白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

自由律俳句──二〇一七年二月二十二日(3)

2017年02月23日 | 日記・エッセイ・コラム

ドゥルーズ&ガタリから。

「抑圧するための、あるいは抑圧されるための官僚機構《への》欲求は存在しない。権力・職員・弁護依頼人・機械を伴った、官僚機構のひとつの分節が存在する。あるいはむしろ、バルナバスの経験においてのように、あらゆる種類の分節、隣接した事務室がある。すべての歯車は、実際にはその外見にもかかわらず等しいものであり、欲求としての、つまり鎖列それ自体の働きとしての官僚機構を構成する。圧制者と被圧制者、抑圧者と被抑圧者への分割は、機械のそれぞれの状態から由来するのであって、その逆ではない。これは二次的なものである。つまり、『訴訟』の秘密は、K自身が弁護士であり、裁判官でもあるということである。官僚機構は欲求である。それは抽象的な欲求ではなく、機械の一定の状態によって、一定の分節のなかで、特定の瞬間において規定される欲求である。(ハープスブルクの分節的君主政体がその例である)。欲求としての官僚機構は、或る数の歯車のはたらき、或る数の権力の行使と一体になっている。これらの権力は、それが把握する社会的領野の構成によって、それらの技術者と機械化される者とを規定する」(ドゥルーズ&ガタリ「カフカ・P.116~117」法政大学出版局)

「資本主義のアメリカ、官僚制のソ連、ナチスのドイツ──実際、分節されていて隣接したノックによって、カフカの時代にドアを叩いていた来たるべき《悪しき力》。欲求、すなわち歯車に分解される機械、ふたたび機械を作る歯車。分節の柔軟性、柵の移動。欲求は根本的に多義的であり、この多義性によって、欲求はすべてを浸すただひとつの同じ欲求になる。『訴訟』の正体不明の女たちは、同一の享楽によって、裁判官・弁護士・被告をたえず楽しませる。そして盗みをしたために笞打たれる監視人フランツの叫び声、銀行のKの事務室のそばの物置の廊下へ通ずるドアのうしろで聞こえるあの叫び声は、《拷問される機械が発した》もののように思われるが、それはまた快楽の叫び声でもある。しかし、それが快楽の叫び声であるというのは、けっしてマゾヒズムの意味においてではなく、拷問される機械が、自己自身を享楽することをやめない官僚機構的機械の部分品だからである」(ドゥルーズ&ガタリ「カフカ・P.117~118」法政大学出版局)

「連続性という視点からは何が起こるのか。カフカはブロックを捨てない。しかし、ひとびとはまず最初に、これらのブロックはひとつの円周上に分配されているのではなく──この円周のいくつかの非連続な弧が描かれているだけである──、回廊または廊下に並んでおり、したがってそれぞれのブロックは、この無限定の直線に沿って、多かれ少なかれ離れた分節になっていると言うだろう。しかしこれはまだ十分な変化になってはいない。ブロックは存続しているので、ブロック自体がひとつの視点から別の視点へと移行することによって少なくともかたちを変えなくてはならない。そして実際に、それぞれのブロック=分節が廊下の線に対して開かれている戸口を持っているというのが本当であるとしても──それも一般的には次にあるブロックの戸口または開かれた場所から非常に離れたところにあるのだが──、それにもかかわらず、すべてのブロックはその背後にそのブロックの数だけの隣接した裏口を持っている。これはカフカにおいて最も驚くべ地形学であり、それは単なるひとつの《精神的な》地形学ではない。対蹠的なところにある二つの点が、奇妙に接触していることが明らかにされる。この状況は『訴訟』ではたえず再発見されるのであって、そこでは、Kが銀行のなかで彼の事務室のすぐ近くにある物置小屋のドアを開けると、そこは二人の監視人が罰せられている裁判所の一室である。《裁判所事務局のある例の郊外とはまったく逆の方向になっていた郊外》にティトレリの絵を見に行くKは、この画家の部屋の奥にある戸口が、同じ裁判所事務局にまさしく通じていることを知る」(ドゥルーズ&ガタリ「カフカ・P.151~152」法政大学出版局)

「おとなによってなされる、おとなの子どもへの変化と、子どもによる、子どものおとなへの変化とは隣接している。『城』はマニエリスム的な強度のこれらのシーンをはっきりと提示している。つまり『城』の第一章において、二人の男が洗たくたらいの中で湯あみし、身体の向きを変えたりしているのに、子どもたちはそれを見ていてお湯をはねかけられる。またこれとは反対に、もっとあとの方で、喪服を着た婦人の子どもであるハンス少年は、《若者のような考え方》に支配されており、《彼の行為のすべてに現れているまじめさもまたその種の考えに似つかわしかった》。これは、子どもにとって可能なおとならしさである(ここには、洗たくたらいのシーンへの言及が再発見される)。しかしすでに『訴訟』のなかにマニエリスムの大きなシーンがある。それは、二人の監視人が罰せられるとき、そのすべての叙述は子どものブロックとして扱われ、この部分の各行は、むち打たれてわめくのが──ただし半分だけまじめに──子どもたちであることを示している。カフカによれば、この点において子どもたちは女たちよりももっと遠くへ進むもののように思われる」(ドゥルーズ&ガタリ「カフカ・P.164」法政大学出版局)

「機械は、それ自体が機械になっている結合要素のすべてに分解されることによってのみ社会的である。司法の機械は、隠喩的に機械と言われているのではない。機械は、単にその部分品・事務室・本・象徴・地形によってだけでなく、そのスタッフ(裁判官・弁護士・廷丁)、ポルノ的な法律書を持ってそばにいる女たち、規定されていない材料を与える被告たちによっても、第一の意味を固定する。書く機械は事務室にしかなく、事務室は書記たち・室長代理・責任者たちがいなければ存在せず、また、行政的・政治的・社会的でしかもエロチックな配分がなければ存在しない。この配分を欠いては、《技術》は存在しないだろうし、けっして存在しなかっただろう。それは機械が欲求なのであって、欲求が機械《の》欲求であるからではない。むしろそれは、欲求がたえず機械のなかで機械を作り、先在する歯車の横に新しい歯車を──たとえこれらの歯車が対立したり、調和しない仕方で機能する様子があるとしても──たえず限りなく作るからである。機械を作るものは、適確に言うならば、結合、すなわち分解を導き出すすべての結合である」(ドゥルーズ&ガタリ「カフカ・P.168」法政大学出版局)

「カフカが最終的な解決、実は限界のない解決に到達するのは、長篇小説の構想によってである。つまりKはひとつの主体ではなく、たえず分節化し、そのあらゆる分節に拡がって行く、《それ自身で増殖する一般的な機能》になるだろう。しかしこれらの概念のそれぞれを明確にする必要がある。一方では、《一般》は個別と対立するものではない。《一般》はひとつの機能を示し、最も孤立している個別は、それが依存するセリーのあらゆる関係項に結びついているために、それだけ一層一般的な機能を持っている。『訴訟』のなかでKは銀行員であり、この分節において、銀行員・客のあらゆるセリーと、また若い女ともだちのエルザとつながっている。しかし彼は監視人・証人・ビュルストナー嬢とのつながりのなかで逮捕されもする。そして彼は、法丁・裁判官・洗濯女とのつながりのなかで訴訟を起こされ、弁護士・レーニとのつながりのなかで訴訟を起こす者であり、ティトレリと小さな娘たちとのつながりにおいて芸術家である」(ドゥルーズ&ガタリ「カフカ・P.174」法政大学出版局)

「一般的な機能は社会的でもあり、またこれと不可分な状態でエロチックでもあって、これ以上にうまく言うことはできない。すなわち、機能的なものは同時に官吏であり、欲求である。他方、一般的な機能のそれぞれのセリーにおいて、分身が重要な役割を演じているのは事実であるが、それは二つの主体の問題に対する出発点もしくは最終的な敬意としてである。この問題はすでに克服されたのであり、Kはおのれを分身させることなしに、また分身に依存する必要もなしに、おのれ自身で増殖する。また個人が引き受ける一般的な機能としてのKよりも、《孤立している個人をその部分とする、多義的な鎖列の機能性》としてのKの方が重要であり、また、別の歯車に接近する集団性が重要である。ただしそのばあい、この鎖列が何であるのか、ファシズム的か、革命的か、社会主義的か、資本主義的か、あるいは最も嫌うべき仕方か悪魔的な仕方で結合した、それらの同時に二つのものであるのか、まだわからない。それはわからないことであるが、ひとびとはこれらすべての点についてかならず了解するのであり、またカフカはそれを了解するようにとわれわれに教えたのである」(ドゥルーズ&ガタリ「カフカ・P.174~175」法政大学出版局)

ところで次の文章は大変重要な意味で「ユダヤ的」な何ものかを語ってはいないだろうか。

「それでは、黒く悲しげな眼をした若い女はどういうタイプなのか。彼女たちは、しどけなくくびのあたりをあらわにしている。彼女たちはあなたに呼びかけ、あなたに身をすり寄せ、あなたのひざに坐り、あなたの手を取り、あなたを愛撫し、また愛撫され、あなたを抱き、あなたに歯形を残し、あるいは反対にあなたの歯形を残し、あなたを暴行し、あなたに暴行され、ときにはあなたを押さえつけ、あなたを殴りさえし、暴君的である。しかし彼女たちは、あなたが立ち去るままにしており、あるいはあなたを立ち去らせさえし、あなたを永久にほかの場所へ送ることによって、あなたを追い払う。レーニは、動物への名残りとして、水かきのある指を持っている。しかし彼女たちは、もっと特殊な混交を示している。つまり彼女たちは、一部は姉妹であり、一部は女中であり、一部は娼婦である。彼女たちは、結婚生活・家庭生活に反対であって、そのことはすでにカフカの物語に見えている」(ドゥルーズ&ガタリ「カフカ・P.131~132」法政大学出版局)

「異質性/そそる女/エロティック/貨幣」。「ユダヤ的」な何ものか。一挙に結合したり逆に一挙に分解したりする力を持っており、それ自体が力であり欲求である何か。マルクスから引こう。

「ユダヤ人の実際の政治力と彼の政治的権利とのあいだの矛盾は、政治と金力一般とのあいだの矛盾である。理念的には政治は金力に優越しているが、事実上では政治は金力の奴隷となっているのである。ユダヤ教はキリスト教と《並んで》存続してきたが、それはたんにキリスト教への宗教的批判、キリスト教の宗教的由来に対する疑問の体現としてだけではない。それはまた実際的なユダヤ的精神、ユダヤ教がキリスト教社会そのもののうちに存続し、しかもこの社会のなかで最高の完成をとげたためでもある。市民社会のなかでの特殊な一成員という立場にあるユダヤ人は、市民社会のユダヤ教の特殊な現象であるにすぎないのだ。ユダヤ教は、歴史にもかかわらず存続したのではなく、かえって歴史によって存続したのである。市民社会はそれ自身の内蔵から、たえずユダヤ人を生みだすのだ。もともとユダヤ教の基礎となっているものは何であったか。実際的な欲求、利己主義である。それゆえユダヤ人の一神教は、現実においては多数の欲求の多神教であり、便所に行くことさえも神の律法とするような多神教である。《実際的な欲求、利己主義》は《市民社会》の原理なのであり、市民社会が自分のなかから政治的国家をすっかり外へ生みだしてしまうやいなや、純粋にそういう原理として現われてくる。《実際的な欲求と利己》との神は《貨幣》である。貨幣はイスラエルの嫉み深い神であって、その前にはどんな他の神も存在することが許されない。貨幣は人間のあらゆる神々をおとしめ、それらを商品に変える。貨幣はあらゆる事物の普遍的な、それ自身のために構成された《価値》である。だからそれは全世界から、つまり人間界からも自然からも、それらに固有の価値を奪ってしまった。貨幣は、人間の労働と人間の現存在とが人間から疎外されたものであり、この疎遠な存在が人間を支配し、人間はそれを礼拝するのである。ユダヤ人の神は現世的なものとなり、現世の神となった。手形がユダヤ人の現実的な神である。彼らの神は幻想的な手形にほかならない」(マルクス「ユダヤ人問題によせて」・「ユダヤ人問題によせて・ヘーゲル法哲学批判序説・P.61~63」岩波文庫)

ポスト冷戦後、誇大妄想というほかない「新世界秩序構想」時代がやってきた。が、予想通り、EUの瓦解と同時にアメリカの新保護主義への転換という、資本主義体制には歴史的にありがちな「ジグザグ」コースの時期が訪れた。「新世界秩序構想」はその言葉通りユートピアのまま崩壊した。ただ、世界的規模で、比較的若年層の多くに共通した態度が見受けられるようになった。地域/宗教/体制を問わない。どこへ行っても大変多く見られる。世界の若年層の共通点、とはいえ、時折ではあるが耳にすることもあるに違いない。「醒めた/白けた/シニカルな(冷笑的)」態度。時に冷やかに見える場合があり、時に無邪気でもある。大人かと思えば子供にも見える。年齢だけを見れば確かに子供なのだが考え方は妙に大人びている。つい数年前までは通用していたかもしれない選挙対策や経済政策など、彼ら彼女らにとっては何の役にも立たないか、まったくと言っていいほど響かない。カフカは生前、「城」の中で、そういう少年にハンスというごくありふれた名前を与えて登場させた。ドゥルーズ&ガタリも言及しているが。

「ハンスの説明によると、女教師が猫の爪でKの手を引っかいてみみずばれができたのを見て、そのときKの味方をしようと決心したのだという。それで、いま、きびしい罰を受ける覚悟のうえでとなりの教室から脱走兵のようにこっそり抜けてきたのだった。彼の頭を支配しているのは、なによりもこのようないかにも男の子らしい義侠心(ぎきょうしん)であるらしかった。彼の動作からうかがわれるまじめさも、それに相応して男の子らしかった」(カフカ「城・P.239」新潮文庫)

「ハンスは、母親の話をさせられることになってしまったのだが、ひどくためらいながら、なんども催促されたあげくにやっと話しだした。その話しぶりからわかったことだが、ハンスはまだまるっきり子供にすぎないくせに、ときおり、特に彼が質問をする場合にはそうなのだが(これは、彼の質問が未来を予感しているためだったかもしれないが、あるいは、不安な気持で緊張している聞き手の錯覚のせいにすぎないのかもしれなかった)、ほとんど精力的な、聡明(そうめい)な、見通しのきく大人が話をしているのではないかとおもえるところがあった。しかも、すぐまたいきなり一介の小学生に戻ってしまって、質問の意味が理解できなかったり、子供らしく相手のことなどおかまいなしにひどく小声になったり、しまいにあまりにも立ち入った質問にたいしては強情っぱりのように完全におしだまってしまったりするのだった。しかも、こういうとき大人だったら当惑するのだが、当惑の様子などまるで見られなかった。大体、彼は、質問がゆるされているのは自分だけで、彼以外の者が質問するのは規則の違犯か、時間の浪費にすぎないとでも考えているようなふしがあった」(カフカ「城・P.240~241」新潮文庫)


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