白鑞金’s 湖庵

元ノラ猫タマと愉快な仲間たちの日記・エッセイ・コラム。

自由律俳句──二〇一七年五月三十一日(2)

2017年06月02日 | 日記・エッセイ・コラム

様々な矛盾や逆説を常に既に想定しておかなくてはならないだろう。

「権力に対して、偉大な《拒絶》の場が《一つ》──反抗の魂、すべての反乱の中心、革命家の純粋な掟といったもの──があるわけではない。そうではなくて、《複数の》抵抗があって、それらすべてが特殊事件なのである。可能であり、必然的であるかと思えば、起こりそうもなく、自然発生的であり、統御を拒否し、孤独であるかと思えば共謀している、這って進むかと思えば暴力的、妥協不可能かと思えば、取引に素早い、利害に敏感かと思えば暴力的、自己犠牲的である」(フーコー「性の歴史1・知への意志・P.123~124」新潮社)


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「本質的に、抵抗は権力の関係の戦略的場においてしか存在し得ない。しかしそれは、抵抗が単なる反動的、窪んだ印にすぎず、本質的な支配に対して、常に受動的で、際限のない挫折へと定められた裏側を構成するのだ、ということを意味しはしない。抵抗は、幾つかの異質な原理に属するのではない。しかしそれにもかかわらず、必然的に失敗する囮(おとり)あるいは約束というのとは違う。それは権力の関係におけるもう一方の項であり、そこに排除不可能な相手として書き込まれている。それゆえ、抵抗のほうもまた、不規則な仕方で配分されている」(フーコー「性の歴史1・知への意志・P.124」新潮社)

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「抵抗の点、その節目、その中心は、時間と空間の中に、程度の差はあれ、強度をもって散らばらされており、時として、集団あるいは個人を決定的な形で調教し、身体のある部分、生のある瞬間、行動のある形に火をつけるのだ。重大な根底的断絶であり、大々的な二項対立的分割であろうか。縷々そうである。しかし、最も頻繁に出会うのは、可動的かつ過渡的な抵抗点であり、それは社会の内部に、移動する断層を作り出し、統一体を破壊し、再編成をうながし、個人そのものに溝を掘り、切り刻み、形を作り直し、個人の中に、その身体とその魂の内部に、それ以上は切りつめることのできない領域を定める」(フーコー「性の歴史1・知への意志・P.124」新潮社)

なるほど「抵抗の点」はある。そしてそれらの多くはなお「二項対立的分割であ」る。だが、「最も頻繁に出会うのは、可動的かつ過渡的な抵抗点であり、それは社会の内部に、移動する断層を作り出」す。ドゥルーズ&ガタリによるカフカ論を思い起こさないだろうか。

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「権力の関係の網の目が、機関と制度を貫く厚い織物を最終的に形成しつつ、しかも厳密にそれらの中に局限されることはないのと同じようにして、群をなす抵抗点の出現も社会的成層と個人的な単位とを貫通するのである」(フーコー「性の歴史1・知への意志・P.124」新潮社)

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「このような力関係の場においてこそ、権力のメカニズムの分析を試みなければならない。こうして、かくも長い間政治思想を眩惑してきた《法である主権者》というあのシステムから脱却できるだろう。そして、マキアヴェリが、《君主》の権力を力関係という観点から考えた数少ない人の一人であったことは事実だとして──それがおそらく、彼の『露骨さ』のよびおこしたスキャンダルの原因であった──おそらく、もう一歩進めて、《君主》という人物なしで済ませ、権力のメカニズムを、力関係に内在する戦略から解読しなければならないのである」(フーコー「性の歴史1・知への意志・P.125」新潮社)

「監獄の誕生」でも述べられていた。今の監視社会の特徴はほとんどまったくと言っていいほど「《君主》という人物なしで済ませ」つつある。ゆえに「力関係に内在する戦略から解読しなければならない」。

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グローバル資本主義の時代であって絶対王政の時代では全然ない。たとえ「王権」があるとしても、そこはほとんど「空虚」な場として設定・拘束されており、多くの場合は政治利用されてしまっている。

「いかなる『局地的中枢』も、いかなる『変形のシェマ』も、一連の継続的連鎖によって、それが結局は全体的戦略の内部に書き込まれていないのなら、機能するはずはない。また逆に、いかなる戦略も、応用と結果ではなく支えであり拠点となるような、明確で細かい関係の上に立つのでなければ、総体的な効果を確実にはもち得ないだろう。それらの関係のうちあるものから他のものへは、二つのレベル──一方が微視的で他方が巨視的といった──について言えるような不連続性はない。しかし同時に、同質性──一方が他方の拡大図であるとか縮約形であるとかいった──もない。むしろ想定しなければならないのは二重の条件づけであり、それは、可能な戦術の特殊性による戦略の条件づけと、そのような戦術を機能せしめる戦略的覆いによるこれらの戦術の条件づけである」(フーコー「性の歴史1・知への意志・P.128~129」新潮社)

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「かくして、家族における父は、君主あるいは国家の『代弁者』ではなくなる。そして君主あるいは国家も、別の尺度における父の投影では毫もないのである。家族は社会を再現するものではないし、社会も逆に家族を模倣しはしない。しかし家族という装置はまさに、その島的な性格ならびに権力の他のメカニズムに対して異なる形態をもつという特性において、大規模な『作戦』の支えとなるのである」(フーコー「性の歴史1・知への意志・P.129」新潮社)

「作戦」といっても、何か特定の名前を持っているわけではない。しばしば名前を与えられていることはあるにせよ、その名前がそうでなくてはならない必然性はどこにもない。唯一無二の名前である必要性はまるでない。さらに、どのような「作戦」であったとしても、内容自体が途中で変更される可能性すら含まれており、実際、変更されることはよくある。

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大きな物語は過去のものとなった。冷戦は終わった。冷戦にとって換わったのは、いつどのようにでも変更可能な、その意味で融通無碍な諸々の戦術ばかりの、裏切りを含む共同戦線といった情況だ。

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テレビやインターネットから乱雑に吐き出される数々の諸条件。或る条件が他の条件を利用し、また他の条件がさらなる諸条件を利用する。様々な諸条件同士の「網目」が言説として出現し、報道され、流通し、さらなる戦術を編み出し、再編成させていくのだ。

「権力と知とが一つの仕組みに結びつけられるのは、まさに言説においてなのである。またまさにこの理由によって、言説というものを、一連の非連続的断片として、その戦術的な機能が一様でも一定でもないものとして構想しなければならない。より正確に言えば、言説の世界を、受け入れられた言説と排除された言説とに、あるいは支配する言説と支配される言説とに分割されたものとして想像してはならないのだ。そうではなくて、様々な戦略の中で演じ=働き得るような多様な言説的要素として想像すべきである。まさにこの配分=配役をこそ復元してみなければならないのだ。それが担う言われたことと隠されたこと、必要とされた言表行為と禁じられた言表行為と共にである」(フーコー「性の歴史1・知への意志・P.129~130」新潮社)

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「可動的かつ過渡的な抵抗点であり、それは社会の内部に、移動する断層を作り出し、統一体を破壊し、再編成をうながし、個人そのものに溝を掘り、切り刻み、形を作り直し、個人の中に、その身体とその魂の内部に、それ以上は切りつめることのできない領域を定める」、とあった。ドゥルーズ&ガタリによるカフカ論参照。そこに法はある。そしてその法は絶対的に見えていて、そのじつ、弾力性に富んでいる。「可動的」だ。

「司法は、むしろたえず伝わって来る音(言表)のようなものである。《法の超越性は、抽象的な機械だった。しかし法は、司法の機械状鎖列の内在性のなかにのみ存在する》。『訴訟』とは、あらゆる先験的な正当化をこなごなにすることである。欲求のなかには裁くべきものは何もない。裁判官自身が欲求で充満している。司法も単に欲求に内在するプロセスにすぎない。プロセスはそれ自体がひとつの連続体であるが、それは隣接性からできている連続体である。隣接したものは、連続したものに対立するのではない。むしろその逆で、前者は後者の部分となる構築物、しかも無限定に延長できる構築物であり、したがってまた分解でもある。──つまりそれはいつでも、隣りにある事務室、隣りの部屋である。バルナバスは《事務局に入って行きます。でもそこはやはり全事務局の一部分でしかなく、さらに柵がいくつもあるし、その先にはまだ別の事務局がいくつもあります。彼はかならずしもさらに先へ行くことを禁じられているというわけではありません──こうした柵をあなたもある決まった境界のように思ってはいけません──だから彼が通りすぎる柵もありますし、そうした柵は彼のまだ通り抜けていない柵と違っているようには見えません》。司法とは、可動的でいつでも位置が動く境界線を持った、欲求のこの連続体である」(ドゥルーズ&ガタリ「カフカ・P.103~104」法政大学出版局)


BGM15

しかし法は、特に監視のための法はより一層強化される一方なのだ。

「法律が信用を保つのは、公正であるからではなくて、法律であるからである。これこそ法律の権威の不思議な根拠で、それ以外には何の根拠もない。そのことが法律に大いに役立っている。法律はしばしば愚者によって作られる。いやそれ以上にしばしば、公平を嫌って公正を欠く人間によって作られる」(モンテーニュ「エセー6・P.133」岩波文庫)

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