白鑞金’s 湖庵

元ノラ猫タマと愉快な仲間たちの日記・エッセイ・コラム。

自由律俳句──二〇一七年五月十四日(1)

2017年05月14日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇一七年五月十四日作。

(1)交差点で赤ん坊ふり向いた目

(2)空白の体内へ燦爛たる凝視固まって居る

(3)死語着々あれはブロバリン

(4)ほんのイボで精神病者は手術お断り大津日赤

(5)散りぢりの記憶ぽつぽつ集め直してみる

☞「子曰く、詩三百、一言(いちごん)以てこれを蔽(さだ)むれば、思い邪(よこしま)なしと曰(い)うべし」・「詩の篇の数は三百、一言(ひとこと)で結論すると、『思い邪(よこしま)なし』につきる」(「論語 P.30」中公文庫)


問われているのは近代以降。世界が変わってからだが、なぜか論語は時々甦る。ごく常識的な案件を問う時などに重宝する。特に今の日本の議員らは国会議員でなくとも、むしろ地方議会においてはなおさら、階層秩序を口にするわりには自分自身は棚上げしたままだ。

BGM1

マスコミは何を考えているか、考えていないか。ともかく日本を取り巻く現状についてベトナム戦争当時と比較されることが多くなってきた。

「『おまえの言うとおりかも知れねえ。グエン・タン・ミンは非合法員として生きるのが怖くなったのかも知れない』神代恒彦は消音器を装着したままS&Wをバッグの中に押しこんだ。『しかし、やつの人生は終わってるんだ。生きるんなら、おれたちのように生きる以外にない──』」(船戸与一「非合法員・P.35」徳間文庫)


BGM2

「私は他ならぬ太陽と鉄のおかげで、一つの外国語を学ぶようにして、肉体の言葉を学んだ」(三島由紀夫「太陽と鉄・P.16」中公文庫)


BGM3

「幼時、私は神輿の担ぎ手たちが、酩酊のうちに、いうにいわれぬ放恣な表情で、顔をのけぞらせ、甚だしいのは担ぎ棒に完全に項(うなじ)を委ねて、神輿を練り回す姿を見て、かれらの目に映っているものが何だろうかという謎に、深く心を惑わされたことがある。私にはそのような烈しい肉体的な苦難のうちに見る陶酔の幻が、どんなものであるか、想像することもできなかった。そこでこの謎は久しきに亘って心を占めていたが、ずっとあとになって、肉体の言葉を学びだしてから、私は自ら進んで神輿を担ぎ、幼時からの謎を解明する機会をようよう得た。その結果わかったことは、彼らはただ空を見ていたのだった。彼らの目には何の幻もなく、ただ初秋の絶対の青空があるばかりだった。しかしこの空は、私が一生のうちに二度と見ることはあるまいと思われるほど異様な青空で、高く絞り上げられるかと思えば、深淵の姿で落ちかかり、動揺常なく、澄明と狂気とが一緒になったような空であった」(三島由紀夫「太陽と鉄・P.16~17」中公文庫)

BGM4

さて、忘れないうちに再びハイデッガーから少し引いておこう。

「現代技術の本質は集-立にもとづいている。この集-立は、開蔵の命運に属している。以上の文章は、技術はわれわれの時代の運命である、というしばしば聞かれる発言とは別のことを言っている。その場合、運命という語は、変更できない成り行きが不可避なることを意味している」(ハイデッガー「技術への問い・P.45~46」平凡社ライブラリー)


BGM5

「しかし、技術の本質を熟慮するなら、われわれは集-立を開蔵のひとつの命運として経験する。そのようにして、われわれはすでに命運の自由に空けたところに滞在している。この命運は、われわれを閉じ込めて、息苦しくも強制的に、技術を盲目的に促進させたり、あるいは、同じことだが、絶望的に技術に反抗させたり、技術を悪魔の所業だとして呪詛させたりは、けっしてしない。逆である。われわれが自分自身を技術の《本質》にたいしてことさらに開くなら、思いがけず、自由にする呼びかけに自分たちが呼びかけられ、要求されていることに気づくだろう」(ハイデッガー「技術への問い・P.46」平凡社ライブラリー)

BGM6

「技術の本質は集-立にもとづいている。集-立の支配は命運に属する。この命運が人間をそのつど開蔵へと導くので、したがって人間は、その途上で、たえず、用立てというしかたで開蔵されたものだけを追求し、それを推し進め、それからあらゆる尺度を取り出すという可能性の最前線を行く。このことによって、不伏蔵的なものの本質とその不伏蔵性へと、より早く、よりいっそう密接に、つねにより原初的にかかわりをもつという、もうひとつの可能性は閉ざされる。だが、このもうひとつの可能性によって、必要とされて開蔵へと帰属することを人間の本質として経験することがなされるのである」(ハイデッガー「技術への問い・P.46」平凡社ライブラリー)

BGM7

「これらふたつの可能性のあいだにもたらされて、人間は命運から危うくされている。開蔵の命運は、そのようなものとしてあらゆるしかたで、それゆえ必然的に、《危険》なのである」(ハイデッガー「技術への問い・P.47」平凡社ライブラリー)

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