白鑞金’s 湖庵

元ノラ猫タマと愉快な仲間たちの日記・エッセイ・コラム。

「国際協定よりも、強行採決が最優先」 蓮舫代表(2)

2016年11月05日 | 日記・エッセイ・コラム

原則的部分において一度でも妥協すると何が起こるか。事態は一体どういうことになって行くか。同じ党の内部から政敵が出現する。戦争や革命の時期にはそれが手に取るように生き生きと見え始める。レーニンは警告する。

「われわれはたったいま『労働運動の成長が革命的組織の成長と発展を追いこしている』というベ~~ヴェのことばを引用した。この『現地観察者の貴重な報告』(ベ~~ヴェの論文にたいする『ラボーチェエ・デーロ』編集局の批評)は、われわれにとって二重に貴重である。この報告は、われわれがロシア社会民主党の今日の危機の根本原因は《大衆の自然発生的高揚》にたいする《指導者》(『イデオローグ』、革命家、社会民主主義者)《の立ちおくれ》にあると考えたのが、正しかったことを示している。それは、自然発生的要素やじみな日常闘争の意義を軽視する危険だの、過程としての戦術だの、なんだのという、『経済主義的な』手紙(『イスクラ』第十二号所載)の筆者たちや、ベ・クリチェフスキーやマルトィノフのこうした議論が、すべて手工業性の賛美と弁護とにほかならないことを示している」(レーニン「なにをなすべきか?・P.156~157」国民文庫)


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「『理論家』ということばを口にするときには、かならず軽蔑したようなしかめっつらをしてみせないと気がすまず、現実生活にかんする訓練不足と未熟さの前に自分たちが平伏していることをさして『現実感覚』とよんでいるこの連中は、実際には、われわれの最も緊急な《実践的》諸任務を理解していないことを暴露しているのである。彼らは、遅れた人々にむかって、歩調を合わせろ!さしばしるな!と叫びかけ、組織活動における精力と創意に不足し、広範で大胆な仕事を組織する『計画』に不足している人々にむかって、『過程としての戦術』を呼びかける!われわれの基本的な罪は、われわれの政治的《ならびに組織的》任務を、日常的な経済闘争の最も身近な、『目に見える』、『具体的な』利益にまで《低めている》ことにあるのだが、それなのに彼らは、経済闘争そのものに政治性をあたえることが必要だ、とわれわれにむかって繰りかえし言いつづけるのである!いま一度言うが、これは葬列を見て、『いくら運んでも運びきれないように!』と叫んだ、あの民話の主人公の示した『現実感覚』と、文字どおり同じものである」(レーニン「なにをなすべきか?・P.157」国民文庫)

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次の文章はプレハノフがまだレーニンの「同志」だった頃のもの。だからプレハノフをかばっているのだが、面白いのはレーニン批判に対する「ナルシス的な高慢さ」という返しのフレーズが的を得過ぎているところ。

「この賢人たちが、なんと比類のない、真に『ナルツィス的な』高慢さでプレハーノフに説教したことか、思いだしてみたまえ。『政治的任務には、真実の、《実践的な》意味では、すなわち政治的要求のための適切で効果のある《実践的》闘争という意味では、一般に(原文のまま!)労働者《サークル》にとってとりつきにくいものである』(「『ラボーチェエ・デーロ』編集局の回答」、二十四ページ)と。サークルにもいろいろあろうというものだ。諸君!もちろん、『手工業者』のサークルにとっては、その手工業者が自分たちの手工業性を自覚して、それから脱却しないあいだは、政治的任務はとりつきにくいものである。そして、もしこれらの手工業者が、そのうえ自分たちの手工業性にほれこんでいるようなら、彼らが『実践的』ということばをかならずゴシック文字で書き、また実践的であるためには、自分たちの任務を大衆の最も遅れた層の理解力の水準に低めることが必要だと考えているようなら、──そのときには、これらの手工業者たちはとても見込みがなく、彼らにとっては実際に《政治的任務が総じてとりつきにくい》のは、いうまでもない」(レーニン「なにをなすべきか?・P.157~158」国民文庫)

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「しかし、アレクセーエフやムィシキン、ハルトゥーリンやジョリャーボフのような巨匠たちのサークルにとっては、最も真実な、最も実践的な意味での政治的任務は、とりつきやすいものである。それがとりつきやすいのは、まさに彼らの熱烈な伝道が自然発生的にめざめつつある大衆のうちに反響をよび、彼らのたぎりたつ精力が革命的階級の精力によって受けつがれ、ささえられるからであり、またそのかぎりにおいてである。プレハーノフが、この革命的階級を示すだけにとどまらず、またこの階級の自然発生的なめざめが不可避であり、必然的であることを証明するだけにとどまらずに、『労働者サークル』にたいしてさえ、高く、大きな政治的任務を提起したのは重々正しかった。ところが、諸君は、この任務を《低める》ために、──『労働者サークル』の精力と活動の規模とを《せばめる》ために、その後に発生した大衆運動を言いたてる。これは、手工業者が自分の手工業にほれこんでいるものでなくて、なんであろうか?諸君は、自分たちの実践的なことを自覚しているが、そのくせロシアのどんな実践家でも知っている事実を、すなわち、革命の事業においては、サークルはおろか個々人の精力によってさえどのような奇跡をおこなうことができるかを、見ないのである」(レーニン「なにをなすべきか?・P.158~159」国民文庫)

「奇跡」という言葉が用いられているが、その辺りにロシアがキリスト教(ロシア国教会)国家だった名残りを感じさせる。

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次の皮肉もまた気が利いていて今なお笑えるところがある。

「それとも、諸君は、七〇年代のような巨匠たちは、われわれの運動にいるはずがないとでも考えているのか?どうしてそうなのか?われわれの訓練が足りないからであろうか?だが、われわれは自分を訓練しつつあるし、今後も訓練するであろうし、訓練しとげるであろう!なるほどわが国では、不幸なことに、『雇い主と政府とにたいする経済闘争』のよどみ水の表面にかびが生えてしまい、ロシア・プロレタリアートの(プレハーノフの表現を借りれば)『お尻』をうやうやしくながめながら、自然発生性の前にひざまずいて祈りをささげる人々が現われた。しかし、われわれはこのかびをはらいのけることができるであろう。いまこそ、ロシアの革命家は、真にか革命的な理論にみちびかれ、真に革命的な、自然発生的にめざめつつある階級にたよりながら、ついに──ついにだ!──すっくと立ちあがって、彼らの剛勇の力量をあますところなく発揮することができる。そのためには、われわれの政治的任務を低め、われわれの組織活動の規模をせばめようとするあらゆるもくろみが、多くの実践家のあいだで、またすでに学窓にあるころから実践的活動を夢みているいっそう多くの人々のあいだで、嘲笑と軽蔑とでむかえられるようになりさえすればよい。そしてわれわれは、そうならせよう。心配したもうな、諸君!」(レーニン「なにをなすべきか?・P.159」国民文庫)

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さて、僅かに調子を変える。

「いったいわれわれの意見の相違の根源はどういう点にあったのか?それは、まさに『経済主義者たち』が、政治的任務の場合と同様に、組織上の任務についても、たえず、社会民主主義から組合主義に迷いこんでいる点にある。社会民主党の政治闘争は、雇い主と政府とにたいする労働者の経済闘争よりもずっと広範で複雑である。それとまったく同様に(またその結果として)、革命的社会民主党の組織は、どうしてもこのような闘争のための労働者の組織とは《別種》のものでなければならないのである。労働者の組織は、第一に、労働組合組織でなければならない。第二に、できるだけ広範なものでなければならない。第三に、できるだけ秘密でないものでなければならない(いうまでもなく、私はここでも、また以下の文中でも、専制ロシアだけを念頭において言っている)。これに反して、革命家の組織は、まず第一に、また主として、革命的活動を職業とする人々をふくまなければならない(だから私は、社会民主主義的革命家を念頭において《革命家》の組織と言っているのである)。こういう組織の成員に共通な標識をまえにしては、《労働者とインテリゲンツィアのあいだのあらゆる差異はまったく消えさらなければならず》、まして両者の個々の職業の差異についてはいうまでもない。この組織は、必然的に、あまり広範なものであってはならず、またできるだけ秘密なものでなければならない。この三とおりの差異を立ちいって調べてみよう」(レーニン「なにをなすべきか?・P.166」国民文庫)

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「政治的自由のおこなわれている国々では、労働組合的組織と政治的組織との差異がまったく明瞭であることは、労働組合と社会民主党との差異が明瞭であるのと同様である。もちろん、後者と前者との関係は、いろいろな国で、それぞれの歴史的、法律的その他の条件におうじて、不可避的に変化する。──この関係の緊密さや複雑さなどの程度は、大小さまざまでありうる(われわれの見地からすれば、それはできるだけ緊密で、またできるだけ複雑でないものでなければならない)が、労働組合の組織と社会民主党の組織とが一致するというようなことは、自由な国々では問題にならない。ところが、ロシアでは、一見したところ、専制の圧制が社会民主主義的組織と労働者団体のあいだのあらゆる差異を消しさっているかのようである。なぜなら、《あらゆる》労働者団体、《あらゆる》サークルが禁止されており、労働者の経済闘争の主要な現われであり道具であるストライキは、総じて刑事上の犯罪となっている(そして、ときとして政治上の犯罪にさえなっている!)からである」(レーニン「なにをなすべきか?・P.166~167」国民文庫)

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「こうして、わが国の諸条件は、一方では、経済闘争をおこなう労働者を大いに政治問題に『突きあたらせる』が、他方では、社会民主主義者を組合主義と社会民主主義者との混同に『突きあたらせる』のである(そしてわがクリチェフスキー、マルトィノフらの一派は、第一の種類の『突きあたらせ』を熱心に論じながら、第二の種類の『突きあたらせ』には気がつかない)。じっさい、『雇い主と政府とにたいする経済闘争』に九割九分まで没頭しきっている人々のことを思いうかべてみたまえ。そのうちのある人々は、その活動の全期間(四ヶ月ないし六ヶ月)をつうじてただの一度も、もっと複雑な革命家の組織が必要だという問題に突きあたることはないだろう。別のある人々は、おそらくかなりにゆきわたったベルンシュタイン主義の文献に『突きあたって』、そこから、『じみな日常闘争の漸進的な歩み』がとくに重要だという確信をくみとるだろう。最後に、さらに別のある人々は、おそらく『プロレタリア闘争との緊密な有機的結びつき』の、労働組合運動と社会民主主義運動との結びつきの、新しい模範を世に示したいという、魅惑的な思想に熱中するだろう。そういう人々は次のように論じる。ある国が資本主義の舞台に、したがってまた労働運動の舞台に登場することがおそければおそいほど、社会主義者はそれだけ多く労働組合運動に参加して、それに支持をあたえることができ、また非社会民主主義的な労働組合はそれだけ少なくてよく、また少なくなければならない、と。この点まではこのような議論はまったく正しい。しかし、不幸なことに、彼らはもっと論旨をすすめて、社会民主主義と組合主義との完全な融合を夢想する。われわれは、じきに『サンクト-ペテルブルグ闘争同盟規約』の例によって、こうした夢想がわれわれの組織計画にどんなに有害な影響をおよぼしているかを見るであろう」(レーニン「なにをなすべきか?・P.167~168」国民文庫)

「第一の種類の『突きあたらせ』を熱心に論じながら、第二の種類の『突きあたらせ』には気がつかない」。そういう人々は今でもどこにでも居るものだ。

BGM15

「経済闘争のための労働者の組織は労働組合的組織でなければならない。社会民主主義的労働者は、だれでもできるかぎりこれらの組織に協力して、そのなかで積極的に活動しなければならない。これはいかにもそのとおりである。だが、社会民主主義者だけが『職業』組合の一員となることができるような状態を要求することは、けっしてわれわれの利益にはならない。そんなふうにすると、大衆にたいするわれわれの影響範囲をせばめることになるからである。雇い主と政府とにたいして闘争するために団結が必要であることを理解している労働者なら、だれでも職業組合に参加させるがよい。もし職業組合が、せめてこの程度の初歩の理解をもちうる人々の全部を結合しないなら、もしこれらの職業組合が非常に《広範な》組織でないなら、職業組合の目的そのものが達せられないであろう。そして、これらの組織が広範であればあるほど、それにたいするわれわれの影響もいっそう広範になるであろう。この影響は、経済闘争の『自然発生的』発展によってあたえられるだけでなく、また組合員中の社会主義者がその同僚たちに直接に意識的にはたらきかけることによってもあたえられるのである。しかし、組織の成員が広範な場合には、厳格な秘密活動(経済闘争への参加に必要なよりもずっと多くの訓練を必要とする活動)は不可能である。成員が広範なことが必要なのに、また厳格な秘密活動も必要だという、この矛盾を、どうやって調和させたらよいのか?職業組合をできるだけ秘密でないようにするには、どうしたらよいのか?一般的にいって、このためには二つの道しかありえない。すなわち、職業組合を合法化するか(ある国々では、これが社会主義団体や政治団体の合法化にさきだっておこなわれた)、それとも、組織は秘密にたもつけれども、組合員大衆にとって秘密活動がほとんどゼロになってしまうくらい『自由な』、ほとんどきまった形のない、ドイツ人のいうlose〔ルーズ〕なものとするか、どちらかである」(レーニン「なにをなすべきか?・P.168~169」国民文庫)

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そして次の文面を読んで、わからないという人間は、今や世界のどこにもいない。知らない者など探してもいないし呼んでも来ない。グローバル社会ゆえに増々当然なのだが。

「非社会主義的、非政治的な労働者団体の合法化は、ロシアではすでに始まっている。そして、急速に成長しつつあるわが社会民主主義的労働運動の一歩一歩が、こういう合法化の試みを倍増させ、また鼓舞するであろうことには、すこしの疑いもありえない。こういう試みは、おもに現存制度の味方に由来するものであるが、部分的にはまた労働者自身や、さらに自由主義的インテリゲンツィアにも由来している。合法化の旗じるしはすでにヴァシーリエフやズバートフらによってかかげられており、すでにオーゼロフ氏やヴォルムス氏らがそれへの協力を約束し、またあたえており、すでに労働者のあいだにもこの新潮流の追随者がいる。そこで、われわれとしても、今後この潮流のことを考慮しないわけにはいかない。これをどう考慮するかについては、社会民主主義者のあいだにおそらく二つの意見はありえない。われわれは、この潮流へのズバートフやヴァシーリエフら、憲兵や坊主どものどのような参加をもたゆまず暴露し、これらの参加者の真の意図を労働者に説明する義務がある。われわれはまた、労働者の公開集会で自由主義的活動家がおこなう演説のなかにしのびこんでくるあらゆる調停的、『協調的』な論調を暴露する義務がある。彼らのそういう論議が、本気に諸階級の平和的協力を望ましいものと確信するからであろうと、当局にとりいりたいという願いからであろうと、また最後に、たんにへまなためであろうと、同じことである。最後にわれわれは、労働者に警察のわなにひっかからないように用心させる義務がある。警察は、こういう公開集会の席上や公認団体のなかで『過激分子』を物色したり、合法組織をつうじて非合法組織のなかへも挑発者を送りこもうと試みたりして、しばしば労働者にこういうわなをしかけるからである」(レーニン「なにをなすべきか?・P.169~170」国民文庫)

先日、大分県にある労組の建物が隠しカメラで監視されていたことが発覚した。もっとも、「隠れて」ではなく「公然」であれば良いというわけのものではない。類似案件と言えよう。しかし、覗く側も覗かれる側もどこかだらだらした、何とも緊張感のない映像にしか見えなかったのはどうしてだろう。テレビを通してだからか。しかしそういうことではないように思われるのだが。

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従って、次のような問題は当然出てくる。

「だから、合法化によっては《われわれ》は、なるべく秘密でない、できるだけ広範な労働組合的組織をつくりだす問題を《解決》できないのである(しかし、ズバートフやオーゼロフらがわれわれにこれを解決するための部分的な可能性でもひらいてくれるなら、われわれは大喜びするだろう。──そうさせるために、われわれはできるだけ精力的に彼らとたたかわなければならない!)。あとに残るのは、秘密の労働組合的組織の道だけである。そして、すでにこの道にすすんでいる(われわれが確実に知っているように)労働者たちに、《われわれは》あらゆる援助をあたえ《なければならない》。労働組合的組織は、経済闘争を発展させ、強めるうえに大いに役だつことができるだけでなく、また政治的扇動と革命的組織とのためにも、きわめて重要な補助者となることができる。こういう成果をおさめるためには、始まりかけた労働組合運動を社会民主党にとって望ましい軌道にみちびきいれるためには、──まず第一に、ペテルブルグの『経済主義者たち』がもう五年ちかくもかつぎまわっているあの組織計画の愚劣さを、はっきり理解する必要がある」(レーニン「なにをなすべきか?・P.172」国民文庫)

どこがどのように「愚劣」なのか、極めて論理的に書かれている。パロディも豊富で飽きさせない。どんな文章か、次へ行こう。

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