白鑞金’s 湖庵

元ノラ猫タマと愉快な仲間たちの日記・エッセイ・コラム。

自由律俳句──二〇一七年六月二〇日(2)

2017年06月22日 | 日記・エッセイ・コラム

「装置としての婚姻」と「装置としての性的欲望」は決して同じものではない。むしろ逆に、それぞれ社会的に違った役割を与えられている別々のものだ。両者の機能を混同しないようにしよう。

「おそらくどのような社会においても、性的関係は《婚姻の装置》を産み出したであろう。すなわち、結婚のシステムであり、親族関係の固定と展開の、名と財産の継承のシステムである。この婚姻=結合の装置=仕組みは、それを保証する拘束のメカニズム、それが求める縷々錯綜した知と共に、経済的プロセスや政治的構造がもはやその中に適切な道具あるいは充分な支えを見出し得なくなるにつれて、その重要さを失っていった。西洋近代社会は、特に十八世紀以降、この婚姻の装置に重なりつつ、それを排除することなしにその重要さを削減するのに貢献することとなる一つの新しい装置を発明した。それが《性的欲望の装置》である」(ミシェル・フーコー「知への意志・P.136」新潮社)


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「婚姻の装置と同じく、それは性的に結ばれた相手という関係に接合される。しかしそのありようは全く異なるのだ。この二つの仕組み=装置は、厳密に相対立するものとして捉えることができる」(ミシェル・フーコー「知への意志・P.136~137」新潮社)

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「婚姻の装置は、許可されたものと禁じられたもの、定められたものと非合法なものを定義する規則のシステムのまわりに構築される。性的欲望の装置は、権力の流動的で多形的かつ情況的な技術に従って機能する」(ミシェル・フーコー「知への意志・P.137」新潮社)

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「婚姻の装置はその主要目的の中に、関係の働き=ゲームを再生産し、関係を律する法を維持することを含んでいる。性的欲望の装置は、反対に、管理の領域と形態の恒常的拡大を生み出す」(ミシェル・フーコー「知への意志・P.137」新潮社)

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「前者にとっては、機能的一貫性は、限定された立場にある当事者を繋ぐ絆である。後者にとっては、身体の感覚、快楽の質であり、いかに微かで捉え難いものであっても、それらの刻印の性質である」(ミシェル・フーコー「知への意志・P.137」新潮社)

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「そして最後に、婚姻の装置が、富の継承あるいは流通において演ずる役割の故に強固に経済と関係づけられているとすれば、性的欲望の装置は、多数の微妙な中継点を介して経済に結びつけられているが、その主要なものは身体であり、生産し消費する身体なのである」(ミシェル・フーコー「知への意志・P.137」新潮社)

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管理社会の変容に関する重要部分。人口面から見てだいたいの平均は既にマスコミ報道されてもいる。二十一世紀一杯を通して日本の人口は急速に減少していく。一方、アフリカ並びにインドは急速に増殖していく。それら諸前提を念頭に読み進めなければならなくなってきた点に注意しよう。

「一言で言えば、婚姻の装置は、それが維持する役割を担っている社会体の自律的内部平衡(ホメオスターシス)へと、おそらくは繋がれている。そこから、それが権利としての法に対してもつ特権的な絆が生じる。そこからまた、婚姻の装置にとっての重要な段階は、『生殖=再生産』だということになる。性的欲望の装置の存在理由は、生殖=再生産することではなく、増殖すること、いよいよ精密なやり方で身体を刷新し、併合し、発明し、貫いていくこと、そして、住民をますます統括的な形で管理していくことにある」(ミシェル・フーコー「知への意志・P.137」新潮社)

日本やヨーロッパ諸国や中国がこうむってきた管理の形態とそれを含む大きな戦略を、今度は、二〇世紀よりもずっと刷新された形態でアフリカ諸国やインドが実験に供されることとなろう。その意味では、ただ単なる人口増殖について、それは歓迎すべき現象なのか、あるいは逆に歓迎すべき現象ではないのか、時期や地域によって大きく異なった見方を立てて検証する必要が出てくるに違いない。

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「従って、社会の近代的形態により抑圧された性的欲望というテーマが想定するものとは正反対の、三乃至四つの命題を認めなければならない。すなわち、性的欲望は権力の新しい装置に結びついていること、十七世紀以来、ますます拡大の傾向にあること、以後、それを支えてきた仕組みは、生殖=再生産を目的としてはいないこと、それは初めから身体の濃密化に、つまり知の目的として、権力の関係内部における要素として身体の評価に結びついてきた、ということである」(ミシェル・フーコー「知への意志・P.137~138」新潮社)

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なお「婚姻の装置」とはまた違った「性的欲望の装置」の理解のためには、ニーチェの次の言葉を頭に置いておく必要がある。

「生殖は、性欲の《或る》種の満足の、一つの往々生じる偶然的な帰結であって、性欲の意図では《ない》のだ、性欲の必然的な結果ではないのだ。性欲は生殖とはいかなる必然的な関係をももってはいない。たまたま性欲によってあの成果がいっしょに達成されるのだ、栄養が食欲によってそうされるように」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・八九六・P.491」ちくま学芸文庫)

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