白鑞金’s 湖庵

元ノラ猫タマと愉快な仲間たちの日記・エッセイ・コラム。

「国際協定よりも、強行採決が最優先」 蓮舫代表(1)

2016年11月05日 | 日記・エッセイ・コラム

5日朝日新聞から。

「国際協定よりも、強行採決が最優先」 蓮舫代表

■蓮舫・民進党代表(環太平洋経済連携協定〈TPP〉承認案が衆院特別委員会で民進党などが抗議する中、採決されたことについて)職権で立てた特別委で強行採決した。まさに国会軽視以外の何ものでもない。山本有二農林水産相の(失言)問題も何一つ解決していないし、引き続き厳しい姿勢で臨みたい。
─────
今の日米関係の中でTPPはあらかじめ決定済み事項。連立与党側としては強行採決しか方法がない。わかりきっていたこと。なのだが、しかし山本農水相の「失言」はまったく謎というほかない。日本の農林水産業関係者だけでなく、農協にとってだけでもなく、連立与党の側の言い分を「飲む」ことが本当に多少なりとも「利益」に繋がって行くのだろうか。農協にとってだけでなく、むしろ今後の日本の産業全般が全面的に一変する可能性を大いに秘めているというのに。また農林水産業界とは切っても切れない関係にある「運輸」「情報」等々の産業分野では一体どのような展望が開かれているだろうか。あるいは開かれていないか。

「独立の産業部門でも、その生産過程の生産物が新たな対象的生産物ではなく商品ではないような産業部門がある。そのなかで経済的に重要なのは交通業だけであるが、それは商品や人間のための本来の運輸業であることもあれば、単に報道や書信や電信などの伝達であることもある」(マルクス「資本論・第二部・第一篇・第一章・P.97~98」国民文庫)


BGM1

「運輸業が売るものは、場所を変えること自体である。生みだされる有用効果は、運輸過程すなわち運輸業の生産過程と不可分に結びつけられている。人や商品は運輸手段といっしょに旅をする。そして、運輸手段の旅、その場所的運動こそは、運輸手段によってひき起こされる生産過程なのである。その有用効果は、生産過程と同時にしか消費されえない。それは、この過程とは別な使用物として存在するのではない。すなわち、生産されてからはじめて取引物品として機能し商品として流通するような使用物として存在するのではない。しかし、この有用効果の交換価値は、他のどの商品の交換価値とも同じに、その有用効果のために消費された生産要素(労働力と生産手段)の価値・プラス・運輸業に従事する労働者の剰余労働がつくりだした剰余価値によって規定されている。この有用労働は、その消費についても、他の商品とまったく同じである。それが個人的に消費されれば、その価値は消費と同時になくなってしまう。それが生産的に消費されて、それ自身が輸送中の商品の一つの生産段階であるならば、その価値は追加価値としてその商品そのものに移される」(マルクス「資本論・第二部・第一篇・第一章・P.98~99」国民文庫)

BGM2

次は資本主義的生産様式の基本。TPPは新自由主義をもっと先鋭的に押し進めていく戦略の中で最も強力で未知な手法なのだが、日本の生産者は果たしてこれでよかったのだろうか。何を「飲んだ」というのか。「見返り」など要求しても本当に出てくるシステムかどうか、少しは考えてみてもよかったように思われるのだが。

「産業資本の循環過程の、したがってまた資本主義的生産の、だれにでもわかる特性の一つは、一方では生産資本の形成要素が商品市場から出てきて絶えず繰り返してそこから商品として買われなければならないという事情であり、他方では労働過程の生産物が商品として労働過程から出て行って絶えず繰り返して商品として売られなければならないという事情である。たとえば、低地スコットランドの近代的借地農業者を大陸の古風な小農民と比較してみればよい。前者は自分の全生産物を売るのであって、したがって生産物のすべての要素を、種子までも、市場で補填しなければならないのであるが、後者は自分の生産物の最大の部分を直接に消費し、できるだけ売買を少なくし、道具や衣類などをできるだけ自分で製作するのである。このようなことから、人々はこれまで現物経済と貨幣経済と信用経済とを社会的生産の三つの特徴的な経済的運動形態として対比してきた」(マルクス「資本論・第二部・第一篇・第四章・P.193~194」国民文庫)

BGM3

「第一に、この三つの形態は対等な発展段階を表わしてはいない。いわゆる信用経済は、それ自体、ただ貨幣経済の一つの形態でしかない。すなわち、この二つの名称が生産者たち自身のあいだの交易機能または交易様式を表わしているかぎりでは、そうである。発展した資本主義的生産では、貨幣経済はただ信用経済の基礎として現われるだけである。したがって、貨幣経済と信用経済とはただ資本主義的生産の別々の発展段階に対応しているだけであって、けっして現物経済にたいする別々な交易形態ではないのである。もしそうだとすれば、それと同じ権利で人々は現物経済の非常にさまざまな形態を他の二つのものと対等なものとして対比することもできるであろう」(マルクス「資本論・第二部・第一篇・第四章・P.194」国民文庫)

BGM4

「第二に、貨幣経済、信用経済という範疇で人々が強調し区別的特徴としてあげるものは、経済そのもの、すなわち生産過程そのものではなくて、経済に対応するさまざまな生産担当者間または生産者間の交易様式なのだから、第一の範疇の場合にもそうでなければならないであろう。つまり、現物経済ではなく交換経済になってしまう。完全に閉鎖された現物経済、たとえばペルーのインカ国は、これらの範疇のどれにもはいらないことになるであろう」(マルクス「資本論・第二部・第一篇・第四章・P.194~195」国民文庫)

BGM5

「第三に、貨幣経済はすべての商品生産に共通であるし、また生産物は非常にさまざまな社会的生産組織体のなかで商品として現われる。だから、資本主義的生産を特徴づけるものは、ただ、生産物が取引商品として、商品として生産される範囲の広さ、したがってまた生産物自身の形成要素が、生産物の出てくる経済に再び取引商品として、商品としてはいって行かねばならない範囲の広さだけだということになるであろう」(マルクス「資本論・第二部・第一篇・第四章・P.195」国民文庫)

BGM6

「じっさい、資本主義的生産は生産の一般的形態としての商品生産なのであるが、しかし、そうであるのは、そしてまたその発展につれてますますそうなるのは、ただ、ここでは労働がそれ自身商品として現われるからであり、労働者が労働を、すなわち自分の労働力の機能を売り、しかも、われわれが仮定するところでは、その再生産費によって規定される価値で売るからである。労働が賃労働になるその範囲で、生産者は産業資本家になる。それゆえ、資本主義的生産は(したがってまた商品生産も)、農村の直接生産者もまた賃金労働者になったときはじめてその十分な広さで現われるのである。資本家と賃金労働者との関係では、貨幣関係が、買い手と売り手との関係が、生産そのものに内在する関係になる。しかし、この関係は、その基礎から見れば、生産の社会的性格にもとづいているのであって、交易様式の社会的性格にもとづいているのではない。逆に後者が前者から生ずるのである」(マルクス「資本論・第二部・第一篇・第四章・P.195~196」国民文庫)

BGM7

そしてどうなったか。増々どのようになりつつあるか。

「研究の対象をその純粋性において撹乱的な付随事にわずらわされることなく捉えるためには、われわれはここでは全商業世界を一国とみなさなければならないのであり、また、資本主義的生産がすでにどこでも確立されていてすべての産業部門を支配しているということを前提しなければならないのである」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十二章・P.133」国民文庫)

「資本主義的生産がすでにどこでも確立されていてすべての産業部門を支配しているということを前提しなければならない」、とある。いまや十分「前提」できる。というより、もはや「前提」しないわけにはいかない。差し当たり「農協」の運命やいかに。強行採決については、どうもこうも、引用するほかない。

「ヘーゲルはどこかで、すべて世界史上の大事件と大人物はいわば二度現われる、と言っている。ただ彼は、一度は悲劇として、二度目は茶番として、とつけくわえるのを忘れた」(マルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日・P.17」国民文庫)

ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 日中韓サミット、開催に黄信... | トップ | 「国際協定よりも、強行採決... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。