提をささげた。摂陽群談にのっているが、元は古今集の序がベース。
 五、元久(1204−1206)年中、松虫之次郎右衛門という人が住んでいて、松虫の声を愛好しその声にしびれていた。近在の人は、彼のことを松虫殿と言っていた。彼の辞世は、2首ある。この人を葬った塚を「松虫之次郎右衛門塚」と呼び後に「松虫塚」と短縮された。辞世は、「つきせじな めでたき心 しるならば 苔の下にも 友や松虫」
「行やうで(いきようで) 野辺にあこがれ 松虫の 慕う心を あわれとぞ知れ」

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阿倍野時遊録=阿倍野挽歌編=

2004-06-07 01:46:28 | 時遊=時と遊ぶ 阿倍野の歴史=
○梶井基次郎(1901−1932)
梶井基次郎が亡くなったのは現在の王子町2−17辺りの新居で死の前年かまえたものである。基次郎は明治34年(1901)2月17日に西区土佐堀で生まれた。江戸堀尋常小学校から府立北野中ー三高理科ー東大英文学科と進んだ。在学中、同人誌「青空」に処女作「檸檬(れもん)」を発表した。丸善に立ち寄り画集の上に檸檬を乗っけて立ち去るシーンは有名である。彼は生涯寡作だったが続いて「城のある町にて」「泥濘」などを著した。昭和3年(1929)肺結核が悪化し帰阪、「交尾」「のんきな患者」などの作品を阿倍野吉野通りの家で書き上げた。昭和6年(1931)初めて自分の家を構えたが翌7年3月(1932)肺結核により満31歳の短い生涯を閉じた。寡作ながらも鋭いアンテナを張り巡らせた作品は今も読み継がれている。

○関一(1874−1936)
言わずと知れた大大阪発展の恩人で「大阪の父」とも言われている清廉潔白な大阪市第7代市長である。
市長の業績としては、多岐に渡る。
1、大阪市第2次市域拡張実現(大正14年4月)
東成、西成両郡44村を編入。「これにより現住吉区、阿倍野区、東住吉区、都島区、東成区などの大阪市の大部分が市域に組み込まれる。」

2、大阪市民病院を開設
現大阪市立大学医学部付属病院の前身
大阪市は大正10年から予算50万で市民の為の病院を建てようとしていたが、資金面で難航していた。話を聞いた岸本吉衛門氏がぽんと百万円(現在の10億円)を寄付。岸本氏の希望により中産以下(一世帯年収3000円以下)が治療対象で、年収800円以下の世帯は食費以外はすべて無料だった。現在も岸本氏が寄付した絵がロビーにかかっている。

3大阪都市協会開設(大正14年12月)
都市について本格的に考えたシンクタンクにしては日本初。

4、市営バス運行開始(昭和2年2月)
昭和2年(1927年)2月26日阿倍野橋ー平野間に開通。
当時大阪市内には民間の会社である大阪乗合自動車(青バス)と市バス(銀バス)が大戦争をやっていたが
後に青バスは銀バスに吸収された。

5、大阪港の建設(昭和2年2月)
それまでの大阪港は安治川上流の川口にあったので安治川の土砂堆積により使えなくなってきた。そこで、現天保山の大阪港を作った。

6、大阪商科大学(現大阪市立大学の前身)を開設(昭和2年6月)
当時市が大学を持つことなど許されることではなかった。しかし、関さんは商業を勉強する為の専門大学の設置にこだわり大阪高等商業学校を改組し当時我國唯一の市立大学を作った。

7.第2次大阪都市計画
御堂筋がもともと現在の幅があったわけでない。大阪の道は伝統的に横を走る通のほうが道幅が広い。大阪の家は通(とおり)側に玄関を持ってくるので通は幅が広く、筋は家の脇を通る為に細かった。5m以上道幅がある筋としては、当時、紀州街道に当たる堺筋と谷町筋の天満橋ー谷町六間だけだった。御堂筋も5.4mの道幅しかなかったが一気に43.6mまで道幅を広げた。当時は、車の通行量も多くなく「飛行場を作るつもりか」とも揶揄された。それ以外にも淀屋橋の架け替え、大阪駅前の区画整理も行った。

8、地下鉄工事の開始(昭和5年1月)
日本初の市営地下鉄。竣工期間は御堂筋線梅田ー心斎橋間(3.1km)で昭和8年5月に開通。
最初から複線用地を取っておいてあるが、未だに複線化されていない。

9、中央卸売市場開業(昭和6年11月)
江戸時代から続いた天満青物市場、雑喉場魚市場、永代浜(靱)市場を合併し野田に開設。
のちに天満など5個所に分場を作った。

10.大阪城公園と天守閣の再建
大阪は、明治時代以降工業が発展し煙の都とも言われていた。また、人口の急増により都心部での緑は急速に失われつつあった。当時第37師団が大阪城に拠っていたので、関さんは師団長に頼み込んで一部を公園にすることを許可してもらった。その代わりに師団の為に建てたのが現大阪市立博物館である。大阪城は、幕末の火事により焼失して天守閣が無かったが、大阪のランドマークとして再建をすることになった。市民に寄付を呼びかけた結果150万円の資金を調達し、太閤さんの大阪城を復活させた。
 これだけ活躍した名市長だったが、晩年は妻を亡くし気落ちをしていた所に昭和11年(1936)に来襲した室戸台風の陣頭指揮に立っていた際、体調をくずし昭和11年1月26日現役の市長のまま亡くなった。葬儀には、8万人の市民が参列しNHKが一時間実況生放送をしその死を悼んだ。そして、南斎場に葬られた。

○五代友厚(1835−86)
実業家。薩摩出身。大阪の政治経済に寄与した。
川口運上所(税関)開設。造幣局(当時造幣寮)の大阪設置。
明治11年(1879)大阪株式取引所(現大証)、大阪商法会議所(現商工会議所)の建設。
明治13年(1881)大阪商業講習所(現大阪市立大学)開校。関西貿易、大阪製鋼、大阪商船、阪堺鉄道を発足。
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阿倍野時遊録=近代文学者と阿倍野編=

2004-06-07 01:40:24 | 時遊=時と遊ぶ 阿倍野の歴史=
織田作之助(1913−1947)
織田作之助と言えば筆者は、夫婦善哉に出てくる料理屋の数々を思い出すのだが(夫婦善哉、自由軒など)口縄坂に風の都の一節が刻まれた文学碑がある。織田作之助と阿倍野の関係としてはいろいろある。
昭和9年(1935)11月に今の大阪キリスト教短大の敷地に有った「松虫花壇」と言う名の料亭兼高級旅館に当時、三高の3年生だった織田作之助と京都新京極(しんきょうごく)のカフェで女給をしていて知り合い店の2階に梯子をかけて助け出した後の妻となる宮田一枝と共に来遊し一泊を共にした。その後、一枝と作之助は、阿倍野筋2丁目にあった料亭「ちとせ」で結婚式を挙げた。そして、一枝は乳がんで昭和19(1944)8月6日に死去し阿倍野の火葬場でだ毘に付された。作之助自身もその3年後肺結核により35歳の若さで散華した。天王寺区城南寺町の「楞厳寺」に織田作之助夫妻のお墓はある。代表作は、風の都、夫婦善哉、アドバルーン、土曜夫人などがある。

伊藤静雄(1906−1953)
松虫にある松虫ポケットパーク内に文学碑がある。「百千の、、、」で始まる碑は、伊藤静雄が好んで散歩していたこの地に鎮座している。伊藤静雄は、長崎県諫早市の生まれで昭和4年(1930)京大を卒業し大阪府立住吉中学(旧制)に赴任した。教師としては身なりに無頓着で「乞食」とあだ名をつけられていたりもした。
昭和7年(1933)3月に堺市立高等女学校地歴科教諭の山本花子と結婚し、現阪南団地となっている旧大阪高校北に少し入った所にある「文明湯」から西に数軒入ったところにある2階長屋(阪南町中3)に新居を構えた。しかし、11月には住吉区天下茶屋3に転居した。伊藤静雄は、1953年肺結核で死去した。

小野十三郎(1904−1997)
小野十三郎も、阪南町2丁目に住んでいた。十三郎は、詩人で有名である。小学校の教科書にも出ている「海」や「葦の地方」が代表作である。
校長を長く務めた大阪文学学校からは多様な人物を輩出した。

阪田寛夫
童謡さっちゃんで有名な阪田寛夫の家は、松崎町2丁目にあった。
彼の家の様子は、「花陵」のなかに記されている。

へレンケラー
昭和町3丁目にある世界で13番目に作られた社会福祉法人ライトハウスで2回講演した
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阿倍野時遊録=北畠顕家編その2=

2004-06-07 01:36:38 | 時遊=時と遊ぶ 阿倍野の歴史=
 さて、顕家卿が最期の突撃を敢行し散華したころ、顕家卿の妻(日野資朝の娘)は京にいた。風の噂に夫が戦死したことを聞き、京から旅に出て河内四条畷、摂津阿倍野などの戦場の跡を見ながら河内長野の観心寺で尼となった。その後、舅の親房に会いに行った帰途阿倍野に立ちより、旧臣から顕家卿戦死の地を知り、そこで草の上に伏せながら歌を詠んだ。「亡き人の 形見の野辺の 草枕 夢も昔の袖の白露」
 後に北畠親房は神皇正統記を著して南朝こそが正統であることを主張したが、彼は当然嫡男である顕家戦死の報を聴き書き留めている。ここで、歴史のミステリーが起こる。彼の著書(神皇正統記)と太平記では、顕家卿戦死の地が食い違っている。神皇正統記は延元四年(顕家卿戦死から次の年)から記載されている。それによると「泉州堺石津浦で戦死」とかかれており、太平記の「和泉の境阿倍野にて討死」と矛盾している。どうも本当の討死した所は、堺の石津浦のようである。今の顕家卿の墓とされているものは、大名塚と言われていた古墳に、享保八年(1723年)に並河誠所(なみかわせいしょ)が大きな石碑を建てたことに始まるので残念ながら顕家卿の墓ではない。しかし、墓の位置はどうでも良い。顕家卿の清々しさが人の胸を打ち、連綿と掃除などをして市民の手で守っていっているその事が大事だと思う。なお、親房公と顕家卿を祭っている神社として阿部野神社を挙げておこう。
 話は変わるが、親房公の親友として卜部兼好(吉田兼好、兼好法師)[1283−1350]が挙げられる。兼好法師も、阿倍野と関係している人なのでついでに記しておこう。徒然草の著者として有名な兼好法師は、親房公が著した神皇正統記にもかかわっていた。兼好法師は21歳で散華した顕家卿の死を悲しんで、その戦死の地であると言われていた阿倍野に質素な庵を建てて隠棲していた。その後、一度京に戻ったが召使の命婦丸(みょうぶまる)が亡くなったので、埋葬する為に命婦丸の故郷である阿倍野の丸山古墳のたもとでわらを打ってむしろやぞうりを作って、それを売って生計を立て束縛の無い自由な生活を楽しみました。命婦丸の埋葬と喪がふけた後、兼好法師は阿倍野を出発し旅を続けました。
現在、兼好法師わら打ち石と伝えられているものが、海照山正円寺(松虫通3丁目)の『大聖歓喜天』と彫られている石の台石として残っている。聖天山の高台には、徒然草序文の彫ってある文学碑もある
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