ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

会津若松の旅-4 会津武家屋敷

2010-10-26 16:26:56 | Stroll
「会津武家屋敷」は移築されたもので、もともとここにあったわけではない。



会津藩家老「西郷頼母」の屋敷跡には、このような看板があるのみ。
鶴ヶ城の危機に駆け付けた「西郷頼母」の妻「千恵子」は3人の娘と共に自死する。
「歴史の陰に女性あり。」その2。


季節がら、菊の花が菊花展のごとく、たくさんありました。





ここでは写真はあまり撮っていません。









 *      *       *

この旅では、遠足やら修学旅行やら、社会科の実習やら……子供たちの団体に多く出会いました。
見知らぬ子供たちから「こんにちは!」という挨拶をたくさん頂きました。
時代は荒んでいるようですが、明るい声を何度も聞きました。

「どこから来たの?」「さいたま!」……おおお。などという場面も。

この旅でお世話になった小型の周遊バス。運転手さんはみんな女性でした。
「歴史の陰に女性あり。」その3。


会津若松の旅-3 御薬園

2010-10-25 12:59:57 | Stroll


秋風に荷葉うらがれ香を放つ おん薬園の池をめぐれば   与謝野晶子


「御薬園」とは、室町時代に霊泉の湧きだしたこの地に、永享4年(1432年)、蘆名盛久が別荘を建てたのがはじまりと言われている。
その後の江戸時代の寛文10年(1670年)、会津藩2代藩主保科正経が領民を疫病から救うために園内に薬草園を作り、
3代藩主松平正容が貞享年間に朝鮮人参を試植し、その栽培を民間に広く奨励したことから、それが名前の由来となっている。

この季節ゆえ、薬草の名札ばかりで花や葉などがほとんど見られなかった。
わたくしは「薬草園」だとばかり思っていましたが、これはどちらかと言うと「庭園」だったようですね。

わずかに撮影できたものを……。まずはひときわ華やかだったこの花を。












これは「心字の池」です。水源は「女滝」だそうです。




会津若松の旅-2 鶴ヶ城

2010-10-24 11:28:55 | Stroll
「鶴ヶ城」は広大な敷地である。立派な石垣は苔むして、蔦が這い、味わい深い。





ただし、城は目下改装中(瓦の葺き替えなど。)で、網テントで覆われていましたが、
一応、城内は天守閣(5層)まで入れました。様々な史料を観ることができました。
頭に入りきれませんが……。金の鯱は取り外されてガラス部屋に鎮座しておりました。





大方、城の天守閣の壁には、銃の発射穴がある。そこから見た風景は平和ではあった。紅葉のはじまり……。






この城は大政奉還の翌年、1868年最後の若い藩主「松平容保」が開城する。

その前に「会津白虎隊」の若者たちは、飯盛山から見たこの城が燃えていると勘違いして自刃している。
戦争はいつの時代でも、若い命の未来を断ちきられる。死に急ぐなかれ。
「松平容保」のその後の生涯(明治初年以降)は時代に翻弄された感はあるが、切腹したわけではない。






会津若松の旅-1 飯盛山

2010-10-23 14:10:44 | Stroll

(会津磐梯山…車窓から撮ったので、マイカメラが亡霊のように……。)

この旅の発端は何か……?40年以上の思いであるのか?
それでも「行こうか?」と決めてから、実行までには1ヶ月もかからなかった。

我が家の長州男子の長年の怨念(逆ではないのか?)が実を結んだ旅である。
思いかえせば、それは大学時代まで遡る。
そこで長州男子は、会津若松出身の男子と出会う。
その友人の実家は旅館で、「夏休みに遊びに来ないか?」という誘いに喜んだものの、
友人の祖父が「長州人はダメだ。」と言ったので、実現しなかった旅であった。
「長州出身だと言わなければわからないだろう?」とたずねたら「顔でわかるそうだ。」と言う返事。

それから40数年、思い続けた旅なのである。
ちなみに、わたくしの父方のご先祖は「相馬中村藩」らしい。


20日お昼前に「会津若松」の駅に。敵陣への第一歩。




まずは「飯盛山」へ。
高い山ではないが、階段の脇には「スロープ・コンベアー」があるので、お世話になってみました。




「白虎隊」の墓にお線香をあげて、友好の徴とする。





「白虎隊」ばかりが、クローズアップされていますが、実は女性たちも長刀で戦っていたのです。
「歴史の陰に女性あり。」その1。





  *      *      *

「共時性」という言葉がある。不思議な体験である。
帰宅してから、たまった新聞を読んでいたら、朝日新聞21日付の「青鉛筆」にはこのような記事がありました。


塀の中の中学校

2010-10-18 21:30:03 | Movie
       

「塀の中の中学校・オフィシャルサイト」

脚本:内館牧子
音楽:城之内ミサ
協力:法務省 松本少年刑務所 旭川刑務所
企画協力:巡田忠彦(TBSテレビ報道局) 角谷敏夫(元桐分校教官)
プロデューサー:清弘 誠/北川雅一/荒井光明
演出:清弘 誠
製作著作:TBS

《キャスト》

石川順平(29)桐分校教師:オダギリジョー

川田希望(50)桐分校生徒:渡辺 謙
佐々木昭男(76)桐分校生徒:大滝秀治
ジャック・原田(66)桐分校生徒:すまけい
小山田善太郎(39)桐分校生徒:千原せいじ
龍神姫之丞(22)桐分校生徒:染谷将太

三宅雄太(57)桐分校教師:角野卓造
野口宏治(54)刑務所長:矢崎 滋
杉田一夫(43)刑務官:村田雄浩

森大河(29)希望の一人息子:森山未來
龍神小五郎(55)姫之丞の父親:蟹江敬三

石川政明(59)順平の父親:橋爪 功


長野県松本市にある「松本少年刑務所」の所内には、義務教育を終えていない受刑者のための公立中学校「松本市立旭町中学校桐分校」がある。
「石川順平」は少年院で5年間教鞭を取った後、「副担任」としてここに赴任してきた。
実は順平には、プロの写真家になりたいという夢が捨てきれない。
順平の父親は国家公務員になった息子を喜んでいるのだが。。。

年齢差のある5人の生徒の罪状、境遇はさまざまだが、基本的な学力が身につくことでいくばくかの希望は生まれる。
生徒たちが順調に学力を獲得してゆく時期に、順平は最後の写真家としての夢を断たれた。
コンクールで最後の5人に選ばれたが、「順平」の写真はその5人の中で最初に落とされたのだった。
一晩中やけ酒を飲んで、寝過してしまい、生徒たちが熱心に取り組んだ研究発表の時間に現れなかった。
刑務官が迎えにゆき、あわてて授業に臨んだものの、嘘の言い訳は酒臭いことであっけなくばれる。
ここで、築き上げてきた生徒と教師との信頼関係も崩れる。生徒たちはこのようなことに特に敏感なのだ。

刑務所の作業がいやで、桐分校にきたという勉強嫌いの「小山田善太郎」は授業の邪魔ばかりをして、さらに屋上から飛び降り自殺までしようとする。
それを命がけで止めたのは、もととび職の「川田希望」だった。「順平」は下で大きなざるを持って彼を受け止めようとしていた。
結局彼は分校から刑務所に戻されることにはなったが、この事件は「順平」と5人の生徒たちの信頼関係が再び築かれることになった。

「順平」は写真家の夢を捨てる。高齢の「佐々木昭男」は心臓のバイパス手術を拒み、授業を続けることを選ぶ。
そうして4人は無事卒業式を迎え、さらに「佐々木」の手術も無事に終わる。
もとの刑務所に帰る「佐々木」は、列車のなかで「駅弁がうまい。」と微笑む。

しかし、受刑者の本当の意味での社会復帰の道が開かれたとは言い難い。
そして佐々木を送った「順平」は思う。

「完全に絶望することだ。そこから生まれてくるものを待つのだ。」と……。

これは「順平」にも「塀の中の中学生」にも響く言葉ではなかったか?
「川田希望」の息子が無事大学院を卒業して、大学教授になって父親の面会に来たおりに「宮澤賢治短編集」を渡す。
とまどっている父親に「字が読めるようになったら、読んで。」という。
「川田希望」は「よだかの星」を繰り返し読むことになる。
そして息子はそれを聞いて涙を流していた。。。

筑波山へ

2010-10-15 15:44:19 | Stroll
14日曇天。思い立って「筑波山」へ行く。
最寄り駅の2つ先の「南流山」から「つくばエキスプレス」に乗って、「つくば」まで。
駅前からバスに乗って、「筑波山神社」で降りて、ケーブルカーに乗って、ほぼ頂上の「御幸が原」まで。

ここから、まずは男体山へ。山道の距離は短い(往復30~40分)のですが、奇石ゴロゴロの道でした。
カメラで撮影するゆとりがないので、画像がありません。代わりに「きのこ」の写真を。




「男体山」の次は反対側の「女体山」へ。
こちらは最初はなだらかな山道でした。「やはり女体山…」と思いきや……。
だんだん険しくなってゆきました。わかりますか?女性とはこのようなものですよ(^^)。
「筑波山」と言えば「ガマの油」ですね。これは途中にあった「ガマ石」です。




「女体山」を下りたところからは、ロープウェイに乗って「つつじが丘駅」へ。
ここからバスに乗って「つくば」駅に戻る。

大雑把に言いますと、こんな1番楽ちんなコースを選んだのですが、短い距離とはいえ険しい山道はこわかった。

「筑波山神社」には「万葉集」の歌碑がありました。





それから、山から見渡した景色など。途中から快晴に。






あああ。足が筋肉痛。ウオーキングの効果はゼロでした(^^)。

それから、それほど高い山でなくても事故は起きます。「男体山」の山道で気を失っていた方に遭遇。
救出搬送のために5人ほどの救助隊員が、橇やロープを持って登ってきましたが、
その方を搬送するためにヘリが来るしかないという場所であることをお伝えしておきます。
もちろんヘリポートもありません。ヘリはホバリングしながらまずヘリから救助隊員を降ろす。
それからしばらくして、ヘリは人を引き上げていきます。


長い夏のあとで・・・

2010-10-12 10:56:55 | Stroll
今年の夏は猛暑のうえ、なかなか終わらなかったが、ようやく秋がきたらしい。
人間の女性(多分?)としての季節はどのあたりなのか?とこの季節にはよく考えることがある。
しかし、精神的な立場や場面から思えば、その立ち位置はあまり変化はないだろう。

生活の大半は「かなり真面目な主婦」、少しだけ「仕事」をした(←過去形)。
「子育て」と「老親介護と看取り」は、似て非なるものだが、わたくしの人生を大きく育てた大切な日々であったと思う。
そして詩を書く者であり、さまざまなものの読者であり、鑑賞者である。

人間関係においては「語る」よりも「聞く」役割にまわった日々でもあった。
この役割を不幸だとは思わないが、ここにあぐらをかく人間は不幸だと思う。

そんなことをぼんやりと考えながら、散歩や買い物の途中で撮った秋の写真をここでまとめてみようと思う。

  
   一番早い秋の使者である。

  
   小さな花を美しく撮れることができた♪

  
   見るよりも早く香りで気づかされる花。

  
   蜂とコスモス。

  
   まだ青さが残る柿の実。

  
   これはなんの実だろうか?

  
   我が家の壁面に欅の秋の影が…。

UNE HISTOIRE DE BLEU(青の物語) ジャン=ミッシェル・モルポア

2010-10-11 14:39:36 | Poem


翻訳 有働薫               


青の歴史を誰かが書くかもしれません。(ライナー・マリア・リルケ)

そして人々は山々の頂きや、海の波、川のゆったりした流れ、大洋の循環、そして天体の運行を感嘆して眺め、
自分自身を忘れてしまうのです。(聖アウグスティヌス)



この上記の二文は、この詩集の扉にあたかも「予言」のように置かれています。
有働薫さんの解説によれば、それに応えるかのようにジャン=ミッシェル・モルポアの「青の物語」は書かれたようです。
このように時を越えた運命的な詩人の出会いは繰り返されてきたのかもしれません。そしてこのようにして「詩」が引き継がれてゆく。
この詩集は海(青)と人間との絶え間ない対話なのだと思えます。そしてその「海」に青の言葉を捧げ続ける詩人の絶えることのない作業のように思える。
その作業はとても勤勉であり、大変美しく均衡のとれた言葉の構築でありました。
そしてジャン・ミッシェル・モルポアは「人間が生きる。」ということのすべてを書き尽くしてみようと試みたのではないか?とさえ思えます。

……と言ってもそれは有働薫さんの翻訳による言葉の美しさ、豊かさでもあるわけです。
フランス語のわからないわたくしは有働さんの翻訳された日本語のみでこの詩集を読み、受け取ったわけですから。
その美しい言葉をすべてここに書きとめておきたいのですが多すぎる。でもさらに抜粋して引用させていただきます。


*     *     *


海はわれらの内で文章を書こうとする。


《空の本質は不思議なやさしさでできている。》


明日という日は、こんなに野蛮な身振りをし、こんなに汗をかき、青白く期待をかける価値が十分あるのだから。


彼らはおのれの生のかたちにふれようとする。


彼らは青を見つめる、だがそれをどう言えばいいのか決して分からないだろう。


どこまでも青は逃亡する。
じつを言えば、青は色ではない。むしろ印象であり、雰囲気であり、空気の特別な響きである。
積み重なった透明さ、空虚に加えられた空虚から生まれ、
空でのように人間の頭の中でも、変わりやすい透明なニュアンスである。

われらの呼吸する空気、われらの姿が動き回る空虚な外観、われらが横切る空間、
それは紛れもないこの地上の青である。あまりに近すぎ、あまつさえわれらと一体化し、
われらの身振りと声を身につけているので、目に見えないのだが。
鎧戸を全部下ろし、ランプを全部消してもなお、われらの生の、覚えがないほど軽い服を着て、
青は部屋の中までいるのだ。                              (*)


おまえは海に行き、おのれの憂愁で洗われる。
その青と折り合いをつける。


たくさんの日々が過ぎた……。


だがこの傷はふさがっていない。


それ以来彼女にできることは、青をつくることだけ。彼女は青を押し返したり、揺さぶったりする。
浜辺の男たちにそれを見せ、男たちはそれで商売することを忘れず、それから彼女に少し汚れた青を返してよこす。
彼女は、豪奢な夕日で顔を染めることも、嵐の日のように怒りで顔を蒼白にすることも、塩の中で死んで石になることも夢みたりしない。
ただ、夏の美しい夕方、海辺の低い石塀にこしかけて愛を語り合う人々のまなざしや声のように、ただ透きとおっていたいだけだ。


彼女はとりわけ夏の雨が好きだ。


海の上に、長い斜めの縞になって降ってくる温かい、灰色の雨。ほんのお湿りほどの雨で、雨音は聞こえない。
彼女は、雨を避ける場所を探しもせず、顔を雨に差しのべる。雨が静かなので、彼女は自分がここにいることを知り、感じる。
彼女は言う――雨は彼女にみずからを捧げてくれ、あるいは彼女自身気づかなかったこの優しさを、単調で自由なこの落下運動を、
そして哀しみで彼女から潮が退いていらい、もはや彼女のものではなくなっているこのような軽やかな波立ちを呼び戻してくれるのだと。
  (註:ここがエピローグです。)


 *   *   *


やっぱり長い引用になってしまいました。しかし数年後にまたこの詩集を開く時、きっとわたくしは別の詩行を選ぶのかもしれません。
「青の物語」はそういう永い時間を息づくであろうと思われる詩集なのです。

実はこの上記の文章は6年ほど前に書いたものです。
10月9日、久し振りに翻訳者の有働薫さんが、この「青の物語」を朗読された時に、わたくし自身が引用していた部分(*)を朗読されたという偶然に、
なつかしい思いとともに、ふたたびこれを掲載することにしました。6年間の「青」はわたくしのうちでは色褪せないものでした。


           
 (1992年・メルキュール・ド・フランス社刊……1999年・思潮社刊)

ポンピドー・センター所蔵作品展 シャガール

2010-10-07 14:16:33 | Art


6日午後、上野の東京藝術大学美術館にて観てまいりました。
快晴の上野公園をぶらぶらと歩くのも、噴水を見るのも、初秋の微風のなかではなにもかも清々しい。
こんな日に「愛の画家」と言われた「シャガール」の絵画を観られるのは、なんとも幸福なことでした。
次の3連休が最終日となりますので、その前にと思いましたが予想以上に混んでいました。
しかし、行列になるほどのことはありませんでした。


「マルク・シャガール(1887~1985)」は帝政ロシア領ヴィテブスク(現ベラルーシ共和国)に生まれる。
ロシア名は「マルク・ザハロヴィチ・シャガル」。べラルーシ名は「モイシャ・ザハラヴィチ・シャガラウ 」。「モイシャ」=「モーゼ」。
故郷ヴィテブスクは人口の大部分をユダヤ人が占めているシュテトル(ユダヤ人居住区)で、シャガール自身もユダヤ系(東欧系ユダヤ人)である。
1881年~1883年、ユダヤ人に対する最初のポグロム(虐殺)がすでに始まッていました。

1907年、当時の首都サンクトペテルブルクの美術学校に入るが、同校のアカデミックな教育に満足しなかったシャガールは
やがて「レオン・バクスト」の美術学校で学ぶことになる。バクストは当時のロシア・バレエ団の衣装デザインなどを担当していた人物である。

1910年、23才でロシアからパリに出たシャガールは、モンパルナスの共同アトリエ「ラ・リッシュ(蜂の巣)」に居を定め、
そこで、画家や詩人たちとの交友を深めた。同地に集まった異国人作家たちとともに「エコール・ド・パリ」と称されることもある。



1915年に「ベラ・ローゼンフェルト」と結婚。彼女はシャガールに画家としての大きな幸福をもたらした。

第一次世界大戦中はロシアに戻り、10月革命(1917年)後のロシアでしばらく生活する。
1923年には、ベルリンを経由してふたたびパリへ戻る。
ロシア時代のシャガールの作品は「ロシア・アバンギャルド」の影響の濃いものであったが、
出国後の作品は「愛」の方への傾斜が認められる。

1941年、第二次世界大戦の勃発を受け、ナチスの迫害を避けてアメリカへ亡命した。
なお、同郷人で最初の妻ベラ・ローゼンフェルトはアメリカで病死。



1947年にパリへ戻ったシャガールは、1950年から南フランスに永住することを決意し、フランス国籍を取得している。
1952年、60歳のシャガールはユダヤ人女性「ヴァランティーヌ・ブロツキー」と再婚した。
1960年、エラスムス賞受賞。
同年、パリの新オペラ座(オペラ・ガルニエ)の天井画の依頼を受ける。これは1964年に完成している。

1967年、メトロポリタン・オペラハウスでの「魔笛」の舞台と衣裳デザイン、オペラハウスのロビーの壁画を依頼される。
これに関する作品はほとんど展示されているようです。これもポイント!

1985逝去。墓はニースに近いサン・ポール(Saint Paul)のユダヤ人墓地にある。


  *     *     *

美術館の展示室の一角では50分ほどの、シャガールのドキュメンタリー映画が観られる。
シャガールの最初の科白がおもしろい。「私のドキュメントがおもしろいかね?」
これは、老年のシャガールの元気で辛辣な毒舌家の姿ではあるが、
その長い画家としての人生を総括してみると、多才でありたゆみない追及の繰り返しであったと思える。
我が撓んだ日々を改心した次第であります。それにしても「シャガール」って、もろもろの意味でとってもハンサム♪

祭り裏  島尾ミホ

2010-10-04 16:49:13 | Book
これは島尾ミホの少女期の回想録と受け取っていいのだろうか。しかしこの七編の随筆は、そのまま短編小説とも言えそうです。
舞台は郷里の奄美大島の南端にある「加計呂麻島=かけろま島」です。
そこの「長」の娘として、特権階級の生活者としての記録ではありますが、島の風景、日常、まつりごと、学校生活、子供たち、大人たち、
などなどがおおらかに活写されていまして、それは輝くような開放された筆力でした。

夫である「島尾敏雄」の「死の棘」は衝撃的な私小説であり、そこに描き出された妻の有り様には、女性として大変に心惹かれるものがありました。
この「死の棘」が書かれる過程で、妻は何度も夫の原稿のチェックをしていたとのこと。
それはむしろ島尾敏雄の執筆に対する躊躇を払いのけるものではなかったのかと思われます。

また、この本の以前に書かれた「海辺の生と死」など、島尾ミホの本の出版に対して、我が事以上に夫の敏雄が興奮し、「あとがき」を書き、
喜んだということも、この夫婦の間を流れる奔流のような「愛」を思うのでした。
この「祭り裏」の出版打合せには立ち会えたものの、残念ながら出版される時期には島尾敏雄は亡くなっています。

島尾ミホは、多分1920年生まれ、1944年に、海軍特攻隊隊長として加計呂麻島に赴任した島尾敏雄と出会っています。その時ミホは小学校教員でした。


 【祭り裏】

猛暑をやり過ごして、八月中頃の島には実りの季節が訪れて、さまざまな村祭りが行われる。
会話はすべてこの土地の方言をカタカナで表記して、脇に訳が付けられている。 
この祭りの華やぎと喧騒の裏側で、血族の命がけの争いという、荒々しい事件が描かれています。
この時代のこの土地のおおらかさを表すように「癩病やみのニジロおじ」もそこに特殊な存在として描かれていないことでした。
この時代には癩者の「強制隔離」があったはずです。

この点につきましては、○氏にお願いしてご意見を頂きましたので、氏に感謝しつつ付記致します。
『辺境では中央の及ばない文化があったのだと思います。地方名は忘れたけれど、療養所にいくと帰ってこられなくなるからと
村ぐるみ(役場も含めて)匿ってくれたという記述を読んだ記憶があります。
特に共同体の意識の強い離島では、大いにありうるというより、普通だったと思います。』


 【老人と兆】

竹細工に秀でた「ギンタおじ」は、村の端の粗末な小屋で乞食のように暮している独居老人であり、唯一のシャーマン的な存在です。
村の子供やその家族とのあたたかな交流があり、「ギンタおじ」だけが「死神」から人々を救い出せる力を持っているのだった。


 【潮鳴り】

ミホが小学三年生の時に、新しく赴任してきた若く美しい女性教師はやさしく、子供たちに愛されていたのでした。
しかし彼女が密かに恋をして、人目を忍んで逢瀬を続けた島は、かつての流刑の島であった。
それを村人にみつかり、彼女は村人からも子供(特に男児)からも侮辱を受けて、ついに授業に来なくなった教室では、
さらに大きな事件が起こる。まだ下穿きやシュミーズなど一般の人々が身につけていない時代に、
ミホがレースのついた下着を身につけていることを知った男児たちは、教室から女児を全部追い出して、
ミホの下着を見ようとした。必死で身を守るミホ。。。
ここでは「島」のおおらかさとは裏腹に、女性だけにある古い因習がのしかかっているようだった。
この章は哀しい。しかし隠さずに書く島尾ミホの執筆への姿勢がうかがえる。


 【あらがい】

ここでは前章の男児へのミホの反逆が始まります。子供世界を生き抜くためには、それなりの「仁義?」があるようです。
しかし特権階級にいるミホは、大人社会がらみの子供の不平等もあることに気付くのでした。


 【潮の満ち干】

思いを遂げて結婚したはずの夫婦が、生活に疲れて子供を連れて実家に帰った妻。
一人取り残された夫は狂気の果てに放火をします。
たった一人の警官が暇をもてあましているような島で起きた大事件でした。
島の代表者たちの相談の結果、村に初めての「牢屋」が村人たちの手によって作られる。
その「牢屋」は「ギンタおじ」の小屋の隣でした。
「ギンタおじ」をはじめとして村人たちが交代で食事などの世話をしますが、その男は徐々に狂っていくだけでした。


あと二篇は省きます。おおらかな風土と、そこに育つ激しい人間の情念は、
島尾敏雄の私小説「死の棘」に描かれた女性の原風景のようにここにあったように思います。

 (1987年・中央公論社刊)