新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

南東北ドライブ旅行記 #2-6

2017-09-08 23:42:59 | 旅行記

「南東北ドライブ旅行記 #2-5」のつづきです。

もうちょいと近くに駐車できればよかったなぁ… と思いながら歩いて、米沢城趾に到着。
まず目に止まったのはこちらの石碑でした。

「米沢牛の恩人 チャールズ・ヘンリー・ダラス」の碑です。

米沢といえば、国内に数あるブランド牛の中でもかなりの知名度を誇る米沢牛を連想する私でありまして、この夜には「米沢牛を食べるぞと心に決めていたのでありますが、このダラスさんのお名前は初めて見聞きしました。

碑文を転記しますと、

チャールズ・ヘンリー・ダラスは、天保13年(1842)英国ロンドンに生まれる。万延元年(1860)貿易商として中国に渡り、文久3年(1863)来日す。明治3年(1870)5月、東京大学の前身である大学南校に語学教師として奉職、明治4年(1871)10月には、旧藩校興譲館洋学舎に洋学教師として招聘される。
明治8年(1875)3月、興譲館の任期が満了し、横浜の外国人居留地に帰る折り、米沢での滞在中に食した米沢産の牛肉が非常に美味だったことから、居留地の仲間に「米沢のおみやげ」として、生きた牛を連れて帰り御馳走した所、その美味しさが評判となる。これが米沢産の牛肉が世に出た最初の出来事となった。またダラスお抱えのコックである萬吉には、米沢で最初の牛肉店「牛萬」を開店させた。
間もなくダラスの伝手により、添川村(現在の飯豊町添川)の生産者は、横浜の牛肉問屋と契約を取付、米沢産の牛を販売するに至った。そこから「米沢牛」の歴史が始まった。このダラスこそが、米沢の牛肉を文明開化の横浜に紹介してくれた「米沢牛の恩人」なのである。

と、全文になってしまいましたが、ダラスさんが米沢から横浜へ「生きた牛を連れて帰り」とありますけれど、どうやって「連れて帰」ったのでしょうか?
山高帽をかぶった英国人紳士が、を牽いて歩く姿を想像しますが、まさか米沢から横浜まで歩いたとは考えづらい…。
とは言え、福島から上野まで鉄道が通じたのは1887年12月(米沢~福島間の鉄道開通は1899年)ですから、やはり歩いたのかなぁ…
でもでも、を連れて歩いたら、それこそ「牛歩」のスピードで、相当、時間がかかったことでしょうねぇ

もう一つ、不思議に思うのは、まだ肉食が全国的に普及してたとは思えない1870年代前半に、ダラスさんが米沢牛肉を食していたということ。
(下の図は、教科書で見た記憶のある「牛鍋を食するざん切り男」の図)

ダラスさんを始め、外国人にとっては普通のことでも、地元の人たちにしてみれば、を食べるなんて、信じられないことだったのではなかろうか…
そもそも、この時に食べられたって、農耕用の牛だったんじゃないのか?

そんなことを考えながら歩を進めると、こちらもまた「米沢といえば…」の、

米沢藩中興の祖として誉れの高い、米沢藩9代藩主上杉鷹山(治憲)公の像がありました。

米沢藩は、初代藩主・上杉景勝会津から転封されてからずっと財政破綻が懸念される「貧乏藩」だったそうですが、財政面だけでなく、「血統」の点でも、上杉景勝が先代当主の上杉謙信だったことを初めとして、綱渡りだったようです。
景勝⇒定勝⇒綱勝と、直系を継いだものの、Wikipediaから引用すれば、綱勝は、

嗣子なく、世嗣も指名しないまま急死する。享年26。本来ならば上杉氏は無嗣子断絶となるところであったが、綱勝の岳父に当たる保科正之の仲介などもあって、綱勝の妹・富子が嫁いでいた高家・吉良義央(清和源氏の名門であり、扇谷上杉家・八条上杉家の女系子孫でもある)の長男・三之助末期養子として綱勝の跡を継ぐことで家名存続を許された。

と、吉良上野介義央の嫡男(綱勝の甥)である綱憲4代藩主に就き、綱憲⇒吉憲⇒宗憲直系が続いたのち、宗憲嗣子がないまま22歳の若さで急死し、「弟・宗房末期養子として跡を継いだ」ものの、宗房までもが「兄と同じく嗣子無くして米沢にて死去」。そして、「跡を同母弟勝政改め重定が継いだ」となります。

この頃の米沢藩は、

減封が相次ぎ、4代藩主・綱憲の末期養子としての襲封を認める代償に15万石にまで減封されたが、藩士召し放ちを行わなかったこともあり、藩財政は極めて劣悪であった。

に更に輪を掛けた状態だった由。
ここで、重定が、

宝暦9年(1759年)に日向国高鍋藩6代藩主・秋月種美の次男・松三郎を養子とする内約を結び、宝暦10年(1760年)に実子が生まれたのにかかわらず養嗣子として迎えた。

ということで登場したのが9代藩主・上杉鷹山(治憲)公です。

実子が生まれたにもかかわらず、養子治憲後継にしたのは、「先約があった」こともあるでしょうけれど、「流れを変えたい」という重定の思いもあったのかもしれません。
ちなみに、重定⇒秋月松三郎(治憲)意表を突く代継ぎですが、

母方の祖母の豊姫が米沢藩4代藩主・上杉綱憲の娘

という「血縁」があります。
でも、宗家からは結構遠い

ところが、中学・高校の歴史の授業では、上杉景勝よりも上杉鷹山(治憲)の方の扱いが大きいのですから、判らないものです。
そして、地元・米沢でも、上杉鷹山(治憲)公をご祭神とする松岬神社が建てられるという慕われ方です。

上杉景勝会津120万石から米沢30万石転封された際、新しい経済規模に見合うよう家臣団を減員することなく引っ越してきたことに端を発する米沢藩の窮乏を救ったことは、家臣団のみならず、領民にとっても大きな業績だと受け止められたのでしょう。

でも、米沢城趾の中心は、やはり上杉謙信でした。

そのお話は「#2-7」で。

つづき:2017/09/15 南東北ドライブ旅行記 #2-7

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