白鑞金’s 湖庵

元ノラ猫タマと愉快な仲間たちの日記・エッセイ・コラム。

「国際協定よりも、強行採決が最優先」 蓮舫代表(3)

2016年11月05日 | 日記・エッセイ・コラム

「『経済主義者』の考えが社会民主主義から組合主義へと迷いこんでいること、また、社会民主主義者は、なによりもまず、プロレタリアートの解放闘争《全体》を指導する能力のある革命家の組織について考えなければならないという思想が、『経済主義者』にとってまったく無縁なものであることを、これ以上あざやかに示すことはむずかしいであろう。『労働者階級の政治的解放』や『ツァーリ専制』について論じながら、こんな組織規約を書くというのは、社会民主党の真の政治的任務をまったく理解していない証拠である。五〇箇条のうちただ一つとして、ロシアの絶対主義のいっさいの側面や、ロシアの種々な社会階級の全容を明らかにするような、最も広範な政治的扇動を大衆のあいだでおこなう必要を理解しているらしい形跡を、毛筋ほども示しているものはない。このような規約では、政治的目的はおろか、労働組合的な目的さえ、実現することはできない。なぜなら、そういう目的のためには《職業別の》組織が必要なのに、それについてはなにも言っていないからである。しかし、おそらく最も特徴的な点は、三段階の選挙制にもとづいて、画一的な、滑稽なほどこまごました規則の恒久的な糸で、一つひとつの工場と『委員会』とを結びつけようとしている、この『体系』全体の驚くべき鈍重さであろう」(レーニン「なにをなすべきか?・P.173~174」国民文庫)


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「鈍重」なだけでなく、官憲による「一斉検挙」の危険もある。「秘密保護法」の下では、今の日本の国会議員・都道府県会議員・市町村議会議員とその周辺支持団体等々の成員は全員、その危険と危険が及ぼすありとあらゆるプレッシャーに耐えていくことができなくては、これといって何ら法律違反などしていなくても任期満了まで務めあげることなど到底できない。日本の農政問題が今になって突然降って湧いたのではないように、日本の警察国家化もまた今になって突然降って湧いたわけでは全然ない。

「ここでは、思想が『経済主義』の狭い視界に圧迫されて細目にはまりこんでいて、そのためにはなはだしく繁雑な手続とお役所仕事とのにおいがする。もちろん実際には、これらの全条項の四分の三はけっして実行されることはないが、そのかわりに、各工場に中央グループをおくこのような『秘密』組織は、信じられないほど広範な一斉検挙をおこなう便宜を憲兵にあたえる。ポーランドの同志たちは、だれもかれも労働者基金組合の広範な設置に熱中した運動の一時期をすでにとおってきたが、彼らは、これが憲兵に豊富な獲物を提供するものでしかないことを確信して、じきにこのような考えを捨てた。もし広範な労働者組織を望んで広範な一斉検挙を望まず、憲兵に満足をあたえることを望まないなら、われわれは、これらの組織を全然きまった形のないものにするよう努力しなければならない。──そうしても、それらの組織は機能を発揮できるであろうか?──では、その機能というものを見てみたまえ」(レーニン「なにをなすべきか?・P.174~175」国民文庫)

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「『──工場内に起こるいっさいの事柄を注視し、工場内の出来事を記録する』(規約第二条)。いったいこれに、ぜひともきまった形をあたえることが必要であろうか?そのための特別なグループなどはなにもつくらずに、非合法新聞に通信を送るほうが、もっとよくこの目的を達しうるのではないだろうか?『──工場における労働者の状態の改善をめざす労働者の闘争を指導する』(規約第三条)。これもまたきまった形をあたえる必要などまったくないことである。労働者がどんな要求を提出したいと望んでいるかということは、多少とも頭のはたらく扇動家たならだれでも、普通の会話のあいだにすっかり探りだすだろうし、そしいていったん探りだしたなら、それをまさに狭い──広範ではなくて──革命家の組織に伝達して、適当なリーフレットを供給してもらうことができるであろう。『──収入1ルーブリにつき2コペイカを払いこむ──基金を組織する』(第九条)、──それから、毎月全員に基金の会計報告をおこなう(第十七条)、掛金を払わない加入者は除名する(第十条)、等々。これこそ、警察にとってまったくの天国というものだ。というのは、この『中央工場基金』の秘密を完全に看破し、金を没収し、すぐれた分子を全部からめとることほど、たやすいことはないからである。そんなことをするよりも、周知の(非常に狭い、そして非常に秘密な)組織のスタンプを押した1コペイカか2コペイカの券を発行するか、または全然券などなしに集金して、なにか符牒をきめて非合法新聞にその報告をのせるようにしたほうが、簡単ではないだろうか?それでも同じ目的は達せられるだろうし、しかもそうすれば、憲兵が糸を探りあてることは百倍も困難になるだろう」(レーニン「なにをなすべきか?・P.175~176」国民文庫)

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ここからは(与野党の区別に関係なく)もっぱら「革命家/政治家」の心得について、順を追ってやや詳しく検証される。

「革命家の組織の機能はいったいどういうものでなければならないか?──この点について、われわれはいますぐくわしく語りあうことにしよう。だが、まずはじめにいまひとつ、わがテロリストのはなはだ典型的な所論を検討しよう。このテロリストは、この点でもまた(なんと悲しい運命であろう!)『経済主義者』の壁一重へだてた隣人であることを明らかにしている。労働者むけの雑誌『スヴォボーダ』(第一号)に『組織』と題する論文がのっているが、その筆者は、自分の知り合いのイヴァノヴォ-ヴォズネセンスクの『経済主義的な』労働者たちを弁護しようとしている。──彼はこう書いている。『民衆がだまりこんでいて無自覚であり、運動が下から起こらないのは、よくないことである。まあこういう状態を考えてみたまえ。大学都市から学生たちが休暇や夏休みに帰省してしまうと、労働運動は停止してしまう。わきから駆りたてられるような労働運動が、はたして真の一勢力でありうるだろうか?そうではありえない。──この運動は、まだひとり歩きができるようになっておらず、他人に手を引いてもらっているのだ。万事がこのとおりで、学生が帰省してしまうと、停止してしまうのだ。精鋭中の最も有能な分子が奪いさられると、全体がくさってしまう。『委員会』が逮捕されると、新しい委員会が組織されるまでは、またもや鳴りをしずめる。それにまた、どんな委員会が組織されることやら、わからない、ことによると、以前のものとは似ても似つかないものかもしれない。まえの委員会はこう言い、こんごの委員会はその反対と言うぐあいに、きのうとあすとのあいだのつながりは失われ、過去の経験は未来への教訓にならない。そして、こうしたことはみな底ふかくに、民衆のなかに根をもっていないためであり、仕事をする者が百人の愚者でなくて十人の賢者であるためである。十人だったらいつでも一網打尽にすることができるけれども、いったん組織が民衆を把握するなら、万事が民衆から起こり、だれがどんなにやっきになろうと、事業を滅ぼすことはできなくなる』(六十三ページ)」(レーニン「なにをなすべきか?・P.177~178」国民文庫)

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「事実は正しく述べられている。われわれの手工業性はなかなかうまく描かれている。しかし、結論は、その愚かしさといい、その政治的な分別のなさといい、『ラボーチャヤ・ムィスリ』級のものである。これが愚かしさの骨頂であるというのは、筆者が、『底ふかくに』ある運動の『根』についての哲学的・社会史的問題と、憲兵にたいする闘争をもっとうまくやるという技術的=組織的問題とを、混同しているからである。これが政治的な分別のなさの骨頂であるというのは、筆者が悪い指導者に背をむけて良い指導者に呼びかけようとはしないで、指導者一般に背をむけて『民衆』に呼びかけているからである。政治的扇動を刺激的テロルとおきかえようとする思想が政治の面でわれわれをうしろへ引きもどすものであるのと同様に、これは組織の面でわれわれをうしろへ引きもどそうとする試みである。ほんとうに、私は、『スヴォボーダ』がわれわれにふるまうこんぐらかったしろものを解きほぐすのに、どこから手をつけてよいやらわからず、ほんとのembarras de richesses〔ありあまっているためのもてあまし〕を感じている」(レーニン「なにをなすべきか?・P.178~179」国民文庫)

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「問題を一目瞭然にするために、はじめに実例を示してみよう。ドイツ人を見たまえ。ドイツ人のところでは、組織が民衆を把握しており、万事が民衆から起こり、労働運動がひとり歩きできるようになっていることは、諸君も否定しようとはすまいと思う。ところが、この幾百万人の民衆は、自分らの『十人』ほどの試練を経た政治的指導者たちをなんとよく評価することができ、なんとしっかりとこの指導者たちによりすがっていることだろう!議会で反対党の代議士が社会主義者をからかって、次のように言ったことが再三あった。『なんというけっこうな民主主義者だろう!君たちの運動は、労働者階級の運動とは口さきだけで、実際にはいつも同じ一団の首領たちが表面に立っている。年がら年中、十年たっても二〇年たっても、いつも同じベーベル、いつも同じリープクネヒトだ。たしかに、君たちのいわゆる労働者の選出代表は、皇帝の任命する官吏以上に動かしえないものなのだ!』と。しかし、ドイツ人は、『首領』に『民衆』を対置し、民衆の心に邪悪な、虚栄の本能を燃えたたせ、『十人の賢者』にたいする大衆の信頼を傷つけることによって、運動から堅固さと確固さを奪おうとするこれらのデマゴギー的な試みを、せせら笑っただけであった。ドイツ人はすでに政治思想が十分に発達しており、政治的経験を十分につんでいるので、今日の社会では、『十人』の才能ある(才能ある人は何百人も生まれるものではない)、試練を経た、職業的に訓練され、多年の修行によって修練をつみ、たがいにみごとに協調をたもってきた指導者なしには、どの階級も堅忍不抜の闘争をおこなうことができないということを理解しているのだ。ドイツ人はまた、彼らの仲間うちにも、『何百人の愚者』におもねって、これを『何十人の賢者』以上にほめあげたり、大衆の『たくましい鉄拳』におもねって、彼らをあおって(モストやハッセルマンのやったように)軽率な『革命的』行動をやらせようとしたり、確固たる堅忍不抜な指導者たちにたいする不信をひろめるデマゴーグを、たびたび見てきた。そして、ドイツの社会主義がこのように成長し、強くなったのも、ひとえに、社会主義の内部のありとあらゆるデマゴーグ的な分子にたいして、たゆみない、非妥協的な闘争をおこなってきたおかげでなのである。ところが、自然発生的にめざめた大衆のあいだに、十分に訓練され、熟達し、経験をつんだ指導者がいないことが、ロシア社会民主党の危機全体の原因となっている時期に、わが賢人たちは、ばかのイヴァヌーシカの深遠さよろしくふれまわる、『運動が下から起こらないのは、よくないことである』と!」(レーニン「なにをなすべきか?・P.179~180」国民文庫)

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次は言葉遣いに注意を、という点。例えば、『わきからの駆りたて』。しかしなぜ、そのような言葉遣いをわざわざ用いてしまうのか。安易にそういう言葉遣いを用いることは、問題を本論からわざと「そらす」ばかりかいとも短絡的に内部分裂を齎す可能性を一気に引き寄せる危険極まりない言動ではないか、とレーニンは追求する。

「『学生からなる委員会は役にたたない。それは腰がすわらない』。──まったくそのとおりである。しかし、このことから生まれる結論は、職業《革命家》からなる委員会が必要だということであって、自分をそういう職業革命家にそだてあげる能力のある者が学生であろうと労働者であろうと、それはどちらでもよい。ところが、諸君は、わきから労働運動を駆りたてるべきではない、という結論を引きだす!諸君は政治的な素朴さのために、そういうことをすると、わが『経済主義者』や、われわれの手工業性のお先棒をかつぐことになるのに、気がつかないのだ。おたずねしたいが、わが国の学生がわが国の労働者を『駆りたてた』ということは、どういう点に現われていたのか?学生が、彼らのもちあわせる政治的知識の断片、彼らの聞きかじった社会主義思想のかけら(というのは、今日の学生の主要な知識の糧(かて)である合法マルクス主義は、イロハのほか、かけらのほかには、なにも学生にあたえることができなかったからだ)を労働者に伝えたということ、《ただその一点》に現われていたのである。《このような》『わきからの駆りたて』は、われわれの運動のうちに多すぎたのではなく、かえって少なすぎた。不埒(ふらち)なくらいに、言語道断なくらいに、少なすぎたのである。というのは、われわれはあまりにも自分の殻のなかに閉じこもっていて、初歩的な『雇い主と政府とにたいする労働者の経済闘争』の前にあまりにも奴隷的に拝跪していたからである。《このような》『駆りたて』ならば、われわれ職業革命家は、いままでの百倍も多くやらなければならないし、またやるであろう。しかし、諸君は、『わきからの駆りたて』というような忌まわしいことば、すなわち労働者たちの心に(すくなくとも諸君が未熟なのと同じ程度に未熟な労働者たちの心に)、政治的知識と革命的経験とをわきから労働者に伝える人々《全体》にたいする不信の念をおこさせ、そういう人々《全体》に反抗しようという本能的願望をおこさせずにはおかないようなことばを選んでいることで、自分が《デマゴーグ》であることを明らかにしているのである。そして、デマゴーグは労働者階級の最悪の敵である」(レーニン「なにをなすべきか?・P.180~181」国民文庫)

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夏目漱石「三四郎」が思い返される。勿論、三四郎は意図的な「デマゴーグ」として登場するわけではない。むしろ悪意のかけらもない。しかし、そういう無邪気さは、いつも常に大切なものを唐突に壊してしまう危険性を孕んでいることが、よくある。「素朴さ」。言い換えよう。すでに犯してしまっている無意識の罪を見ようとしない、いつも目をそらしてしまっている、あの「三四郎」の罪は余りにも重過ぎると。ところで日本の有権者はもう三四郎から脱却できただろうか。脱却見込みは立っただろうか。何もかもぶち壊しにしてしまう「無意識の犯罪者」からの脱却は。

「まあ!まあ!私の論戦の『やり方が非同志的だ』といって、いそいでわめきたてないでくれたまえ!私にしても、諸君の意図の純粋さを疑おうとは思っていない。私がすでに言ったように、政治的な素朴さだけからでも、人間はデマゴーグになりうるのである。ところで、私は諸君がデマゴギーをやるまでに堕落したことを示そうとした。そして、私は、デマゴーグは労働者階級の最悪の敵であると、あくまでも繰りかえして言おう。それが最悪だと言うのは、まさに彼らが民衆の邪悪な本能を燃えたたせるからであり、また未熟な労働者には、自分たちの味方のようにふるまっている、しかもときとすると本気に味方のつもりでふるまっているこれらの敵を、見わけることができないからである。これが最悪だというのは、混乱と動揺の時期、われわれの運動の個性がようやく形づくられようとしている時期には、デマゴギーで民衆をまどわすほど、たやすいことはないからである。民衆は、のちになって、このうえなくにがい試練をなめてから、はじめて自分の誤りを悟ることができる。だからこそ、今日のロシアの社会民主主義者の当面のスローガンは、デマゴギーをやるまでに堕落しつつある『スヴォボーダ』と、デマゴギーをやるまでに堕落しつつある『ラボーチェエ・デーロ』との双方にたいする断固たる闘争でなければならない」(レーニン「なにをなすべきか?・P.181~182」国民文庫)

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