白鑞金’s 湖庵

元ノラ猫タマと愉快な仲間たちの日記・エッセイ・コラム。

辺野古訴訟で沖縄県の敗訴確定 最高裁が判決(1)

2016年12月20日 | 日記・エッセイ・コラム

20日朝日新聞から。

辺野古訴訟で沖縄県の敗訴確定 最高裁が判決

米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古への移設計画をめぐり、埋め立ての承認を取り消した沖縄県の翁長雄志知事を国が訴えた訴訟の上告審判決で、最高裁第二小法廷(鬼丸かおる裁判長)は20日、県の上告を退けた。県の敗訴が確定した。
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オスプレイ墜落事故を受けて出てきた米軍の発言。あの居直り発言によって逆に事態は誰の目にも明確化されたように思われる。カウツキーのような人間。それはどこにでも当り前のように居るということだろう。むしろ、日米安保体制の中ではそのほうが多いのかも知れない。

「つぎにあげるのは、マルクス主義を売淫させるもう一つの見本だ!『民主主義的ロシア』は、ヨーロッパ東部の諸民族の自由への渇望をもえたたせるであろう(これはあらそう余地のないことだ)《から、それだから》、一つの民族をも解放することなく、結末のいかんにかかわらず、多くの民族を奴隷化するこの今日の戦争が『純粋な』帝国主義戦争ではないのだそうだ。『ツァーリズムの崩壊』は、オーストリアにとっては、その民族的構成の非民主的な性格のために、オーストリアの没落を意味することになるであろう《から、それだから》、オーストリアを略奪し、オーストリアの諸民族を《さらにいっそう》圧迫することによって、一時的に強化された反革命的ツァーリズムは、『今日の戦争』に、純粋に帝国主義的な性格ではなく、ある程度、民族的な性格をあたえたわけである。『支配階級』は、帝国主義戦争の民族的な目的についてのおとぎ話で、頭のわるい小市民とうちひしがれた百姓どもをだましているのだ《から、それだから》、この科学者、この『マルクス主義』の権威者、この第二インタナショナルの代表者が、支配階級には帝国主義的傾向があり、『人民』とプロレタリア大衆には『民族的な』渇望があるという『公式』によって、大衆にこの欺瞞をうけいれさせるのも、もっともである。弁証法は、もっとも卑劣な、もっとも低級な詭弁に転化しているのだ!」(レーニン「第二インタナショナルの崩壊」・「第二インタナショナルの崩壊 他・P.68」国民文庫)


BGM1

「現在の戦争における民族的な要素は、《ただ》、オーストリアにたいするセルビアの戦争によって代表されている《だけ》である(これは、とくに、わが党のベルン会議の決議で指摘されているところである)。ただセルビアにだけ、セルビア人のあいだにだけ、幾百万の『民族の大衆』をとらえている長年にわたる民族解放運動があり、オーストリアにたいするセルビアの戦争は、この運動の『継続』なのである。そして、もしもこの戦争が孤立したものであれば、つまり、全ヨーロッパ的な戦争とむすびついておらず、イギリス、ロシア、その他の貪欲な侵略的な目的とむすびついていないならば、そのときにはすべての社会主義者はセルビアの《ブルジョアジー》の勝利を希望する《義務がある》だろう、──これが、現在の戦争における民族的な要素からひきだしうる唯一の正しい、そして絶対に必要な結論である。だが、現在、オーストリアのブルジョア僧侶や将軍どもに仕えている詭弁家カウツキーは、まさに、この結論をひきだすことをしないのだ!」(レーニン「第二インタナショナルの崩壊」・「第二インタナショナルの崩壊 他・P.68~69」国民文庫)

BGM2

「さらにさきへすすもう。科学的=進化的な方法の最新の思想であるマルクスの弁証法は、ほかでもなく、対象を孤立的に、すなわち一面的にかつ奇形的にゆがめて観察することを禁じている。セルビア=オーストリア戦争の民族的な契機は、全ヨーロッパの戦争のなかで、《すこしも》重大な意義をもっていないし、またもつことはできない。もしもドイツが勝てば、ドイツは、ベルギーを、さらにポーランドの一部を、ことによるとフランスの一部その他を、しめころすであろう。もしもロシアが勝てば、ロシアは、ガリツィアを、さらにポーランドの一部、アルメニアその他を、しめころすであろう。もしも『引分け』となるならば、これまでの民族的な圧迫は、そのままのこるであろう。セルビアにとっては、すなわち現在の戦争の参加者のおよそ百分の一にとっては、この戦争は、ブルジョア的解放運動の『政治の継続』なのである。百分の九十九にとっては、この戦争は、帝国主義的な政治の、すなわち、諸民族を汚辱することはできるが、これを解放する能力はない老衰したブルジョアジーの、政治の継続である。三国協商は、オーストリアの略奪をイタリア帝国主義に援助してもらうかわりに、セルビアを『解放』して、セルビアの自由の利益をイタリア帝国主義に《売りわたしている》」(レーニン「第二インタナショナルの崩壊」・「第二インタナショナルの崩壊 他・P.68~69」国民文庫)

「セルビアの自由の利益をイタリア帝国主義に《売りわたしている》」。では今回の裁判長は実質的に、「沖縄の自由の利益をアメリカ帝国主義に《売りわたしている》」、ということになるのか。単純に裁判長個人の思想/信条にのみ問題を見ようとしてしまっては全体の繋がりを見失ってしまうことになるだろう。しかし、「全体」とは一体何なのか。茫洋としていてよく見えてこない。が、沖縄基地問題は、戦争と政治は切っても切れない関係に置かれた世界的重要課題であるに違いない、という点については疑う余地がないことを証明した。

「『純粋な』現象というものは、自然にも社会にも《ない》し、またありえない、──これについては、ほかならぬマルクスの弁証法がおしえており、純粋という概念そのものが、対象をそのあらゆる複雑さにおいてあますところなく把握するものではないところの人間の認識の、ある狭さ、一面性をわれわれにしめしている。この世には『純粋な』資本主義というものはないし、またありえない。あるのは、つねにあるいは封建制、あるいは小市民的関係、あるいはさらになにかを《まじえたもの》だけである。だから、赤裸々な略奪目的を『民族的な』美辞麗句で故意におおいかくしている帝国主義者が『民族の大衆』を驚くばかり欺瞞していることが問題となっているときに、この戦争は、『純粋な』帝国主義戦争ではない、と言いだすことは、底ぬけにおろかな学者ぶりであるか、三百代言や詐欺師であることを意味する。問題の核心は、まさにつぎの点にある。すなわち、カウツキーは、『人民大衆にとって、またプロレタリア大衆にとって、決定的な意義をもっていた』のは、民族問題であるが、《しかし》、支配階級にとっては、『帝国主義的傾向』(二百七十三ページ)がそうであったと述べ、また『無限に多様な現実性』(二百七十四ページ)をいかにも弁証法的にひきあいにだすことによって、右の見解をうらがきして、帝国主義者が人民をあざむくのを《支持している》という点である。うたがいもなく、現実は無限に多様である。これは、不滅の真理である!だが、この無限の多様性のなかには、二つの主要なそして根本的な流れがあるということもまたうたがいない。すなわち、戦争の客観的な内容は、帝国主義の『政治の継続』であること、つまり『大強国』の老衰したブルジョアジー(およびその政府)が他民族を略奪する『政治の継続』であること、『主観的な』支配的イデオロギーは、大衆を愚弄するためにふりまかれている『民族的な』言辞であることの、二つである」(レーニン「第二インタナショナルの崩壊」・「第二インタナショナルの崩壊 他・P.70~71」国民文庫)

BGM3

「『純粋な』現象というものは、自然にも社会にも《ない》し、またありえない」「純粋という概念そのものが、対象をそのあらゆる複雑さにおいてあますところなく把握するものではないところの人間の認識の、ある狭さ、一面性をわれわれにしめしている」「この世には『純粋な』資本主義というものはないし、またありえない。あるのは、つねにあるいは封建制、あるいは小市民的関係、あるいはさらになにかを《まじえたもの》だけである」等々。関連がありそうな箇所を拾って行こう。

「人間が立ちむかうのはいつも自分が解決できる課題だけである」(マルクス「経済学批判-序言」・「経済学批判・P.14」岩波文庫)


BGM4

「人間は、自分で自分の歴史をつくる。しかし、自由自在に、自分で勝手に選んだ状況のもとで歴史をつくるのではなくて、直接にありあわせる、あたえられた、過去からうけついだ状況のもとでつくるのである」(マルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日・P.17」国民文庫)


BGM5

「これらの個人が自分たちの頭のなかにつくるところの表象は、彼らの、自然にたいする関係にかんする表象であるか、さもなければ彼ら相互間の関係にかんする表象であるか、さもなければ彼ら自身の性質や状態にかんする表象であるかのいずれかである。これらすべての場合にこれらの表象が彼らの現実的な関係と活動、彼らの生産、彼らの交通、彼らの社会的および政治的組織の──現実的もしくは幻想的な──意識的表現であることは明らかである。逆の想定は、現実的な、物質的に条件づけられた諸個人の精神以外になおなにか別個の精神が前提される場合にのみ可能である。これらの個人の現実的関係の意識的表現が幻想的であり、彼らが彼らの表象のなかで彼らの現実を逆立ちさせるとすれば、これもまた彼らの限られた物質的な活動様式とそこから生じる彼らの限られた社会的関係の一帰結である」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.50~51」国民文庫)


BGM6

「諸観念、諸表象の生産、意識の生産はさしあたりはじかに人間たちの物質的活動と物質的交通──現実的生活のことば──のうちへ編みこまれている。──人間たちが彼らの諸表象、諸観念等々の生産者であるが、しかしこの場合、人間たちというのは彼らの生産力とこれに照応する交通とのある特定の発展によって、交通のいちばん果ての諸形成態にいたるまで条件づけられているような、現実的な、はたらく人間たちのことである。意識〔das Bewusstsein〕は意識された存在〔das bewusste Sein〕以外のなにものでありうるためしはなく、そして人間たちの存在とは彼らの現実的生活過程のことである」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.51」国民文庫)

BGM7

一九二一年秋のロシア。いわゆる「戦時共産主義」の時期が終わりに近づき、内戦に限ればほぼ見通しが付いてきた頃。軍事の次は、戦争で消耗した経済を新しく建設しなくてはならない。むしろボリシェヴィキと、そしてもっともなことだがロシア国民にとって、戦争で疲れ果てた後だとはいえ、その直後に襲ってくることがわかりきっていた課題、「ネップ=新経済政策」を予定通りの路線に乗せていくために全力を傾けるほうが、軍事行動そのものよりも遥かに困難だったように思える。この、ロシア全土にわたる経済政策のための徹底的教育。その困難さを想定しつつレーニンは軍事の後の教育の重要さをこう喩えて述べている。

「赤軍では何ヶ月もの集会時代を経て、軍規は旧軍隊の軍規におとらないまでになった。赤軍では、銃殺もふくめて、厳格で、峻厳(しゅんげん)な措置、以前の政府さえとったことのないような措置がとられている。俗物どもは書きたて、叫びたてた。『そら、ボリシェヴィキは銃殺を実施した』と。われわれはこうこたえなければならない。『いかにも、われわれはそれを実施した。しかも、まったく意識的に実施した』と。われわれはこう言わなければならない。われわれをほろぼしたいとおもっている人々、しかもわれわれの考えでは彼らこそほろびなければならないその人々がほろびるか、──そのばあいには、わがソヴェト共和国は生きのこるであろう──、それとも、その反対に、資本家が生きのこって、共和国がほろびるか、二つに一つである。貧困化した国では、ひきしめて働くことのできない人間がほろびるか、それとも労農共和国がほろびるか、どちらかである。ここでは選択の余地はなく、またありえない。それは、どんな感傷もあってはならないのと同じことである。戦争では、感傷は一身の安全をはかるのにおとらず罪悪である。現在、軍規の秩序にそむくものは、味方のなかに敵を引きいれるものである。だからこそ、新経済政策は教育という面からみても重要なのである。諸君はこの席で、どう教育するか論じている。諸君は、半端(はんぱ)な教育しか受けないものはここに席を占めるわけにはいかない、と言うようにならなければならない。共産主義が実現されたなら、教育はもっとおだやかになされるであろう。だが、いまのところは教育は峻厳でなければならない、それがいやならほろびるまでである」レーニン「新経済政策と政治教育部の任務」・「レーニン全集33・P.59」大月書店)

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