白鑞金’s 湖庵

元ノラ猫タマと愉快な仲間たちの日記・エッセイ・コラム。

炎上相次ぐネットメディア 自由とルール「一線」はどこ(1)

2016年11月11日 | 日記・エッセイ・コラム

11日朝日新聞から。

炎上相次ぐネットメディア 自由とルール「一線」はどこ

ネットメディアが、掲載するブログやコメントのルール作りに乗り出している。多くの人が自由に発言できる場として支持を広げてきたが、内容に批判が殺到して削除する例が相次いだ。閲覧者の増加で影響力が大きくなり、自由と公共性のはざまで模索している。
─────
ちなみに個人的なケースで言えば、ある程度は常識の範囲内で、というのがここでの原則。しかしこの「常識・程度」とは何でありまた適用するとすれば一体どのように適用すべきが妥当かと問われるに違いない。そういう議論は勿論あっていいし、むしろ今以上にたくさんあっていいと思っている。ところが、いつもどこか緊張感を欠いているようにしか思えてこないのはどうしてだろうか。今日(十一月十一日)、トランプ大統領誕生後の市場動向について、りそな銀行の社長が言ったらしい。(社長自身の考えている方向で市場が)安定してくるかどうかもう少し様子を見る必要があるだろう、と。新自由主義社会において本気で「安定」などと言いたいのなら、それこそ自分《だけ》で徹底的に取り仕切れば良いだけの話だ。レーニンは言う。

「資本主義が、資本主義以前の古い国民経済制度と違っている点は、資本主義がさまざまな国民経済部門のあいだにもっとも密接な結びつきと相互依存関係を生みだしたという点である。ついでに言えば、もしこういうものが生みだされていなかったなら、社会主義にむかってすすむことは、技術的に実行不可能であったろう」(レーニン「さしせまる破局、それとどうたたかうか 他・P.119」国民文庫)


BGM1

さて、アメリカ大統領選で負けたヒラリー・クリントンの敗北宣言を見ただろうか。大統領選最大の論点は「女性差別問題」ではなかったし今もないというのに。なぜか「ガラスの天井」とかいう別なテーマに「置き換え」られてしまっている。そういう詭弁を弄しているから負けたのだ。そしてさらに詭弁を弄しようものならまた負けるし、死ぬまで負け続けるに違いない。選挙戦の論点は民主党政権の下で表面化してきた「アメリカ経済の斜陽化」だったにもかかわらず。わかっているのにトボケていてはいけない。日本のような自分でものを考えようとしないネガティヴな風土ではそういう論理の「置き換え」を同じように真似て自分自身の株を上げようとしている根っから腐りきった政治家がまだうようよ居るというのに。そういう馬鹿な政治家の代表がしばしば東京都知事だったりもする田舎者根性丸出しの黴臭い風土がまだまだ残っているというのに。少しは同盟諸国の諸事情も考慮しないといけない。少なくともアメリカ大統領に立候補するというのなら。しかしヒラリー本人はもう年齢的に限界だろう。しばらくは女性がアメリカの大統領の座に付くことはないかも知れない。

BGM2

で、米国民主党内での総括はどんなふうに進んで行くのだろうか。新自由主義の展開過程には或る一定の規則性が見られる。誰にでもわかると言っても過言ではないほどわかりやすい。その間、一旦停止してよく考えてみるのも悪くないと思われる。より一層多くの場面で機械が人間の志向を支配していくという不断の傾向。資本主義の基本である。 トロツキーは言う。

「だが政治闘争とは本質そのものからして論拠のたたかいではなく、利害と力のたたかいなのである。指導の質はむろん衝突の結末と決して無関係ではない。しかしそれは唯一の要因ではないし、究極において決定的なものではない。加えて、たたかいあっている陣営はいずれも自分とそっくりの指導者をもとめる」(トロツキー「裏切られた革命・P.118」岩波文庫)


BGM3

次に続く文章は民主党サイドの不安や憤懣を少しはやさしく慰めてくれるだろうか。希望の一つも与えるだろうか。

「二月革命がケレンスキーやツェレテリを権力の座につけたとしても、それは支配者たる皇帝一味より二人が『利口』だったり、『ぬけめがなかった』りしたせいではなく、旧体制に抗して起ちあがった革命的な人民大衆を少なくともいっときは代表していたからである。ケレンスキーがレーニンを地下に追いこみ、他のボリシェヴィキ指導者を投獄することができたとしても、それはかれが人間的資質の面でかれらにまさっていたせいではなく、大部分の労働者や兵士が当時まだ愛国主義的な小ブルジョアジーを支持していたせいである。ケレンスキー個人の『優位性』──このことばがこの場に適しているとすればだが──は、まさしくかれが圧倒的多数の人々と同じく目先がきかなかったという点にある。逆にボリシェヴィキが小ブルジョア的民主主義派に勝利したのも指導者の個人的優位性によるのではなく、もろもろの社会的勢力の新たな組み合わせによる。つまりプロレタリアートが不満をかかえる農民をブルジョアジーとのたたかいにひきこむことに成功したのである」(トロツキー「裏切られた革命・P.118~119」岩波文庫)

トランプとケレンスキーは全然違った別々の人物には違いない。だがここでトロツキーが述べている意味に限って言えば、なるほどトランプの側がクリントンに対して徐々に「優位性」を獲得してきたことは、まったくその通りなのだ。

BGM4

「フランス大革命においては上昇期たると下降期たるとを問わず、さまざまな段階がつぎつぎにあらわれたが、そのことは、いれかわる『指導者』や『英雄』の強みというものが、なによりもまず、自分を支えている階級や階層の性格にかれらが即応しているという点にあったことを劣らず説得的に示している。かれらはみな、決してなんらかの絶対的優位性によってではなく、まさにこの即応性によってはじめて一定の歴史時代に自分の個性の刻印をきざみつけることができたのである。ミラボー、ブリッソー、ロベスピエール、バラス、ボナパルトの権力交替には客観的な法則性が存するのであり、それは歴史の立役者自身の独特の性質よりもずっと威力をもっている」(トロツキー「裏切られた革命・P.119」岩波文庫)

ただ単に「順番」に並んでいるということでは全然ない。そうではなくて、立候補とか処刑とかいった形式こそ違ってはいても、その時その時で政治的両極を代表して「利害と力」の争奪を巡る「弁証法的対立」は出現したし、今また非常にわかりやすい形で出現したという点に注目しなければならないということは十分に言えるだろう。

BGM5

「党はソヴェトを始動させた。ソヴェトは労働者、兵士、部分的には農民を始動させた。量の面でかちとられたものは、速さの面で失われた。その伝導装置を歯車のシステムとして示すなら──それはレーニンが別の問題で、また別の時期に用いた比喩である──、党の歯車を大衆の巨大な歯車とじかに結びつける──ソヴェトという中間の歯車をとばして──という性急な試みは、党の歯車の歯を折り、かつやはり充分な数の大衆を始動させないという危険をおかすものであった」(トロツキー「ロシア革命史5・P.203~204」岩波文庫)


レーニンの先走りを指摘したトロツキーの文章だ。今回の大統領選挙報道に関し、アメリカの大手マスコミとそれの亜流でしかない日本の大手マスコミは、この時のレーニンと似たような誤りを犯している。どこでか。「ソヴェトという中間の歯車をとばして──という性急な試み」。ペテルブルグ現地の情勢分析を実際に手がけていたのはトロツキー。レーニンは幸か不幸かわからないが外国へ亡命/潜伏中だった。その点でトロツキーの分析のほうが上回っていたことは確かに違いない。ソヴェトの最高責任者がトロツキーだから、という贔屓目でそう考える人々もいないではないと思われるが、そういう意味ではなく、もっとずっと以前から高く評価されていたトロツキーの軍事戦略的ハイ・クオリティぶりと決戦間近の首都の中枢に現に居たことを考慮すれば、この点でトロツキーに軍配を上げる理由はあってもおかしくないのではと考えられる。

BGM6

次は岩波文庫版の「おまけ」として掲載されている部分からだが。

「レーニンは無謬の決定を提供するロボットではなかった。かれは天才的な人間であったに『すぎず』、誤りをおかす資質を含めて、人間的なものでかれに無縁なものはなかった。レーニンは偉大な革命家にたいする亜流の態度についてつぎのように語っている。『かれらの死後、かれらを無害な聖像と化し、かれらをいわば法典化して、その名に一定の名誉を付与しようという試みがなされる』が、それはあとで実質的にそれだけ安全にかれらを裏切るためである。亜流はレーニンの無謬性を認めるよう要求するが、それはあとでそれだけ容易にその教義を自分たちに適用するためである」(トロツキー「官僚の作り話」・「ロシア革命史5・P.311」岩波文庫)

BGM7

「政治面でのレーニンの特徴は、細かな事実や徴候にたいする綿密な評価を大胆な展望と結びつけていたことである。レーニンの孤立は、レーニンが比類なき深さで運動の基本的な段階や転換を明確にする妨げにはならなかったものの、偶発的な要因や局面の変化を適時に評価する可能性を奪っていた。全体として、政治情勢は、さまざまな選択肢で勝利する可能性がありうるほど蜂起に有利であった。レーニンが十月はじめにペトログラードにいて、ソヴェト大会にかかわりなく、即時蜂起の決定を可決させたとしても、かれは疑いなく、自分自身の計画の不利を最小限にとどめるような形でそれを実行するように政治的に整えたはずである。しかし、その場合、かれ自身が、実際に実行されたとおりの計画を選んだろうということも、少なくとも大いにありうる」(トロツキー「官僚の作り話」・「ロシア革命史5・P.312」岩波文庫)

どこか宙に浮いたような話だが、そもそも政治闘争というものは、このような常に浮遊状態にある中で、テロを含めた危険な手探りをどこまで辛抱強く耐え抜くことができるか、という気力体力勝負の面もある。そして一方の体力的な問題は女性にとって歴史的に不利な状況をいつも作ってきた。しかし昨今の飛躍的科学的進歩は女性にとって不利な状況を日に日に解消させてきている。ヒラリーに勝ち目はあったのだ。にもかかわらず目下の大問題「斜陽産業大量増産中のアメリカ経済」について一体何をどのように語ることができたのか。むしろ馬鹿馬鹿しい、ほとんど「素人漫才」のようだったではないか。ぜんぜん笑えないか、失笑ばかり買っていた。失笑を買うだけの芸に終始するならトランプの側が一枚も二枚も断然上手だというのに。

BGM8

「革命の一般戦略の前でのレーニンの役割にたいする評価は、特別の章で示した。レーニンの戦術上の提案にかんするわれわれの考えを正確に示すために、つぎのようにつけ加えよう。レーニンの側からの圧力、強い要請、提案、対案がなかったとしたら、蜂起の道への移行は、計り知れないほど大きな困難をともなったはずである。危機の数週間にレーニンがスモーリヌィにいたならば、蜂起にたいする全体的指導は、ペトログラードばかりでなくモスクワでも、ずっと立派におこなわれたはずである。しかし、『亡命地』にいるレーニンは、スモーリヌィにいるレーニンのかわりにはなりえなかった」(トロツキー「官僚の作り話」・「ロシア革命史5・P.312~313」岩波文庫)

ヒラリー・クリントンは下層階級の間でまたたく間に打ち広がっていた貧困と格差の現実を見ることができなかった。もしくは直視しようとしなかった。できなかったのか、それとも、したくなかったのか。思想的にまとめ上げて政治的なレベルで対策を練り組織化するプランニング力も乏しかったに違いない。あれば始めから貧困問題に重点的に取り懸かっていたはずだ。「他人」から見て逃げる姿勢はとても大きく目に付く。とりわけ肝心の大問題から逃げを打とうとしている態度は。大手マスコミは特に目ざとい。その意味で「他人」とは何といやらしい存在であろうか。しかし安易に弱味を見せることは政治家には許されていない。特にアメリカでは。

BGM9

だから、世界が見ているアメリカ大統領選に候補者が何かひと言でも語る時には、それに集中しなければならないし、また集中できる人間でなければ託されることのけっしてない任務である。しかも質的劣化を量的補助で補おうとすればするほど、その逆効果はより一層激烈なものとなって自分自身の側だけでなく国民全体、さらには同盟諸国全体へと跳ね返ってくる。

「マルクスが語っていたように、パリの労働者はコンミューンに奇跡をもとめなかった。今日でもプロレタリアートの独裁に性急に奇跡を期待してはならない。国家権力は全能ではない。プロレタリアートは権力を受け取りさえすれば、いくつかの布告を出すことで資本主義を社会主義にとりかえることができると考えるとしたら、ばかげていよう。経済体制は国家の活動の産物ではない。プロレタリアートは、集団主義の方向への経済発展の道を容易にし、短縮するために全エネルギーをあげて国家権力を行使しうるだけである。生産の社会化は、障害がもっとも少ない部門からはじまる。当初の時期、社会化された生産は、商品流通の法則によって私的経済企業と結ばれるオアシスのようなものである。社会化された経済がすでに波及している分野がひろがればひろがるほど、その利点が明白になり、新しい政治体制はそれだけ自分を強く感じ、プロレタリアートのその後の経済措置はそれだけ大胆になる。それらの措置をとるさいにプロレタリアートは、民衆の生産力ばかりでなく、国際的な技術にも依拠しうるし、また依拠するであろう。その革命政策で民族の階級関係の経験ばかりでなく、国際プロレタリアートの全歴史的経験に依拠するように」(トロツキー「一九〇五年の論文『総括と展望』の抜粋」・「ロシア革命史5・P.444~445」岩波文庫)

世界に向けて語る機会を与えられていながら、なぜか「国際的」な規模での支持を得るどころか逆に今のアメリカ民主党が陥っている「一国主義的」支持すら一夜にして失ったクリントン。マルクスのいうように少しは「国家権力」とは何かについて学んだほうがいいように思われて仕方がない。

ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« トランプ氏、民主党の地盤を... | トップ | 炎上相次ぐネットメディア ... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。