生まれ育った町なので土地勘はあった。しばらく離れている間にずいぶんと様変わりもしている。
いつの間にか消えてしまった路地もあったが、ほとんどは記憶のままに残っていた。
それでも子どものころからあまり通った記憶がないルートもあった。
そのひとつが隣町へ抜ける近道である。
住宅地の中にあるにもかかわらず、なんとなく通りたくない道だったのだ。
そいういう道は他にもいくつかあった。
どうしても通らなくてはならない時は、抜けるまで絶対口をきかないとか、後ろをふり返らない、とかいう子どもの世界のルールを守らなくてはならなかった。お葬式の前を通る時は親指を隠して通る、という迷信の類いである。当時,、私たちは律儀にその約束を守っていたのだ。
ところがこの道には,記憶する限り何のルールもなかった。子ども心に、ただただ敬遠していた。
__
だからこちらに戻ってしばらくは、どうしても使わなくてはならない時だけ、それも昼間に限ってしぶしぶ通っていた。
そこは道の片方が崖山で片方が宅地。崖の縁に沿うように緩い坂を描いて続いている。
路面は舗装されて歩きやすくなっていたが、それ以外は幼い私の記憶とほとんど変わらぬ家並みが残っていた。
間もなく隣町の友人宅で不幸があった。
通夜に参列するためにはこの道を通らなくてはならない。
夜、それもひとりでここを抜けるのは気が進まなかった。
街灯はあるが、周囲を青く弱々しく浮かび上がらせているだけだ。
闇はかえってグラデーションを際立たせ、境目が不明瞭な分、底がないように思えた。
ふっと、少し先の暗がりをみると、崖にそってたくさんの影が並んでいる。
とたんにプンと湿った泥と水の匂いがして、なぜかカエルの鳴き声が頭の中でわんわん響いてきた。
一瞬ののち、崖の反対側にあるはずの住宅地が消え、一面の沼地が現れた。
水面がぼうっと白く光っている。
あれ?ここには沼があったんだな…と、頭の隅で思った。
気がつくと、私は、住宅地と崖に挟まれた道の上に立ったままだった。
崖に並んでいる影は相変わらずだったが、何やら手(?)に手に、ぼんやりと光るものを持っていた。
さっき水面に光っていたものに似ている。
暗い道が、その光るものでぼうっと白く縁取りをされているようにみえた。
黒い影の一連は、一列に並んだままジッと動かない。
初めは気味悪かったが、こちらに襲いかかってくる様子はない。
どうやら夜道を照らしてくれているようでもある。
思い切ってその前を通った。
通夜の家はちょうどその先にあるのだった。
しばらくして、土地の古老とよく言葉を交わすようになった。
まもなく米寿をむかえるというの品のいいご夫人である。ひょんなことから、この辺りの昔語りになった。
「私がこっちに嫁に来たのはもう戦前(第二次世界大戦)の事よ。60年以上も前になるわね。
あなたなんてまだ影も形もないでしょ。そのころはまだこの辺りは民家もまばらで、この先は大きな沼地があったの。
沼といっても池と湿地ね。今とは比べ物にならないくらい寂しいところだったわ。
戦争が終わりの頃、この先に住んでた某さんの息子に赤紙が来たの。赤紙なんて若い方は知らないでしょうね。
赤紙というのは召集令状の事。これが来たら兵士になって戦地にいかなくてはならないの。
イヤ、だなんて言えない時代でしたよ。その頃の男の人はほとんど兵隊にいったのよ。戦争だったから。
某さんは泣いてましたよ。母ひとり子ひとりだったから。
私も同じ町内だったから、千人針を刺して、万歳して、その息子さんを送り出したけれど、かわいそうだったわ。
その某さんがある晩
『○○がかえってきた!』といって、外に駆け出していったの。
隣近所の人がビックリして後を追いかけていくと、沼の方にどんどん歩いて行くじゃない。
まさか身投げでもするんではと、みんなであわてて引きとめたの。それでも某さんは
『○○が帰ってきた、○○が帰ってきた!』と沼に向かって言い続けている。そのうちにカエルが鳴き出したの。
(戦争)当時はカエルも貴重な食料で、近所の人がみんなで採るもんだから、鳴き声もほとんど聞かなかったのに。
その上、沼の面がぼうっと白く光って、それは何とも言えない光景だったわ。」
結局、某さんの息子は戻ってこなかった。数日して、戦死報告が届いたそうである。
まもなく日本は終戦を迎えた。
「戦後、この辺も埋め立てられてバラックが建って、そのうちにすっかり住宅地になったけど。
今でも、時々カエルが出てくるでしょ。土カエル。この頃またよく鳴くようになって…。
どこか人間が知らない水脈が地下に残っているのかもしれないわね。
私はね、今でもカエルの声を聞くたびに、あの時の某さんが光る沼地を息子の名前をよびながら
『帰ってきた、帰ってきた』と歩き回る姿を思い出すのよ。」
___
今でも雨がよく降った翌日には、ブーブーという土カエルの鳴き声がする。
道をもそもそと横切る姿も見かける。グロテスクな姿は、近所の子どもたちには敬遠されている。
私に話をしてくれた老婦人も、今は亡き人になった。
しかし、そこに湿った土の匂いを捕らえた時、私の目の前に広がるのは
水面を白く光らせたあの、沼の風景である。
いつの間にか消えてしまった路地もあったが、ほとんどは記憶のままに残っていた。
それでも子どものころからあまり通った記憶がないルートもあった。
そのひとつが隣町へ抜ける近道である。
住宅地の中にあるにもかかわらず、なんとなく通りたくない道だったのだ。
そいういう道は他にもいくつかあった。
どうしても通らなくてはならない時は、抜けるまで絶対口をきかないとか、後ろをふり返らない、とかいう子どもの世界のルールを守らなくてはならなかった。お葬式の前を通る時は親指を隠して通る、という迷信の類いである。当時,、私たちは律儀にその約束を守っていたのだ。
ところがこの道には,記憶する限り何のルールもなかった。子ども心に、ただただ敬遠していた。
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だからこちらに戻ってしばらくは、どうしても使わなくてはならない時だけ、それも昼間に限ってしぶしぶ通っていた。
そこは道の片方が崖山で片方が宅地。崖の縁に沿うように緩い坂を描いて続いている。
路面は舗装されて歩きやすくなっていたが、それ以外は幼い私の記憶とほとんど変わらぬ家並みが残っていた。
間もなく隣町の友人宅で不幸があった。
通夜に参列するためにはこの道を通らなくてはならない。
夜、それもひとりでここを抜けるのは気が進まなかった。
街灯はあるが、周囲を青く弱々しく浮かび上がらせているだけだ。
闇はかえってグラデーションを際立たせ、境目が不明瞭な分、底がないように思えた。
ふっと、少し先の暗がりをみると、崖にそってたくさんの影が並んでいる。
とたんにプンと湿った泥と水の匂いがして、なぜかカエルの鳴き声が頭の中でわんわん響いてきた。
一瞬ののち、崖の反対側にあるはずの住宅地が消え、一面の沼地が現れた。
水面がぼうっと白く光っている。
あれ?ここには沼があったんだな…と、頭の隅で思った。
気がつくと、私は、住宅地と崖に挟まれた道の上に立ったままだった。
崖に並んでいる影は相変わらずだったが、何やら手(?)に手に、ぼんやりと光るものを持っていた。
さっき水面に光っていたものに似ている。
暗い道が、その光るものでぼうっと白く縁取りをされているようにみえた。
黒い影の一連は、一列に並んだままジッと動かない。
初めは気味悪かったが、こちらに襲いかかってくる様子はない。
どうやら夜道を照らしてくれているようでもある。
思い切ってその前を通った。
通夜の家はちょうどその先にあるのだった。
しばらくして、土地の古老とよく言葉を交わすようになった。
まもなく米寿をむかえるというの品のいいご夫人である。ひょんなことから、この辺りの昔語りになった。
「私がこっちに嫁に来たのはもう戦前(第二次世界大戦)の事よ。60年以上も前になるわね。
あなたなんてまだ影も形もないでしょ。そのころはまだこの辺りは民家もまばらで、この先は大きな沼地があったの。
沼といっても池と湿地ね。今とは比べ物にならないくらい寂しいところだったわ。
戦争が終わりの頃、この先に住んでた某さんの息子に赤紙が来たの。赤紙なんて若い方は知らないでしょうね。
赤紙というのは召集令状の事。これが来たら兵士になって戦地にいかなくてはならないの。
イヤ、だなんて言えない時代でしたよ。その頃の男の人はほとんど兵隊にいったのよ。戦争だったから。
某さんは泣いてましたよ。母ひとり子ひとりだったから。
私も同じ町内だったから、千人針を刺して、万歳して、その息子さんを送り出したけれど、かわいそうだったわ。
その某さんがある晩
『○○がかえってきた!』といって、外に駆け出していったの。
隣近所の人がビックリして後を追いかけていくと、沼の方にどんどん歩いて行くじゃない。
まさか身投げでもするんではと、みんなであわてて引きとめたの。それでも某さんは
『○○が帰ってきた、○○が帰ってきた!』と沼に向かって言い続けている。そのうちにカエルが鳴き出したの。
(戦争)当時はカエルも貴重な食料で、近所の人がみんなで採るもんだから、鳴き声もほとんど聞かなかったのに。
その上、沼の面がぼうっと白く光って、それは何とも言えない光景だったわ。」
結局、某さんの息子は戻ってこなかった。数日して、戦死報告が届いたそうである。
まもなく日本は終戦を迎えた。
「戦後、この辺も埋め立てられてバラックが建って、そのうちにすっかり住宅地になったけど。
今でも、時々カエルが出てくるでしょ。土カエル。この頃またよく鳴くようになって…。
どこか人間が知らない水脈が地下に残っているのかもしれないわね。
私はね、今でもカエルの声を聞くたびに、あの時の某さんが光る沼地を息子の名前をよびながら
『帰ってきた、帰ってきた』と歩き回る姿を思い出すのよ。」
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今でも雨がよく降った翌日には、ブーブーという土カエルの鳴き声がする。
道をもそもそと横切る姿も見かける。グロテスクな姿は、近所の子どもたちには敬遠されている。
私に話をしてくれた老婦人も、今は亡き人になった。
しかし、そこに湿った土の匂いを捕らえた時、私の目の前に広がるのは
水面を白く光らせたあの、沼の風景である。
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