白鑞金’s 湖庵

元ノラ猫タマと愉快な仲間たちの日記・エッセイ・コラム。

アニメで交流、日ロの「懸け橋」に 元国後島民の3世(4)

2016年12月13日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇一六年を総括すると言う。誰が?何を?いかに?、しかし、なぜしなくてはいけないのだろう。節目というものはあってないようなものに過ぎない。あってないようなもの過ぎない、にもかかわらず、ただ単にそうであるに「過ぎない」と言い切ってしまうわけにもまたいかない。時々刻々とありとあらゆる境界線が抹消されていく世界の中で、しかしなおかつ、境界線を引かないわけにはいかない人間社会とは一体なんなのか。もしそれが引かれていなかったとしたら、今なおどれほどの人間が常に、休戦なしに、大量殺人の快楽に溺れ続けていなくてはならないか。しかしここで「法」という広大な領域に紛れ込むつもりはいささかもないのである。触れることができるのは、実にささやかな、歴史の一端でしかないと言わねばならない。かつて「バーゼル宣言」というものがあった。

「バーゼル宣言は、なにか無内容な檄文にすぎないものであって、そのなかには、現在の具体的な戦争に無条件にあてはまる正確な内容は、歴史的なものも、戦術的なものも、まったくないのであろうか?まさにその反対である。バーゼル決議には、他の諸決議よりも、空疎な大言壮語がいっそう少なく、具体的な内容はいっそう多い。バーゼル決議は、《まさに》、実際におこったこの戦争について、まさに、一九一四~一九一五年に勃発したこの《帝国主義的》衝突について、かたっているのである。バルカンをめぐるオーストリアとセルビアの紛争、アルバニアその他をめぐるオーストリアとイタリアの紛争、市場および一般に植民地をめぐるイギリスとドイツの紛争、アルメニアとコンスタンチノープルをめぐるロシアとトルコその他との紛争、──これこそが、ほかならぬ現在の戦争を予見しつつ、バーゼル決議がかたっているところのものである。バーゼル決議が、《この》戦争は、『《なんらかの国民的な利益のためというような口実によって、いささかなりとも正当化されうるものではない!》』と述べているのは、まさに、『ヨーロッパの大強国』間の現在の戦争についてなのである」(レーニン「第二インタナショナルの崩壊」・「第二インタナショナルの崩壊 他・P.31~32」国民文庫)


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一九一五年五月後半から六月前半にかけて執筆されたようだ。

「バーゼル決議が述べているのは、ヨーロッパにその例がしばしばあり、一七八九~一八七一年の時期には典型的でさえあった民族戦争のことでも国民戦争のことでもなく、社会民主主義者がかつてこばんだことがない革命戦争のことでもなく、『資本主義的帝国主義』と『王朝の利益』に基礎をおき、ドイツ=オーストリアとイギリス=フランス=ロシアという交戦列強の両グループの『侵略戦争』に基礎をおく《現在の》戦争である。プレハノフ、カウツキー一派は、この帝国主義的・植民地的・略奪的な戦争を、国民的・防衛的(だれのための防衛であれ)な戦争と見せかけようと全力をつくしているあらゆる国のブルジョアジーの貪欲なうそをくりかえすことによって、また《非》帝国主義的な戦争の歴史上の実例のなかからこの戦争の理由づけをさがしだしてくることによって、労働者を直接に欺瞞している」(レーニン「第二インタナショナルの崩壊」・「第二インタナショナルの崩壊 他・P.33」国民文庫)

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「バーゼル宣言は、つぎのように述べている、──(1)戦争は経済的ならびに政治的危機をつくりだすであろう。(2)労働者は、自分が戦争に参加することを犯罪とみなし、『資本家の利潤のため、王朝の野心のため、秘密の外交的とりきめを履行するために、相互にうちあう』ことを犯罪とみなすであろう。また、戦争は、労働者のあいだに、『憤激と騒擾』を呼びおこす。(3)社会主義者は、右に述べた危機と労働者のこの精神状態とを、『人民を鼓舞し資本主義の崩壊をはやめる』ために利用する義務がある。(4)『各国政府』──例外なしにすべての政府──は、『自分にも危険をまねくことなしに』戦争をはじめることはできない。(5)各国政府は、『プロレタリア革命をおそれている』。(6)各国政府は、パリ・コンミューン(すなわち国内戦)やロシアにおける一九〇五年の革命を『思いだすべきである』等。すべてこれらは、まったく明白な思想である。このなかには、革命がくるという《保証》はない。そこでは、《事実と傾向》の正確な特徴づけに重点がおかれている。このような思想と考察をとりあげながら、予期された革命の到来は幻想になった、などというものは、革命にたいして、マルクス主義的でなく、ストルーヴェ主義的、警察的=背教者的態度をとっていることを暴露するものである」(レーニン「第二インタナショナルの崩壊」・「第二インタナショナルの崩壊 他・P.36」国民文庫)

レーニンの陣営から見れば極めて妥当な見解だろうと思われる。今見てもただ単なる理想とか空論とか言って簡単に葬って済ますわけにはいかないだろう。

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論文のほとんどはカウツキー批判で占められている。が、その前に、ほんの少しばかりプレハノフが批判されている。見ておこう。

「詭弁をもって弁証法とすりかえるという高尚な仕事のうえで、プレハノフはレコードをやぶった。この詭弁家は、多くの『論拠』のうちの一つをとりだしているが、すでに、ヘーゲルは正当にも、地球上のあらゆるものにとって、その『論拠』をさがしだすことはかならずできるものであると述べているのだ。弁証法は、あたえられた社会現象を、その発展において全面的に探求することを要求し、外的な、外見的なものを、本源的な運動する諸力に、すなわち生産諸力の発展と階級闘争とに帰着させることを、要求する」(レーニン「第二インタナショナルの崩壊」・「第二インタナショナルの崩壊 他・P.42~43」国民文庫)

「ヘーゲルは正当にも、地球上のあらゆるものにとって、その『論拠』をさがしだすことはかならずできるものであると述べている」。どこでか。

「根拠の詮索と指摘の点では《理由付け》がとりわけ可能であって、この根拠の詮索と指摘は終局的な規定をもたないところの果しのない模索にすぎない。すべてのことについて、また個々のことに関して、それぞれ一個の、または数個の妥当な根拠を挙げることができるが、またそれと反対のことに関しても同様である。のみならず、何らの結果も生じないような多くの根拠が存在するということもあり得る。ソクラテスとプラトンが《詭弁》と名付けたところのものは、このような多くの根拠からする理由付けにほかならない」(ヘーゲル「大論理学・中巻」・「ヘーゲル全集7・P.117~118」岩波書店)


また、ヘーゲルは「エレア学派」について述べる。と同時にいつもカントについても述べる。いつもそうだ。

「古代エレア学派は主として、その弁証法を運動に対して適応した。プラトンは、しばしばこれを彼の時代の、特にソフィスト達の諸々の観念や概念に適用したが、しかしまた純粋なカテゴリーや反省規定に対しても適応した。高い知性をもった後期懐疑論は、弁証法を直接的な、いわゆる意識の事実や日常生活の格率に適応したのみならず、また一切の学的概念にまでも押し拡げた。ところで、このような弁証法から引き出される結論は一般に、そこに述べられる各主張の《矛盾》と《空しさ》とである。しかし、このことは二様の意味をもつことができる。──一つは、客観的意味におけるそれ〔矛盾と空しさ〕であって、このようにそれ自身において自分に矛盾する《対象》が自分を止揚するものであり、それ自身として空しいものだということである。例えば世界、運動、点について、その《真理》を拒否したエレア学派の結論が、それである。──他は《認識が欠陥をもつものだ》とする主観的意味におけるものである。ところで後者の結論は一方では、弁証法がただ誤れる仮象の手品をやるものにすぎないという意味に解される。これは《感性的》な明証と《習慣的な観念や言説》を後生大事に守るところの、いわゆる常識のとる日常的な見解である。──それは時には犬儒ディオゲネスが黙って、あちらこちらと歩き廻ることによって運動の弁証法の弱点を暴露した時のように、平穏な形をとることもあるが、またしばしば、弁証法を一体に戯(たわ)け事と見、殊にそれが人倫上の重大事件に関するものである場合には、本来不動のものであるはずの事柄を動揺させようとし、悪徳に屁理屈をつける不埒な所業として弁証法に憤りをぶちまけることにもなる。──それは即ちソフィストの弁証法に対するソクラテスの弁証法に現われた見解であるが、またそれは却ってソクラテスがその一命を賭けることになった怒でもあった。ディオゲネスがやったような、思惟に対して《感性的意識》を対立させ、感性的意識の中に真理があると考えるような通俗な反駁は、そのままに放っておかねばならない。しかし弁証法が人倫の諸規定を否定するということになると、理性に対する信頼を人々に、しっかりもってもらう必要がある。即ち、理性こそ人倫の諸規定をその真理において、またその正義において、しかもそれらの制限をも意識した上で、復活させることができるものだという理性に対する信頼をである。──のみならず、またこれを他面から言えば、主観的な空しさという結果は弁証法そのものの与り知らぬところではなくて、むしろ弁証法を云々する当の認識に由来するものである。或いは、それは懐疑論の意味において、またカント哲学の意味において、《認識一般》に関する問題である。その場合の根本的な謬見は、弁証法が《単に消極的な結果》しかもたないということであるが、この点について次に、いくらか立ち入った考察をしておこう。まず、いま挙げた弁証法が普通に取るように見える《形式》について次の点を注意しなければならない。即ちこの形式では、弁証法とその結果とは、その問題としている《対象》または主観的《認識》だけに係わるものであって、そこからこの認識または対象を空しいものだと宣言〔説明〕するが、しかし《第三のもの》としての対象において指摘される《諸規定》は問題にせずに放っておかれ、それはそれ自身、妥当なものとして前提されているということである。だから、この無批判的な方法に対して注意を促し、《真の〔即且向自的な〕思惟規定》の考察という意味において、論理学と弁証法との復興に衝撃を与えたことは、カント哲学の無限の功績である」(ヘーゲル「大論理学・下巻」・「ヘーゲル全集8・P.367~369」岩波書店)

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また別のところではこう述べる。

「エレア派において思想は自分みずからを自由に相手とし、エレア派が絶対実在だと言明するもののうちで、思想は自己を純粋に把握し、思想が概念のうちを運動する。ここに、弁証法のはじまりが、すなわち、概念における思考の純粋運動のはじまりが見られます。と同時に、思考が現象ないし感覚的存在と対立し、さらには、内部から見た自己と他者との関係のなかでの自己が対立し、自己のもとにある矛盾が対象のもとにもあらわれてくる(それが弁証法の本来のすがたです)」(ヘーゲル「哲学史講義1・P.322」河出文庫)

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