「2016年師走の仙台旅行記(その2)」のつづきです。
仙台・大崎八幡宮(訪問記はこちら)を彷彿とさせるような、色鮮やかな社殿です。
大きな神社は、お寺と違って定期的に大々的な修復・建替が行われますから、社殿を一見しただけでは新しいのか古いのか判らないことが多いものですが、この社殿は、
大正11年(1922) 当時の宮司山下三次が政府に造営の陳情をしましたが、翌年の関東大震災発生にて効を奏せず、次代古川左京宮司が時の政府に強く訴えかけてようやく昭和9年(1934) に着手、明治・大正・昭和の神社建築の粋を集め昭和13年(1938) に完成したのが現社殿です。造営前の社殿地には2階建て社務所が建っておりましたが現在の場所に降ろし、その場所に志波彦神社を建立しております。
鹽竈神社とは趣を別にし、本殿・拝殿ともに朱黒漆塗りの極彩色社殿となっております。又全額国費を以て造られた最後の神社とも言われております。
だそうで、「昭和13年(1938) に完成」ですから、それほど古くはないとはいえ、築80年とは思えない鮮やかさです。
ところで、上に引用した説明文に「大正11年(1922) 当時の宮司山下三次が政府に造営の陳情をしました」とありますが、その前はどうだったのかといいますと、
元々は東山道より多賀城に至る交通の要所宮城郡岩切村(現仙台市宮城野区岩切)の冠川の辺(現八坂神社境内)に鎮座しておりましたが、中世以降衰微の一途を辿り境内も狭隘だったため、明治4年(1871)の国幣中社列格の際に社殿造営の事が検討され、明治7年(1874) 12月24日この地を離れ鹽竈神社別宮に遷座され、この際の御祭文に後日鹽竈神社境内に社殿を造営する旨が奏上されました。
だとか。
更に時代を遡れば、
当社はもと宮城郡岩切村(仙台市岩切)の冠川の畔に鎮座され、「延喜式」に収められている陸奥国百社の名神大社として、朝廷の尊信殊の外厚いものがありました。
だそうですから、10世紀初めには存在していた由緒ある神社のようです。
ところで、この「志波彦神社」という神社の名前を知ったとき、私が連想したのはかつて宮城県北部に存在していた「志波姫町」(現・栗原市)でした。
志波彦と志波姫、どう考えても「連れ合い」っぽいですよね?
調べると、旧志波姫町の町名は、
町名の由来:「木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)」を祭る「志波姫神社」の名にちなんで命名された
だそうで、志波姫神社という神社があるんですな
でも、志波彦大神をお祀りしている志波彦神社はストレートな命名ながら、木花開耶姫命(富士山の女神様)と志波姫神社の名が結びつかないし、志波彦神社と志波姫神社の関係もよく判らない
そもそも志波彦神社のご祭神・志波彦大神という神さま自体が初耳です。
公式サイトによれば、
記紀を始め各書にも神話伝承の見えない志波彦大神とは如何なる神様なのでしょうか。 そのヒントが御神名であり志波とは「物のシワ」つまり端を指す言葉で、仙台市内に志波町、栗原市志波姫に志波姫神社(式内社)、岩手県紫波郡に志波城跡、志和稲荷神社・志和古稲荷神社とシワの名を持つ所が点在します。これは大和朝廷の統治範囲が北進するにつれ、シワの地(朝廷勢力圏の端)が遷っていったと思われ、この地方で信仰されていた国津神(土着神)を志波彦神或いは志波姫神と呼んだものと考えられますが詳らかにはなっておりません。但し農耕守護・殖産・国土開発の神としての信仰が伝わっており、農耕を生業としていた人々の守護神だったのでしょう。
だそうで、よく判らないことが判りました
ぜんぜん〆らない ままに、「その4」につづきます。