白鑞金’s 湖庵

元ノラ猫タマと愉快な仲間たちの日記・エッセイ・コラム。

国会パネル、修正相次ぐ 自民「表現が不正確」と指摘(2)

2016年10月17日 | 日記・エッセイ・コラム

前回、前々回と、エンゲルス「フォイエルバッハ論」から引用した。一八八八年刊行。六十八歳の時の著作。マルクスとの共著「ドイツ・イデオロギー」が書かれたのは一八四五〜一八四六年の頃。それから四十年以上が過ぎている。途中、一八八三年にマルクスは死ぬ。だがマルクスが死んだからといってエンゲルスの姿勢に変化が訪れるわけなどなく常に一貫している。両著作の関連性が大変高いと思われる部分を拾っておこう。有名だからというわけではなくて、勿論、ヘーゲル読解のための良質な手引きとして今なお大事だと思われるからにほかならない。先にエンゲルスから。

「人間は、その歴史がどんな結果を生むにせよ、各人が各自の意識的に意欲された目的を追求することによって、その歴史をつくる。そしてこれらのさまざまの方向に働く多くの意志と外界にたいするこれらの意志のさまざまな作用との合成力が、まさに歴史なのである。したがって問題は、これらの多くの個人がなにを欲しているかということである。意志は熱情や思慮によって規定される。しかしまた熱情や思慮を直接に規定する刺激は、非常にさまざまである。それは外的な事物でもありうるし、また観念的な動機、名誉心とか、『真理と正義にたいする感激』とか、個人的な憎しみとか、あるいはまたあらゆる種類のまったく個人的な気まぐれとかでもありうる。しかし一方では、すでに見たように、歴史のうちで働いている多くの個々の意志は、大抵は意欲されたものとはまったくちがった──しばしば正反対の──結果を生みだすものであり、したがってそれらの動機はまた全体的な結果にたいしては同じく従属的な意義しかもたないのである。他方においては、さらに次のような問題が生じてくる。それは、これらの動機の背後にさらにどんな動力があるのか、どんな歴史的原因が行動する人々の頭脳のなかでそうした動機を形に変えるのか、という問題である」(エンゲルス「フォイエルバッハ論・P.68~69」岩波文庫)


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「ヘーゲルもそれをとっているような旧来の見方では、国家が決定的な要素で、市民社会は国家によって決定される要素と見られていた。外見はそれに一致している。個々の人間のばあいにかれの行為のあらゆる起動力がかれの頭脳を通過して、かれの意志の動機に変らなければならないように、市民社会のあらゆる要求もまた──どの階級が支配しているかにかかわりなく──法律の形をとって一般的な効力を得るためには、国家の意志を通過しなければならない。これは事柄の形式的な側面であって、自明のことである。ただ問題は、個人のであろうと、国家のであろうと、このたんに形式的な意志がどんな内容をもっているか、どこからこの内容がくるのか、なぜまさにこれが意欲されて別のものが意欲されないのか、ということである。このことをしらべてみると、われわれは、近代の歴史においては国家の意志は、全体として見て、市民社会の要求の変化によって、どの階級が優勢であるかによって、そしてけっきょくは生産諸力と交換関係によって、決定されることを見いだすのである」(エンゲルス「フォイエルバッハ論・P.74~75」岩波文庫)

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さて、共著から。

「人間史全般の第一の前提は、いうまでもなく、生きた人間諸個体の生存である。†これらの諸個人が自らを動物から区別するところになる第一の《歴史的》行為は、彼らが思考するということではなく、彼らが《自らの生活手段を生産し》始めるということである†。第一に確定されるべき構成要件は、それゆえ、これらの諸個人の身体組織と、それによって与えられる身体以外の自然に対する関係である。われわれは、ここではもちろん、<詳細にはできない>《人間そのものの肉体的特質についても、また》人間が眼前に見出す自然的条件、すなわち地質学的、山水誌的、風土的その他の諸関係<《ならびに解剖学的特質》>についても、立ち入ることはできない。†これらの諸関係は、しかし、人間の本源的・自然発生的な組織、とりわけ人種的差異を条件づけるだけでなく、連綿と今日まで続く人間のあらゆる発展ないし未発展を条件づけている†。歴史記述はすべて、この<全歴史の>自然的基礎<から出発し>ならびにそれが歴史の行程の中で人間の営為によってこうむる変容から、出発しなければならない」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.25~26」岩波文庫)


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「人間は、意識によって、宗教によって、その他お望みのものによって、動物から区別されうる。人間自身は、自らの生活手段を《生産》し始めるや否や、自らを動物から区別し始める。一歩の踏み出し、これは<まさに>彼らの身体組織によって条件づけられている。人間は自らの生活手段を生産することによって、間接的に自らの物質的な生そのものを生産する。人間たちが生活手段を生産する様式は、さしあたりは、《すでにそこにあって再生産されなければならない》生活手段そのものの特質に依存する」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.26」岩波文庫)

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「この生産の様式は、それが諸個人の肉体的生存の再生産であるという側面だけから考察されてはならない。それはむしろ、すでに、これら諸個人の活動の一定の方式なのであり、自分たちの生を発現する一定の方式、諸個人の一定の《生活様式》である。諸個人がいかにして<自己を発現する>自分の生を発現するか、それが、彼らの存在の在り方である。彼らが何であるかということは、<それゆえ、彼らの生産様式の内に示される>《それゆえ、彼らの生産と合致する》。すなわち、彼らが《何を》生産するか、<同様に>《ならびにまた》、彼らが《いかに》生産するかということ<の内に示される>《と合致する》。それゆえ、諸個人が何であるかということは、彼らの生産の物質的諸条件に依存する」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.26~27」岩波文庫)

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「意識とは意識された存在以外の何ものでもありえない。そして、人間の存在とは、彼らの現実的な生活過程のことである。もし人間と彼らの諸関係が、あらゆるイデオロギーにおいて、暗箱内でのように逆立ちして現われるとすれば、この現象は、人間の歴史的な生活過程から生じる」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.30」岩波文庫)

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「すなわち、人々が語ったり、想像したり、表象したりすることから出発するのではなく、また、語られたり、考えられたり、想像されたり、表象されたりした人間から出発して、そこから身体を具(そな)えた人間<へと>《のところに》至るのではない。現実<的な>《に活動している》人間たちから出発し、そして彼らの現実的な生活過程から、この生活過程のイデオロギー的な反映や反響の展開も叙述される。人間の頭脳における茫漠とした像ですら、彼らの物質的な、経験的に確定できる、そして物質的な諸前提と結びついている、生活過程の、必然的な昇華物なのである。道徳、宗教、形而上学、その他のイデオロギー《およびそれらに照応する意識諸形態》は、こうなれば、もはや自立性という仮象を<失う>保てなくなる。これらのものが歴史をもつのではない、つまり、これらのものが発展をもつのではない。むしろ自分たちの物質的な生産と<現実的な>物質的な交通<の中で展開していく>を発展させていく人間たちが、こうした自分たちの現実と一緒に、自らの思考や思考の産物をも変化させていくのである。意識が生活を規定するのではなく、生活が意識を規定する」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.30~31」岩波文庫)

BGM19

何度繰り返せば気が済むのかと思われるかもしれない。しかし次のマルクスの言葉は政治の基本を語っている。基本を動かしてはいけない。動いてもいけない。

「批判の武器はもちろん武器の批判にとって代わることはできず、物質的な力は物質的な力によって倒されねばならぬ。しかし理論もまた、それが大衆をつかむやいなや、物質的な力となる。理論は、それが《人間に即して》論証をおこなうやいなや、大衆をつかみうるものとなるのであり、理論がラディカル(根本的)になるやいなや、それは《人間に即して》の論証となる。ラディカルであるとは、事柄を根本において把握することである。だが、人間にとっての根本は、人間自身である」(マルクス「ヘーゲル法哲学批判序説・P.85」岩波文庫)

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