白鑞金’s 湖庵

元ノラ猫タマと愉快な仲間たちの日記・エッセイ・コラム。

白紙領収書を使い政活費不正 岐阜市議、7万円余を返還(1)

2016年10月01日 | 日記・エッセイ・コラム

1日朝日新聞から。

白紙領収書を使い政活費不正 岐阜市議、7万円余を返還

岐阜市議の高橋正氏(63)=自民岐阜=が30日、市役所で記者会見し、2014、15年度に政務活動費を不正に受け取ったと明らかにした。飲食店の白紙領収書に自分で金額を書き込み、来客に出すコーヒーの豆代名目で領収書を提出したもので合計7万7760円。高橋氏は返還したという。
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「なあなあ」でやってきたのだろう。としても、しかしなぜ「なあなあ」でやってくることが可能だったのか。富山市議会もそうだが、いつの間にか慣例のようになってしまっていたというニュアンスの発言が相継いでいる。いつの間にか慣例化し、結果的に今も「惰性」で続けてしまっている「自然発生的」な習慣あるいは悪癖。こうした「自然発生的」な習慣あるいは悪癖の温存がどれほど危険か。極めて注意深く慎重この上ない手付きで取り扱う必要があるのはどうしてか。富山県や岐阜県のケースはどうか知らなくても、世界史では既に大変よく知られている。レーニンから。

「運動の経験を利用し、この経験から実践的教訓を引きだすためには、あれこれの欠陥の原因や意義を完全に理解することが必要である。そこで、一八九五~一八九八年に活動していた社会民主主義者の一部が(おそらくはその大多数さえもが)、『自然発生的』運動が始まったばかりのその当時でも、最も広範な綱領と戦闘的戦術とを提出することが可能であると、まったく正当に考えていたということを確認することが、きわめて重要になるのである」(レーニン「なにをなすべきか?・P.52」国民文庫)


BGM1

「大多数の革命家が訓練を欠いていたということはまったく当然な現象であったから、なにも特別の懸念をおこさせるものではありえなかった。任務が正しく提起されさえすれば、またこの任務の繰りかえしを試みるだけの精力がありさえすれば、一時の失敗はなかばの不幸でしかなかった。革命的練達と組織者としての手腕は、おいおいに獲得できるものである。ただ、必要な資質を自分のうちにやしなおうという意欲がありさえすればよいのだ!欠陥が意識されていさえすればよいのだ!革命の事業では、欠陥を意識することは、それをなかば以上訂正したにひとしいのである」(レーニン「なにをなすべきか?・P.52~53」国民文庫)

BGM2

そして次のセンテンス。もしレーニンがこう強調して釘を刺しておかなかったら、有害極まりない「自然発生的」言動のあからさまな蔓延とその支配のせいで、必要最低限の生活環境すら遂に保障されない帝国主義的社会体制がロマノフ王朝ともどもロシア全土を崩壊せしめたに違いない。

「しかし、この意識がくもりはじめて(ところで、前記のいろいろなグループの活動家たちにあっては、この意識はまことに生きいきとしていた)、欠陥を美徳にまつりあげるのをはばからず、自分たちの《自然発生性への屈従と拝跪を理論的に》基礎づけようとさえ試みる人々が──いや、社会民主主義的機関誌さえが──現われてきたとき、このなかばの不幸はほんとうの不幸になった」(レーニン「なにをなすべきか?・P.54」国民文庫)

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いまの日本の大学受験制度でさえそうではないだろうか。「自然発生的さぼり癖」を無意識のうちに自分で自分自身に向けて覆い隠してしまい、同時に、受験あるいは就職活動における自分自身の「欠陥」について「意識する」ことなしには「なかばの不幸はほんとうの不幸にな」る。逆に「欠陥」であろうとなかろうと自分で自分自身について常に「意識的」であることが、「一時の失敗」を「なかばの不幸でしかなか」ったものに変える技術である。

BGM4

さて大学は出たものの。経済格差をより一層激化させる「競争戦」は日に日に公務員、サラリーマン、非正規労働者らを職場から排除していく方向へ突き進んでいるが、この傾向はもっと過激なものになるほかない。どのような労働形態が日本の内外へ豊かさを送り届けることができると言うのか。憂鬱で仕方がない。事情はマルクスが述べた時代とほとんど変わっていないばかりか、むしろより一層悪くなっているということについて。

「競争戦は商品を安くすることによって戦われる。商品の安さは、他の事情が同じならば、労働の生産性によって定まり、この生産性はまた生産規模によって定まる。したがって、より大きい資本はより小さい資本を打ち倒す。さらに思い出されるのは、資本主義的生産様式の発展につれて、ある一つの事業をその正常な条件のもとで営むために必要な個別資本の最少量も大きくなるということである。そこで、より小さい資本は、大工業がまだまばらにしか、または不完全にしか征服していない生産部面に押し寄せる。ここでは競争の激しさは、敵対し合う諸資本の数に正比例し、それらの資本の大きさに反比例する。競争は多数の小資本家の没落で終わるのが常であり、彼らの資本は一部は勝利者の手にはいり、一部は破滅する。このようなことは別としても、資本主義的生産の発展につれて、一つのまったく新しい力である信用制度が形成されるのであって、それは当初は蓄積の控えめな助手としてこっそりはいってきて、社会の表面に大小さまざまな量でちらばっている貨幣手段を目に見えない糸で個別資本家や結合資本家の手に引き入れるのであるが、やがて競争戦での新しい恐ろしい武器になり、そしてついには諸資本の集中のための一つの巨大な社会的機構に転化するのである。資本主義的生産と資本主義的蓄積とが発展するにつれて、それと同じ度合いで競争と信用とが、この二つの最も強力な集中のテコが、発展する。それと並んで、蓄積の進展は集中されうる素材すなわち個別資本を増加させ、他方、資本主義的生産の拡大は、一方では社会的欲望をつくりだし、他方では過去の資本集中がなければ実現されないような巨大な産業企業の技術的な手段をつくりだす。だから、こんにちでは、個別資本の相互吸引力や集中への傾向は、以前のいつよりも強いのである。しかし、集中運動の相対的な広さと強さとは、ある程度まで、資本主義的な富の既成の大きさと経済的機構の優越とによって規定されているとはいえ、集中の発展はけっして社会的資本の大きさの絶対的増大には依存しないのである。そして、このことは特に集中を、ただ拡大された規模での再生産の別の表現でしかない集積から区別するのである。集中は、既存の諸資本の単なる配分の変化によって、社会的資本の諸成分の単なる量的編成の変化によって、起きることができる。一方で資本が一つの手のなかで巨大なかたまりに膨張することができるのは、他方で資本が多数の個々の手から取り上げられるからである。かりにある一つの事業部門で集中が極限に達することがあるとすれば、それは、その部門に投ぜられているすべての資本が単一の資本に融合してしまう場合であろう。与えられた一つの社会では、この限界は、社会的総資本が単一の資本家なり単一の資本家会社なりの手に合一された瞬間に、はじめて到達されるであろう」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十三章・P.210~212」国民文庫)


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「集中は蓄積の仕事を補う。というのは、それによって産業資本家たちは自分の活動の規模を広げることができるからである。この規模拡大が蓄積の結果であろうと、集中の結果であろうと、集中が合併という手荒なやり方で行なわれようと──この場合にはいくつかの資本が他の諸資本にたいして優勢な引力中心となり、他の諸資本の個別的凝集をこわして、次にばらばらになった破片を自分のほうに引き寄せる──、または多くの既成または形成中の資本の融合が株式会社の設立という比較的円滑な方法によって行なわれようと、経済的な結果はいつでも同じである。産業施設の規模の拡大は、どの場合にも、多数人の総労働をいっそう包括的に組織するための、この物質的推進力をいっそう広く発展させるための、すなわち、個々ばらばらに習慣に従って営まれる生産過程を、社会的に結合され科学的に処理される生産過程にますます転化させて行くための、出発点になるのである」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十三章・P.212~213」国民文庫)

BGM6

「しかし、蓄積、すなわち再生産が円形から螺旋形に移って行くことによる資本の漸時的増加は、ただ社会的資本を構成する諸部分の量的編成を変えさえすればよい集中に比べて、まったく緩慢なやり方だということは、明らかである。もしも蓄積によって少数の個別資本が鉄道を敷設できるほどに大きくなるまで待たなければならなかったとすれば、世界はまだ鉄道なしでいたであろう。ところが、集中は、株式会社を媒介として、たちまちそれをやってしまったのである。また、集中は、このように蓄積の作用を強くし速くすると同時に、資本の技術的構成の変革を、すなわちその可変部分の犠牲においてその不変部分を大きくし、したがって労働にたいする相対的な需要を減らすような変革を、拡大し促進するのである」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十三章・P.213」国民文庫)

BGM7

「集中によって一夜で溶接される資本塊も、他の資本塊と同様に、といってもいっそう速く、再生産され増殖され、こうして社会的蓄積の新しい強力なテコになる。だから、社会的蓄積の進展という場合には、そこには──今日では──集中の作用が暗黙のうちに含まれているのである」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十三章・P.213」国民文庫)

BGM8

「正常な蓄積の進行中に形成される追加資本は、特に、新しい発明や発見、一般に産業上の諸改良を利用するための媒体として役立つ。しかし、古い資本も、いつかはその全身を新しくする時期に達するのであって、その時には古い皮を脱ぎ捨てると同時に技術的に改良された姿で生き返るのであり、その姿では前よりも多くの機械や原料を動かすのに前よりも少ない労働量で足りるようになるのである。このことから必然的に起きてくる労働需要の絶対的な減少は、言うまでもないことながら、この更新過程を通る資本が集中運動によってすでに大量に集積されていればいるほど、ますます大きくなるのである」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十三章・P.213~214」国民文庫)

BGM9

「要するに、一方では、蓄積の進行中に形成される追加資本は、その大きさに比べればますます少ない労働者を引き寄せるようになる。他方では、周期的に新たな構成で再生産される古い資本は、それまで使用していた労働者をますます多くはじき出すようになるのである」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十三章・P.214」国民文庫)

五輪にせよ万博にせよ政治家と大手マスコミはやる気満々。しかし祭りはたった一度きり。さらにその経済効果がどうのこうのと言われてはいるものの、その声はマスコミ(特にテレビ)の受け売りばかりが大手を振ってまかり通っている。どこか怪しい気配がいつも漂っていて消し去り難い。もし万が一の場合一体誰が責任を取ってくれるというのか。とりわけ財政面での責任を。

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