新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

Misia Candle Night 奈良遠征旅行記(初日・最終回)

2016-10-16 10:49:41 | 旅行記

「Misia Candle Night 奈良遠征旅行記(初日・その8)」のつづき、初日の最終回です。

法隆寺夢殿を拝見したあと、お隣にある中宮寺を拝観しました。

中宮寺は、高校の修学旅行以来ですから、ウン十年ぶりです
高校生だった私にとって、鉄筋コンクリート造の本堂1968年竣工)に「アテが外れた」感じで、ふ~ん… てな感じでしたっけ…

法隆寺東院伽藍隣接していることから、法隆寺の一部だと思っている人も多いのではないかと推察される中宮寺、パンフレットによれば、「戦後は法隆寺を総本山とする聖徳宗に合流」していますが、、

聖徳太子の御母穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后の御願によって、太子の宮居斑鳩宮を中央にして、西の法隆寺と対照的な位置に創建された寺であります。その旧地は、現在の東方500m程の所に土壇として残って居ります。昭和38年の発掘調査により、南に塔、北に金堂を配した四天王寺式配置の伽藍であったことが確認され、それは丁度法隆寺旧地若草伽藍が四天王寺式であるのに応ずるものと云えましょう。

今でこそ着々と伽藍の再興が続く薬師寺興福寺が、かつては廃寺一歩手前だったことがあるように、この中宮寺存続が危ぶまれた時代があったそうで、

平安時代には寺運衰退し、宝物の主なものは法隆寺に移され、僅かに草堂一宇を残して菩薩半跏像のみ居ますと云った状態でありました。

それが、

鎌倉時代に入って中興信如比丘尼の尽力により、天寿国曼荼羅を法隆寺宝蔵内に発見して取り戻すなど、いくらかの復興を見たものの、往時の盛大には比すべくものもありませんでした。(中略) たびたび火災に遭い、法隆寺東院の山内子院に避難し、旧地への再建ならず、ここに後伏見天皇八世の皇孫尊智女王(慶長7年薨)が御住職遊ばされ、以来尼門跡斑鳩御所として次第に寺観を整えたのが今の伽藍であります。

そして、

高松宮と当寺との浅からぬ御因縁から高松宮妃殿下は、寺に万一の事があったら御心痛遊ばされ、耐震耐火の御堂の建立を念願されこの本堂が出来たのであります。

だとか。
1400年という長い歴史には、当然、いろいろあったんですねぇ

ところで、寺社パトロネスとして大活躍した桂昌院中宮寺には興味が持てなかったのでしょうか? (下の写真は、桂昌院の実家・本庄家の家紋「繋ぎ九つ目結」が鋳出された法隆寺西院伽藍の灯籠)

それはともかく、中宮寺本堂は、明るく、風通しが良くて、居心地がいい

御本尊の菩薩半跏像(如意輪観世音菩薩)も、新鮮な空気気持ち良さげで、2か月半前東京国立博物館光量を絞った特別5室で拝見したときより、さらに微笑みが穏やかでステキでした

4年前、NHK BSプレミアム「極上 美の饗宴」で、中宮寺菩薩半跏像を取り上げたことがありまして(私のコレクションに収まっている)、実際に、この半跏像のポーズをとろうとすると、かなり無理があるのだとか。

半跏の姿勢で左の足を垂れ、右の足を左膝の上に置き、右手を曲げて、その指先をほのかに頬に触れる優美な造形は、人間の救いをいかにせんと思惟されるにふさわしい清純な気品をたたえています。

とのパンフレットの説明に御意です

   

菩薩半跏像(如意輪観世音菩薩)と共に中宮寺に伝わるもう一つの国宝「天寿国曼荼羅繍帳」は、現在、奈良国立博物館に寄託されていて、中宮寺本堂ではそのレプリカが展示されていました。

「天寿国曼荼羅繍帳」は、美術工芸品の中でも、とりわけ保存が困難「繊維もの」ですで、Wikipediaによれば、

古記録に基づく考証によれば、制作当初は縦2メートル、横4メートルほどの帳2枚を横につなげたものであったと推定されるが、現存するのは全体のごく一部にすぎず、さまざまな断片をつなぎ合わせ、縦88.8センチメートル、横82.7センチメートルの額装仕立てとなっている。このほかに断片2点が別途保存されている。

だそうですから、奈良博に寄託されてもなお、現物を拝見する機会はめったにないのでしょうねぇ。

境内から見える法隆寺夢殿美しいシルエットを目に焼き付けてから、中宮寺を後にしました。

   

トロトロとバス停まで歩き、冷房の効いた待合室涼んだり、外に出て一服したりして、春日大社本殿行きのバスを待ちました。

そして、これまた冷房の効いたバスに乗り、乗り換え無しで一気に春日大社・飛火野出撃

意気軒昂だったのですが、斑鳩から春日大社まではかなり距離があった

春日大社・飛火野最寄りの「東大寺大仏殿」で降りるまで、バスに揺られること約1時間
正直、退屈しました。
観光路線だけあって、ところどころでUターンまがい(?)のルートを採るんですから
事前にこのバス路線のことを調べておけば、JRを使って奈良駅まで行ったはずですが、まぁ、それも旅の醍醐味ってやつで…

そうだそうだ、途中、大和郡山市内に「大職冠」という名前のバス停があって、「おぉ、中臣鎌足ちょっと興奮しました。
調べると、近くに「大織冠鎌足神社」という神社があるんですな
老婆心ながら、「大織冠」とは、Wikipediaを引用しますと、

大織冠(だいしょくかん、だいしきかん)は、647年から685年まで日本で用いられた冠位、またその標章たる冠をいう。冠位としては単に大織ともいう。冠位の最上位で、下には小織がある。史上藤原鎌足だけが授かった

というものでして、高校の日本史で勉強した記憶が残っていました。

   

さて、バスは定刻からちょいと遅れましたが、「Misia Candle Night」の開場時刻前に飛火野に到着できました

で、この夜の「Misia Candle Night」のことは「Misia Candle Night @春日大社 飛火野 2daysのこと(前編)(後編)」をご参照いただくこととしまして、

とさせていただきます

「Misia Candle Night」終演後、私は近鉄奈良駅まで歩き近鉄奈良線に乗って大阪へ戻りました。

その、何度も乗っている近鉄奈良線新発見

 大阪に小阪があった

地元の方々には申しわけないながら、河内小阪なる駅が存在しているとは知りませんでした

この駅の所在地は「大阪府東大阪市小阪一丁目」だそうで、ややこしい住所です。

と思ったら、河内小阪からちょっと離れたところには、「大阪府東大阪市中小阪」なる住所があるようで、これは、「神奈川県横浜市神奈川区神奈川」並みの、ややこしいというかクドい住所ですなあ。

   

そんなことがありながらも、近鉄奈良線の電車の中では、この日の夕食を、乗り換え地点の鶴橋で改札を出て焼肉を食べようか、それとも、ホテルチェックインした後で天王寺で食べようかと思案

結局、21時を過ぎていましたので、先にチェックインすることにしまして、ホテルの自室で一息ついたのち、天王寺でコストパフォーマンスの高い焼肉を食したのでありました。

めでたし、めでたし。

つづき:2016/10/19 Misia Candle Night 奈良遠征旅行記(2日目・その1)

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