白鑞金’s 湖庵

元ノラ猫タマと愉快な仲間たちの日記・エッセイ・コラム。

自由律俳句──二〇一七年五月十六日(2)

2017年05月17日 | 日記・エッセイ・コラム

使えるかどうか。使えたとしても有効かどうか。しかし、有効である、とは一体どのような状態を指して言うのだろうか。法と国家の問題。「予定調和」への違和感。

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「法と国家との間にいわば『予定』《調和》があるからといって、両者が根本的に《同一》だということにはならない。なぜならこの調和は、激しい争いへと変わりうるからである。これは、歴史的経験が示すところである」(コジェーヴ「法の現象学・P.237」法政大学出版局)


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「それはなぜかというと、社会や国家は現実存在するために法を必要とするとはいえ、それらはどんな法とも調和するわけではないからだ。同様に、法は社会や国家を必要とするとはいっても、法はどんな社会や国家とも調和するわけではない。場合によっては、社会は、ある所与の法を『反社会的』とみなすことがあるし、国家は、ある法を政治的に有害だと考えることがある。逆に、ある所与の法も、ある一定の社会や国家を『不当』だとすることがある。こうした場合、法を顕在化しようとする傾向と、社会や国家を現実存在させ続けようとする傾向とが衝突するだろう」(コジェーヴ「法の現象学・P.237」法政大学出版局)

「衝突」は目に見えることもあるが、一般大衆の目には、見えないところで処理されることもある。

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「そして法は、極限では、『世界は滅ぶとも、正義は行われしめよ』(Fiat justicia,pereat mundus)の原則を採りうるだろう。したがって、国家は、政治的にまたは『社会的に』有用な法だけを支持するし、法は、法的に『正当な』または『適法的な』国家だけを支え、自らにかなった社会の目的だけを擁護するだろう」(コジェーヴ「法の現象学・P.237」法政大学出版局)

一般的には知らされないまま処理され得る「法」が問題化している。「秘密保護法」。スターリニズム的保守陣営にとっては喉から手が出るほど欲しい。が、対立するもう一方の陣営にしても、もし政権政党と化した場合、名称を取り替えただけで我が物にしてしまう怖れは十分ある。差し当たりコジェーヴを見て行こう。

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「ところで、こうしたことによってはっきりと示されるように、法的領域と政治的領域とは互いに自律的な領域である。『正常な』場合には法は国家的であるし国家は適法的であるという事実は、法と国家とが全く同じものだという証明にはならない。なぜなら、もし法と国家とが全く同じものであるとすると、両者が対立しあうことはありえないだろうからだ」(コジェーヴ「法の現象学・P.237」法政大学出版局)

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「特殊に人間的な存在は、ホモ・サピエンスという動物から、ある種の欲望(Begierde)を満足させる顕在的行為(これは定義によって自由なものである)のなかでかつそれによって創造される。この欲望とは、欲望として捉えられたある別の欲望を対象とするものだ。もっと正しく言うと、人間はこの顕在的行為として創造され、人間の特殊に人間的な存在とは、この顕在的行為そのものにほかならない。人間の真の《存在》とは、その《行為》である」(コジェーヴ「法の現象学・P.273」法政大学出版局)

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「だから、他の欲望を対象とする欲望は、《人間発生的欲望》(désir anthropogène)と呼んでよい。こうした欲望が現われたとたんに(われわれが考えるところでは、こうした欲望は、ホモ・サピエンスという動物種に属する者においてのみ現われうる)、人間は潜在的に現実存在する。この欲望は潜在的な人間《である》。そして、この欲望は、人間の潜在態である。なぜなら顕在的人間とは、この欲望の実現または満足(Befriedigung)にほかならないからだ」(コジェーヴ「法の現象学・P.273」法政大学出版局)

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「この実現や満足は、この欲望によって生み出される行為のなかでかつそれによって達成される。だから、人間を誕生させるのはこの欲望であり、またこの欲望こそが、人間が自らを満足させるために生み出す行為によって、人間を人間存在として生きさせ進化させるのだ」(コジェーヴ「法の現象学・P.273~274」法政大学出版局)

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「およそ動物的または『自然的』欲望は、現実的本体を対象とする。この本体は、欲望する存在の外の時空において現前するが、この欲望する存在そのもののなかにはないとみなされる。だから欲望とは、不在の現実的現前である。それは、充満のなかで維持されるすきまであり、またすきまとして消え去ろうとすることで、つまり欲望を実現しまたは満足させる行為によって自らを満たそうとすることで無化するすきまである」(コジェーヴ「法の現象学・P.274」法政大学出版局)

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「したがって、欲望を欲望するとは、不在、非現実的本体を欲望することであり、(物質的)現実によって満たされた時空のなかのすきまを欲望することだ。そして、この欲望を実現するまたは満足させるとは、つまりこの欲望を満足させることで自分自身を実現するとは、あるすきまを別のすきまによって『満たす』ことであり、ある不在を別の不在によって『満たす』ことである。だから、人間存在の真の存在が、欲望への欲望がそのなかでかつそれによって満たされまたは実現される行為であるとすると、この存在とは、自然的世界におけるすきま、すなわち物質的現実によって満たされている時空におけるすきまにほかならず、この存在それ自身が不在の現前である」(コジェーヴ「法の現象学・P.274」法政大学出版局)

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「次のように言ってよいだろう──人間的発生的欲望によって自然的世界のなかに創造されるすきまは、人間的または歴史的世界によって満たされる、と。しかし、忘れてならないのは、人間そのものが、自然的世界のなかのすきま、つまり自然が現実存在しない何ものかにほかならないということだ。なるほど、人間は自然のなかに現前すると言わねばならない。しかし、次のように付け加える必要がある──人間とは、不在の現前、自然一般の人間における不在の現前、そしてとりわけホモ・サピエンスなる動物の人間における不在の現前にほかならない、と」(コジェーヴ「法の現象学・P.274」法政大学出版局)

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「このホモ・サピエンスなる動物は、もし人間が、欲望への欲望の満足によって人間存在として構成されないならばそうであったはずのものだ。したがって人間は、自然や、人間を支える役割をする動物とは本質的かつ根本的に別物である。人間とは、こうした動物や自然の不在であり、それらの無であり、それらの否定であるから、それらに対して独立しており、自律的または自由である。まさにその理由で、私は、欲望への欲望を満足させる顕在的行為は定義により自由であると言ったのだ」(コジェーヴ「法の現象学・P.274~275」法政大学出版局)

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「衝突」は目に見えることもあるが、一般大衆の目には、見えないところで処理されることもある。と、ついさっき述べた。先日引用したような事態を想定しておこう。

「『おまえの言うとおりかも知れねえ。グエン・タン・ミンは非合法員として生きるのが怖くなったのかも知れない』神代恒彦は消音器を装着したままS&Wをバッグの中に押しこんだ。『しかし、やつの人生は終わってるんだ。生きるんなら、おれたちのように生きる以外にない──』」(船戸与一「非合法員・P.35」徳間文庫)

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