「名古屋にSOUL JAZZ旅行 #1-1」のつづきです。
初めてやって来ました、熱田神宮
天皇の代替わりの儀式の一つに「剣璽渡御の儀」というものがあります。
Wikipediaによれば、
今上天皇皇位継承の際の1989年(昭和64年)1月7日には、日本国憲法の政教分離規定への配慮から「剣璽等承継の儀」とされ、国事行為たる儀式として、剣・璽及び国璽・御璽を侍従長が新天皇の前にある机に置く短い儀式が、皇位継承後まもなく10時01分より宮殿の正殿松の間で行われ、テレビ中継された。
とありまして、私もTVで見た記憶があります。
私、長いこと「剣璽」の「剣」は「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」こと「草薙剣」、「璽」は、国璽・御璽(ハンコ)のことだとおもっていたのですが、「璽」は「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」を意味しています。
「三種の神器」のうち、宮中三殿の主殿たる「賢所」に祀られて動かない「八咫鏡(やたのかがみ)」を除く「天叢雲剣」と「草薙剣」(ふたつで「剣璽」)は、
戦前は、天皇が皇居(宮城)を一日以上離れる場合に、必ず侍従が捧げ持ち随行した。これを剣璽動座という。しかし、第二次世界大戦後に「皇位神聖否定」の一環としてGHQに中止させられた。(Wikipedia)
だそうで、現在、博物館明治村で保管・展示されている「6号御料車」(1910年製)には、行幸に同行する剣璽のための専用棚が設けられているのだとか。
で、熱田神宮の境内には、「神話と歴史でたどる熱田神宮1900年の歴史」という懇切丁寧なパネルが設置されていまして、その冒頭にこうあります。
平成25年(2013年)、熱田神宮は草薙御剣(くさなぎのみつるぎ)を祀ってより1900年を迎えました。神剣はもと天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)といい、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が出雲国簸の川上(ひのかわかみ)において八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、その尾より出現しました。神剣は天照大神(あまてらすおおかみ)に献上された後、邇々杵命(ににぎのみこと)降臨の際に三種の神器の一つとして授けられ、以降、宮中にとどめられました。
第10代崇神天皇のとき、鏡と剣は宮中よりお出になり、倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)(奈良県桜井市)で祀られ、第11代垂仁天皇のとき伊勢の神宮にご鎮祭されました。三種の神器とは八咫鏡・草薙神剣(天叢雲剣)・八尺瓊曲玉をいい、歴代天皇の御璽(みしるし)として今日まで受け継がれています。
ここでちょいと不思議なのは、伊勢神宮の八咫鏡、熱田神宮の草薙剣と、皇居にある鏡と剣との関係です。
これまたWikipediaからの引用で申しわけないのですが…
宮中三殿の賢所に八咫鏡の形代としての神体の鏡が祀られるが、これは天徳4年(960年)9月23日(『日本紀略』『小右記』)、天元5年(982年)11月17日(『愚管抄』 「焼タル金ヲトリアツメテマイラセタリ」)、寛弘2年(1005年)11月15日(『御堂関白記』)、長暦4年(1040年)9月9日(『春記』藤原資房)等に火災の記録があり、それらの記述によると数多の火災によって鏡の形状を残しておらずわずかな灰となって器の中に保管されているようである。これは源平の壇ノ浦の戦いで回収された。
熱田神宮に祀られる草薙剣は古来のものが現存するとされる。
皇居の神剣(草薙剣の形代)と勾玉は、源平の壇ノ浦の戦いで二位の尼が安徳天皇を抱き腰に神器の剣を差し勾玉の箱を奉じて入水し一緒に水没した。草薙剣はそのため現存しない。が、この剣は草薙剣の形代(レプリカ)の一つに神道でいう御魂遷しの儀式を経て神器としていた物であり、後に改めて別の形代の剣が伊勢神宮の神庫から選び出され同様の措置が採られた。これが現在の皇居の剣である。一方、勾玉の方はその際に箱ごと浮かび上がり、源氏に回収された。この勾玉は古代のものが皇居に現存するとされる。
この記述に、「ようである」「とされる」が頻発して気になりますが、それもそのはず、ご神体である三種の神器の現物を見たという記録がないのですから…
ちょっと話がズレましたが、要は、皇居にある鏡と剣は、形代(かたしろ)、公式なレプリカというか、御分身なんですな。
ところで、剣璽が天皇と共に遠征する「剣璽動座」について、上の方に、Wikipediaからの引用で、
第二次世界大戦後に「皇位神聖否定」の一環としてGHQに中止させられた
と書きましたが、「剣璽動座の伝統が復活したのは、第60回式年遷宮の翌年である1974年に昭和天皇が剣璽を伴って神宮を参拝した時である」だそうで、2014年4月に今上天皇が伊勢神宮に参拝された際にも、剣璽が同行しています。
天皇陛下の左奥に、ストラップ付きの黒い箱を抱える人が写っていますが、この黒い箱の中に草薙剣(御物)が収められている、とされています。
さて、第三鳥居をくぐると、いよいよ本宮
清々しいです
神明造の社殿が並ぶ様は、さすがぁ~ って感じ (意味不明)
拝殿の細かい装飾も素敵です。
熱田神宮の現在の社殿は、1893年(明治26年)に建てられたもので、明治前期の本宮の境内はこんな感じだったのだとか。
説明パネルによれば、
1871年(明治4年)明治政府から官幣大社に指定され、そして1893年(明治26年)、尾張造の社殿から神明造の社殿に変更となりました。
これは時の宮司角田忠行が、三種の神器を奉斎するにふさわしい当神宮のあり方を考えて、伊勢の神宮と同様な社殿とすることを政府に建言した結果、国費により、尾張造から神明造に社殿が改められたものであり、勅使参向のもと同年4月遷座が厳粛に斎行されました。
だそうです。
もともと地元特産の「尾張造」だったものを、伊勢神宮を真似たものに建て替えたっつうわけで(しかも太平洋戦争の空襲で焼失したという…)、敢えて地元の伝統を捨てた性根が理解しがたい…
神明造の魅力は否定しません、というより、私も好きですが、この社殿建て替えには、名古屋の人々のコンプレックスが作用している気がするのは私の偏見でしょうか?