いま落語界で最も人気がある三遊亭円楽師匠が、脳梗塞(こうそく)に倒れたのち、進退を懸けてのぞん国立名人会」で披露した十八「芝浜」の出来に納得できず、引退を表明した事を本当に惜しいと思います・・・
師匠が、自身の落語人生をふり返り、現在の心境を語っってます・・・

私の人生観は、父に教えられたものです。幼いころから「死に恐怖心を覚えるな」と言われ続けましてね・・・当時は戦時中でしたから、私も年ごろになれば死んでいく運命だと思っていましたからね。子どものころは、よく釣りをしながら、自分の人生や死に方について考えたものです。
とにかく厳しい父で、噺(はなし)家になるときも、随分反対されましたね。挙げ句の果てに、母親が逃げ道をつくってくれて「ここから出て、お父さんとは会わないように」という始末でした。もう勘当も同然ですよ・・・父は私が真打ちに昇進した翌年にがんで他界しましたが、亡くなる年まで、顔を合わせませんでした。
父が亡くなる間際、私はあれほど死ぬことを恐れるなと語った父がどういう心境で死に直面しているのか、と思い「死ぬことが怖くないか」と訊(たず)ねたんです。
すると「死ぬなんてたいしたことじゃない。お前らの相手をしなくて済むと思うと気が楽だ」なんて言うのです。最高の遺言でしたね。「死ぬってのは、こんなものか」と受け入れることができた。どんな場面に出くわしても、死さえ覚悟できる心意気があれば、何てことはない。この遺言が、私を支えてくれたのです。
若手のころは、寄席にお客が来なくてね。麻布十番クラブ、相鉄演芸場など演芸場も次々と消えていきました。当時は野球やプロレスが全盛で、寄席なんかには目が行かないんですよ。修行に明け暮れてちゃんとした噺家を目指していましたが、肝心のお客さんがいない。だからお客を寄席に呼ぶことも、若手の使命だと割り切って、テレビに出ることを決めたのです。
「金曜夜席での「湯上がりの顔です」という自己紹介や「紅白歌合戦」で演じたキザなキャラクターが大ウケしましてね。あちらこちらで声がかかり、10本以上のレギュラー番組を持つようになりました。
ところが、ある番組で私の師匠である円生がゲストに招かれたのですが、「円楽さんの将来はどうですか?」と聞かれて、
「コイツはダメ。テレビにばかり出て天狗(てんぐ)になっている」と言って、帰ってしまったんです。生放送でしたから、これはいけませんよね(笑)。私自身は寄席に来てもらうために、やっていたのに、このままではどうもいけないと思い、降板を願い出たのです。
番組をすべて降りてからは独演会を中心に日本全国を飛び回りました。時間が10分程度に限られている寄席では、長い、ちゃんとした噺ができないからです。テレビに出なくなったらお客が減ると思っていましたが、どこへ行ってもたくさんの人が来てくれましたね。座布団の周りまでお客さんが入ってくれましたから、驚きですよ。本当にあのタイミングで高座に集中できてよかった。お世話になった人には感謝するばかりです。
その後、縁があって「笑点」に復帰するわけですが、23年間司会をつとめたおかげで、幅広い年代の方に親しみを持ってもらうことができました。噺家として53年を過ごしたわけですが、「祖父がファンなんです」なんて言われることもあります。そうすると、どこか気恥ずかしくなってしまうんですよ。
「円楽の名前を誰に継がせるのか?」と聞かれたりしますが、それは、私が生きているうちにするべきことではないと思っています。ほかに例を探しても、名人と呼ばれた志ん生師匠の名も、まだ受け継がれていませんしね。噺家は一代限りですべて、それでいいのではないでしょうか。
引退した今も、まだ自分の趣味には走れませんね。歯はガタガタだし、目も悪い。脳梗塞だっていつ再発してしまうかわかりませんし、
透析通いは、もう9年になります。何かを始める前に、まず自分の体をちゃんとしなくてはいけない。体が少しまともになってきたら、幼いころを思い出して釣りをしたいと思っています。池でフナつりなんかいいですね。ポッと竿(さお)を投げて、ググっと合わせる、あの感覚がたまらない。釣れなくてもいいんです。じっとアタリを待ちながら「これからの日本はどうなるのだろう?」などと、ゆっくり考えていたいですね。
(朝日新聞引用)



























