今日も髪はクルックル

コーヒーロースターの毎日です。

丁寧な暮らし

2014-12-07 08:37:24 | Weblog
ゆっくりドリップすることが丁寧に淹れることだと思ってらっしゃる方が
すごく多くいるということをコーヒー教室をやって知ることが出来た。
ゆっくりドリップすることは丁寧に淹れるということとは関係がなく
苦く重いコーヒーになる淹れ方だ。
丁寧にコーヒーを淹れるということは鮮度のよいコーヒーをこまめに買いに行き
淹れる前に挽きキチンと計量してドリップをはじめ定量が来たら止めるということ。
一見雑に淹れているように見えてもあっさりしたコーヒーを淹れたいのなら
その淹れ方は全然理にかなっている。
淹れている最中を点で見ると大切な何かを見失ってしまうよう気がする。

コーヒー屋だからコーヒーの淹れ方でそんな気がしたのだけれど
私たちの毎日にはそのようなことがたくさんあるのかもしれない。
点である場面を見ただけで何かを評価したり断定したりしてはいないだろうか?
ものごとはそんなに単純なものなのだろうか?
出来ることなら線や面でものごとを捉えたほうが日々が豊かになるんじゃないか
そんなことを考えるようになってきた。
歳をとったのかしら。
こだわりがあるのが悪いことでは決してない。
だけどこだわりすぎると大切なことを見失うのと同じことのように思うんだ。

時間はいつも同じに過ぎて行く。
でも時間が足りないなあと思うときもあれば全然進まないときもある
丁寧に出来るときもあれば雑になるときもある。
両方あっていいんだ。
雑な生活だけだと心が荒んでしまうし丁寧なだけだと疲れてしまう。
たとえば無農薬の野菜がいいとしても家族4人が毎食いただくと
かなりの出費になって家計が火の車になるかもしれない。
ならば出来うるだけそうなるようにすればいいんじゃないのかなと考える。
そうすれば少しはラクになると思うんだ。

丁寧に暮らすというのは誰かに対してするものではなく
自分や家族の毎日に自然とあらわれるものなのだ。
こんな風に生きていこうと話合いながらあらなんだかちょっと違うわね
って思ったら方向を変えたりしながら生きて行ければいい。
難しい顔してじゃなく笑いながらそうなればいいな。
あまり自分をカテゴライズしないほうがいいかも。
社会で生きる限り自分というのは他者が評価するもの
そう思っていればそんなにガチガチに構えることはなくなると思うんだ。
他者の評価は怖いけれど自分が思っているほど誰も気にしてくれてないと思えばラクになるよね。

完璧を求めすぎない幅のある暮らし。
それをきっと丁寧な暮らしって言うんだ。

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