白鑞金’s 湖庵

元ノラ猫タマと愉快な仲間たちの日記・エッセイ・コラム。

安保法1年、現在地は 「抑止力強化」見えない効果(1)

2016年09月19日 | 日記・エッセイ・コラム

19日朝日新聞から。

安保法1年、現在地は 「抑止力強化」見えない効果

国論を二分した安全保障関連法の成立から、19日で1年になる。集団的自衛権の行使を認める法制が整備され、国連平和維持活動(PKO)での自衛隊の活動範囲も広がった。政府は着々と本格運用に向けた準備を進めるが、国民に説明を続けて理解を広げるとした「約束」は置き去りのままだ。
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レーニンから。

「『戦争は別の』(すなわち暴力的な)『手段による政治の継続である』。この有名な格言は、軍事問題についての最も深遠な著述家の一人であるクラウゼヴィッツの言ったものである。マルクス主義者は、正当にもこの命題を、当該戦争の意義を考察するさいの理論的基礎とつねにみなしてきた。マルクスとエンゲルスは、つねにさまざまな戦争をこの見地から考察した。──『大』国とその国内の基本的な階級の政治がいまの戦争において継続されているという見地から、この戦争を一瞥しさえすれば、この戦争における『祖国防衛』という考えを正当化することができるかのようにいう意見のはなはだしい反歴史性、偽り、欺瞞性は即座にわかるであろう」(レーニン「社会主義と戦争」・「社会主義と戦争 他・P.94~95」国民文庫)


説明するまでもないだろう。

BGM1

ジラールによる暴力の存在論。仮面と《畸型の分身》の関係。いよいよ大詰め。

「仮面の単一性と多様性については、一般的な神話や儀礼のそれと事情は同じである。単一性といい多様性といい、それは、人類の大部分に共通した現実の体験、しかしわれわれの目からは完全に見えなくなった体験としか結びついていないのである」(ジラール「暴力と聖なるもの・P.264」法政大学出版局)


BGM2

「仮面がしばしば主要な役割を演ずる《祭》と同じく、仮面も、自然の秩序ではなくて文化自体の秩序という差異化された秩序とはまったく相容れない形と色彩の組み合わせを見せている。仮面は人間と動物を統合し、神と無生物を合一している。ヴィクター・ターナーは、その著書の一つで、人間の顔と草原を同時に表現するヌデンブの仮面に言及している。仮面は、差異が分離する存在と物を並べて置き、混ぜ合わせる。仮面は、さまざまな差異を超えたところに存在して、それらに違犯し、あるいはそれらを消滅するだけでは満足せず、それらを自己の中に取りこんで、独特なやり方でそれらを再構成する。別な言い方で言えば、仮面は《畸型の分身》と一体を成しているのだ」(ジラール「暴力と聖なるもの・P.264~265」法政大学出版局)

BGM3

「仮面の使用を求める犠牲としての祭は、原初的体験を再現している。参加者たちがそれぞれの仮面をまとい、すくなくとも祭儀の中で主要な役を演ずる参加者たちが仮面をつけるのは、多くの場合、供犠の直前の、祭の最高潮の瞬間である。儀礼はこれらの参加者たちに、彼らの祖先が起源の危機の中でつぎつぎに演じたすべての役割を体験させる。始めに敵対する兄弟、模擬の戦いと対称的な踊りの中で、つぎにはそれぞれの味方が、《畸型の分身》に変身するために、それぞれの仮面の下に姿を隠す。仮面は《無からの》(exnihilo)出現ではない。仮面は、対立者たちの普通の外見を変形するのだ」(ジラール「暴力と聖なるもの・P.265」法政大学出版局)

BGM4

「仮面を儀礼に使う際のさまざまな様式、仮面が挿入されている構造の方が、多くの場合、仮面を使用する者自身がそれについて語ることのできる事柄の全部より、はるかに啓示的である。もし仮面が、儀礼の一連の場面(シークエンス)の一定の瞬間にあらゆる人間の顔を隠すように作られているとすれば、それは《最初に》事柄がそのようにおこったからである。仮面の中に、われわれ自身がほんの少し前にまったく理論的な形で記述した諸現象の、一つの解釈、一つの表現をみとめなければならない」(ジラール「暴力と聖なるもの・P.265」法政大学出版局)

BGM5

「仮面が、まだ人間であるもの、あるいはすでに霊となったもの、超自然の存在を表現しているのかどうか考えてみる必要はないのである。そうした疑問は、もっと後になって、差異化がいっそう進んだことから生まれた分類(カテゴリー)においてしか意味を持たない。言い換えれば、仮面が儀礼の中で用いられたことから逆に再構成される現象の誤認、それもだんだん大きくなってゆく誤認から産まれた分類の問題でしかない。仮面は、人間と《神》の間の両義的な境界線に位置する。しだいに崩壊しつつある差異化された秩序と、それを超えた、一切の差異の貯蔵庫であって非-差異化された世界、革新化された秩序がやがて出て来るであろう怪物のような全体性の間の、両義的な境界線上にあるのだ。仮面の《本性》について問いかける必要はない。仮面は、本性を持たないことがその本性である。なぜなら仮面は、あらゆる本性〔自然〕を持っているからである」(ジラール「暴力と聖なるもの・P.265~266」法政大学出版局)

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