「好天に誘われて江戸東京たてもの園(その3)」のつづきです。
私が前回江戸東京たてもの園を訪れてから、早くも8年の歳月が流れていて、ちょっとゾッとしているのですが、この間にたてもの園には、「その1」で紹介したデ・ラランデ邸の他、
2棟の「展示」が増えていました。
その2棟は東ゾーンにありまして、まずは大和屋本店(乾物屋)。
港区白金台(4丁目)の通称目黒通り沿いにあった木造3階建ての商店である。建物は、3階の軒下に何本もの腕木が壁に取り付き出桁と呼ばれる長い横材を支える出桁造りである。(中略) 出桁造りでありながら、間口に対して背が高い看板建築の特徴をも備えた建物である。建物は、創建当初の1928年(昭和3)に復元している。(解説本より)
だそうで、「盬」の看板が目を惹きます。
この「盬」の文字で思い出すのが、私のHNの由来にもなっている徒然草。
徒然草136段です。
原文は上に張ったリンク先でお読みいただくとして、内容は、
和気篤成という医師が、後宇多法皇の宴席に招かれたとき、「私は生き字引のようなもので、ここに出されている料理の素材やその効能は何でも知ってますぞ」と自慢した。そこで、六条有房内大臣が、「質問させてくだされ。『しお』という漢字は何偏でしたかの?」。篤成が「土偏でございます」と返答したところ、有房は、「あんたの学識はそんなもんでっか。底が割れましたな。今夜はこの辺でお帰りなさいな」と一蹴。篤成はわらわらと退散した。
というもの。
「しお」は「塩」ではなく「盬」じゃ。
ということなのですが、こりゃ、六条内府は篤成をハメましたな
せめて、「『しお』という漢字の旁(つくり)は何でしたかの?」と尋ねればよかったのに…
よほど篤成の態度が気に障ったのでしょうかねぇ…
「徒然草」が出てくれば、「煙草」も登場させないと、私の気がすみません
ということで、大和屋本店の店先の写真を載せます。
大和屋本店では煙草も販売しており、店舗前面に煙草屋の造作が取り付けられていた。
今回取り付けられている煙草屋の造作は昭和20年代のもので、青梅市二俣尾1丁目 武田清氏よりご寄贈いただいたものである。
とのこと。
こうした「煙草屋の造作」の奥には、看板娘か元看板娘が座っているイメージなんですが、大和屋本店では、どちらのケースが多かったのでしょうか?
そんな妄想に突入したところで「その5」につづきます
つづき:2016/10/28
好天に誘われて江戸東京たてもの園(その5)