白鑞金’s 湖庵

元ノラ猫タマと愉快な仲間たちの日記・エッセイ・コラム。

自由律俳句──二〇一七年五月十二日(1)

2017年05月12日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇一七年五月十二日作。

(1)デスマスク請け負うビラがしおれている

(2)殺処分へ黒々と鴉の子

(3)リーズナブルな一日だった図書室へも日差し

(4)疎水をハープが付き添う

(5)梅の香も紫蘇の香も串が染み入る

☞「大学の樹立でもある近代科学技術の創設は、根拠律に基づくと同時に、根拠律の中で隠されたままになっているものの上で可能になったものであります。ハイデガーはことのついでといった形で、とはいえ、私たちにとっては見のがすことのできない二つの節において、近代的大学が根拠律の上に基礎付けられ、構築されていること、それが根拠律に基づいていることを語っています。しかし、近代科学の場である大学が『基礎の原理に基礎づけられている』としても、私たちが大学のどこかで根拠律そのものに出会うことは決してありませんし、大学のどこかで根拠律がその由来において思索され、問われ、問題にされることも決してありません。大学としての大学のどこにおいても、この呼びかけがどこから語りかけてくるのか、基礎と根拠が提供され、与え返され、引き渡されなければならない、というこの要求がどこからやって来るのか、が問われることはないのです。起源を<思索されないもの>にしてしまうこの隠蔽は、ハイデガーが通りすがりに或る種の賛辞を送っている近代的大学の発展──諸科学の進歩、活発な学際的研究、論争への熱中、等々──にとって、妨げになるどころか、むしろその反対です。けれども、近代的大学のそうした繁栄のすべては、一つの深淵の上に、ということはつまり、その基礎そのものが見えないもの、思索されないものにとどまっている一つの基礎の上に、展開されているのです」(デリダ「大学の瞳=被後見人」・「他者の言語・P.156~157」法政大学出版局)


BGM1

「<合目的化された>研究とは、それの現実的活用を《目ざして》(アリストテレスなら、実際的効用を目ざして、と言うところでしょう)、権力によって計画され、方向づけられ、組織化された研究のことです。現実的活用といっても、技術的、経済的、医学的、心理-社会学的、軍事的等々、さまざまなものがありますが、実際には、それらの全部が同時に問題になるのです。人々は、つい最近まで<応用>研究と言っていたものを、<合目的化された>研究と言っています。なぜなら、必ずしも直接に応用された研究ないし応用可能な研究でなくとも、研究というものは多かれ少なかれ遅延された形で、利益につながりうるものであり、実用化可能なものであり、合目的化可能なものだ、と人々も知るようになってきたからです。しかも問題は、もはや単に、これまで時に純粋研究の技術的-経済的、医学的、軍事的<副産物>と呼ばれてきたものにはとどまりません。合目的化の過程がいかに曲がりくねり、遅延され、さまざまの中継を経て引き継がれていくものであるか、またそれがいかに偶然を含んだものであるかは、今日、かつてないほど人を困惑させるものになっています。したがって人々は、あらゆる手段に訴えて、合理的に計算できる計画化の過程の中にそれらの点を取りこみ、統合しようと努めているわけです」(デリダ「大学の瞳=被後見人」・「他者の言語・P.158」法政大学出版局)

BGM2

「今日ではまた、研究の合目的化の中で、人が<高尚>だと考えたがるような諸計画、さらには人類にとって技術的に役立ちうるような諸計画でさえ、それらを破壊的な諸計画から区別することは不可能になっています。これは何も新しいことではありえませんが、しかし今日ほど、いわゆる基礎的学問の研究が、同時に軍事的目的でもある諸目的に合理的に関係づけられたことはかつてありませんでした。軍事的なものの本質そのもの、軍事工学の領域やその諸計画に要する費用の積算可能な範囲の境界といったものでさえ、もはや明確には限定しえないものになっています。世界中で一分間に二〇〇万ドルの軍事費が使われていると言われていますが、その際に計算されているのは、ただ純粋かつ単純な意味での兵器の生産費用だけだろうと私は思います。しかし、軍事的投資というものはそれだけにとどまるものではありません。なぜなら、軍事力ないし警察力、一般に(防衛的であれ攻撃的であれ)安全保障のための体制全体は、単に基礎的研究の<副産物>を利用するだけではないからです。高度テクノロジー社会においては、それは直接的にせよ間接的にせよ、国家的方途によるにせよそうでないにせよ、いっけん最も<合目的化>されていないように見える最先端の諸研究をさえ計画し、促進し、指揮し、それらに資金を供給しています。物理学、生物学、医学、生命工学、生物-情報理論、情報および電気通信などの諸分野において、それはあまりにも明らかなことです。研究の合目的化には限界がないということ、そこではすべてのものが技術的かつ道具的な安泰確保を<目ざして>機能するということ──この事実を考慮に入れるためには、電気通信と情報の分野を例にとれば十分でしょう。戦争と国家的および国際的な安全保障に奉仕するため、研究計画はまた、情報、すなわち知識の貯蔵、言語と全記号システムの機能、したがってまたそれらの本質、すなわち翻訳、コード化とコード解読、現前と不在の戯れ、解釈学、意味論、構造言語学と生成言語学、語用論、修辞学等々、あらゆる分野に関わってこざるをえません。私は以上の諸分野をわざと無秩序に挙げているのですが、最後に、文学と詩、芸術とフィクション一般を挙げておくことにしましょう。と言いますのも、それらのものを対象とする理論は、イデオロギー戦争においても、またしばしば生ずる指示(レフェランス)機能の異常における不規則性の実験としても、有用でありうるものだからです。それは常に、情報戦略、命令指示理論、指令的(ジュスイック)言表に関する最も洗練された軍事的語用論(たとえば、新しい電気通信工学において或る言表が命令の価値をもつことは、どんな記号の場合に認められるのか?模擬実験〔シミュレーション〕と模擬物〔シミュラークル〕との新しい資源をどのようにコントロールすべきか?といった問題)において役に立つことができるのです。社会学、心理学、さらには精神分析の理論的形式化も、そうしようと思えば容易に利用することができるでしょう。したがって、軍事予算というものは、その手段さえあれば、遅延された利益を目ざしてどんなものにでも投資されることが可能であり、いわゆる基礎科学の研究でも、人文学でも、文学理論でも哲学でも、それは同じなのです」(デリダ「大学の瞳=被後見人」・「他者の言語・P.160~161」法政大学出版局)

BGM3

「<実利的>諸計画と専門職業的合目的性から大学を守ろうとしながら、欲すると欲しないとにかかわらず、隠れた諸目的に奉仕し、階層的、階級的、職階的諸権力を再構成してしまうということも常にありうることです。私たちはここで、一つの容赦ない政治的地形図の上に立っているのであり、深化と根元化を目ざして一歩進むごとに、さらには、最深のもの、根元的なもの、原理的なもの、アルケーといったものを越えて、一種独特の無=根拠〔an-archie(無-アルケー)〕に向かって一歩進むごとに、階層制度(ヒエラルキー)を生産もしくは再生産するという危険を冒すことになるのです。私の言う<思索>が、根拠律と根拠律の彼方とを《同時に》、アルケーと無-根拠(=無-アルケー)とを同時に要求するのもまさにそのために他なりません。ほんの一息の違い、ただアクセントの置きどころの違いしかないこの二つのものの間で、すべての決定権はこの<思索>の《具体的遂行》にのみ属しています。ここでの決定は常に危険を孕んでおり、最悪の危険をさえ孕んでいますが、この危険を制度的計画によって消し去ろうとしても、それは自ら未来を閉ざすことにしかならないでしょう。と言いますのも、この<思索>による決定は、大学内部の出来事、アカデミックな一契機ではありえないからです」(デリダ「大学の瞳=被後見人」・「他者の言語・P.171」法政大学出版局)

BGM4

「この八世紀以上もの間、<大学>とは、或る社会によってその社会の一種の補完物〔代補体〕に与えられた名前であったと言ってよいでしょうが、この補完物を社会は、自らの外に投げ出そうとしながら、同時に恋々として自らの内に保持しようとしてきたのであり、解放しようと欲しながら、同時に管理しようと欲してきたのです。この二重の運動の故に、大学はまた、社会を《表現する》〔représenter(代行=再現前化する)〕ものだとも言われてきましたし、実際それを或る仕方で行なってもきました。大学は、社会の接近図、諸光景、諸葛藤、諸矛盾、戯れと諸差異、そしてまた一つの全体への有機的統合の欲望といったものを再現してきたのであり、<近代的>大学論において、有機体論的言語が<技術的-産業的>言語に常に結びついていたのもそのためです。けれども、この大学という人工物が、技術的装置のような、また機械や人工補整器(身体の上に付加的に-置かれた物体)のような相対的自律性をもって、《社会》を《反映》してきたのは、社会に反省(réflexion)の機会(シャンス)を、すなわち《解体》〔非社会化〕の機会を与えることによってでしかありませんでした。ここで反省の時と言いますのは、大学という装置の内的リズムが社会的時間から相対的に独立していて、それが後者の要求の緊急性を緩和するとか、この要求に、豊富かつ貴重な戯れの自由、冒険(シャンス)のための空虚な場所、内ポケットのような陥入部を確保してやるとか、単にそういうことだけを指しているのではありません。反省の時とは、言葉のあらゆる意味でのréflexion(反射、反映、反省)の諸条件そのものにまで立ち帰っていく機会でもあり、それはちょうど、新しい視覚装置の助けによって、見ること自体が見えるようになる、つまり、ただ自然の風景や街や橋や深淵が見えるだけではなく、見ること自体の中に貫入する(テレスコペ)ことができるようになる、そういう時に似ています。それはまた、聴覚装置を通じて聴くこと自体を聴くようなもの、言いかえれば、聴き難いものを一種の詩的電話術(テレフォニー)によって捕えるようなものです。してみますと、反省の時とは言わば<もう一つの時間>、自らが反省(反射、反映)するものとは異質の時間なのであり、思索を呼びかけると共に思索と呼ばれるもの(ce qui appelle et s’appelle la pensée)の時間も、おそらくはそれによって与えられるのです。反省の時とは、或る出来事のための機会、それが大学の中で生じ、大学の歴史に属するのかどうか、誰も知らない或る出来事のための機会です」(デリダ「大学の瞳=被後見人」・「他者の言語・P.172~173」法政大学出版局)

BGM5

ハイデッガーへ繋いでおこう。

「自然についての近代物理学理論は、先駆者であるとはいえ、まずもって技術の先駆者であるというのではなく、現代技術の本質の先駆者なのである。というのは、用立てる開蔵へと挑発しつつ収集することは、すでに物理学のうちにも存するからである。しかし、そのことは物理学のなかではまだことさらに輝き現れてはいない。近代物理学は、その由来に関してまだ知られていない<集-立を先触れする使者>なのである。現代技術の本質は長いだいだ伏蔵されたままである。すでに動力機械が発明され、電子技術が軌道に乗り、原子力技術が始動しているところでも、なお伏蔵されているのである」(ハイデッガー「技術への問い・P.39」平凡社ライブラリー)


BGM6

「現代技術のそれにかぎらず、本質を発揮するあらゆるものは、いたるところでもっとも長期間にわたって伏蔵されつづける。それにもかかわらず、それは、その支配という点に関しては、すべてに先行するもの、もっとも早いものでありつづける。このことをすでにギリシアの思索者たちは知っていた。だから彼らはこう言ったのである。支配しつつ立ち現れることに関していっそう早いものは、われわれ人間にとっては、ようやく後の世になって明らかになる、と。人間には原初的な早初はようやく最後になって示される。だから、思索の領域では、原初的に思索されたものをいっそう原初的に徹底的に思索しようという努力は、過去のものを復活しようという不合理な意志ではなく、早初の到来に直面して驚愕すべく冷静に心構えすることなのである」(ハイデッガー「技術への問い・P.39~40」平凡社ライブラリー)

BGM7

「到来に直面して驚愕すべく冷静に心構えする」、とある。ニーチェに置き換えればこうなる。

「『統一』として意識されるにいたるすべてのものは、すでにおそろしく複合化している。私たちはつねに《統一の見せかけ》をもつにすぎない」(ニーチェ「権力への意志・第三書・四八九・P.33」ちくま学芸文庫)


「私たちは、後を追って継起する規則的なものに馴れきってしまったので、《そこにある不思議なものを不思議がらないのである》」(ニーチェ「権力への意志・第三書・六二〇・P.153」ちくま学芸文庫)

BGM8

NHK国会中継における与野党の存在価値について。れっきとした市民であり同時に一般視聴者としては、今までのところ、議会にはまだ次の言葉が似合うとしか言えない。

「残酷さは傷つけられた誇りをいやす薬である」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・四五五・P.273」ちくま学芸文庫)

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